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シーナの家と専門学校、レーヴと鞠村の勤め先である桑井商事の本社は、それぞれを対角線にした、少し歪な菱形になる。
学校への行き帰り、レーヴへ出勤しない日は、桑井商事の前を通るようになった。遠回りにはなるが、寝坊さえしなければ、余裕で歩ける道のりだ。散歩がてら、高層ビルを見上げて通り過ぎる。
時間がずれているのか、鞠村に会うことはなかった。鞠村の片思いの相手にも。昼間に行けば、前回のようにばったり遭遇するかもしれないが、向こうはレーヴの人間に会いたくないだろう。シーナと鞠村は、他人には説明できない間係だ。
あの晩以来、鞠村はレーヴに来ていない。名刺入れも、シーナの手元にあるままだ。
「ストーカーかよ、俺」
かっこ悪いを通り越して気持ち悪い。なにに執着しているのか、自分でもわからない。
レーヴにやってくる客は様々だった。
会員制で身元を確認した客しか受け入れていないとはいえ、彼らの性癖は幅広い。ほとんどはβの男性で、年配客が多いが、若い男も少なくない。あっちのほうも強い人も、そうでもない人もいる。発情期でない時には、人の温もりを求めて、ただベタベタと抱き合って終わりという者も。
シーナが抱いた客は鞠村が初めてだが、先輩スタッフからはβの客を抱いたことがあるという話も聞かされた。
色恋を売ることを仕事にしていると、見えないなにかがすり減っていく。それが自分にとって大事なものかどうかは、シーナにはわからないが。
「うっそ」
レーヴへ出勤する前、駅近くのコンビ二によると、中には会社帰りと思しきスーツ姿の鞠村がいた。シーナに気づいた鞠村が、大きく目を見開いている。
「え、あ、シーナさん?」
「うん、本名だから」
「そう、なんですか?」
本名すら知らない間柄って、なんだよ。自分で思っておかしくなる。鞠村はよせばいいのに、年下のシーナ相手にも敬語だった。指摘しても直らないので、シーナもそのままでいた。
「あ、そうだ、これ」
カバンの底を探って、ビニール袋に入ったままの名刺入れを取り出す。
「前に来たときに、忘れていったでしょ」
「あ、あそこにあったんですか。すみません。ありがとうございます」
親しいような、よそよそしいような、シーナと鞠村の間に流れる微妙な空気が、店内の注目を集めていることに気づく。短いシルバーヘアにピアス耳、革ジャン姿のシーナと、新人サラリーマンを絵に描いたような、眼鏡をかけた鞠村。
「外、出ませんか」
なにも買わずにコンビニを後にして、すっかり暗くなった街を歩く。
「シーナさん、お時間少しだけありますか? よかったら、一緒にコーヒーでも」
「うん」
コーヒーなんて、スタッフならレーヴではただで飲める。でも、どうにも離れがたくて、連れ立ってチェーン店に入った。
「なんだか、おかしな感じですね」
「店の外で会ってるから?」
「はい。なんていうか、いけないことしてるような」
「別に。なんにも悪くないんだけど」
鞠村は歯切れが悪かった。言いたいことがあるのに、切り出せない。そんな気がして、シーナの方から切り出した。
「名刺入れ、勝手に中見ちゃった。ごめん」
「いえ。いいんです。忘れてしまった僕が悪いので」
力なく笑う姿が寂しげで、つい、口に出していた。
「好きな人、いるんだろ」
言った瞬間にはもう後悔していたが、口をついて出た言葉は取り消せない。
「どうして、それを……」
口もとに手を当てて絶句する鞠村は、いまにも泣き出しそうに見えた。
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