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「ごめん。これ、俺のほうが謝らなきゃ、いけないんだけど」
言いにくいことを話す時、耳のピアスをいじってしまうのがシーナの癖だった。
あの晩に拾った名刺入れを、店に届けるのを忘れたこと。桑井商事の本社ビルが、家からも学校からも近い住所だったので、ふらふらと通りかかったことを、つっかえながら伝えた。
「ああ。見られて、いたんですね」
「ごめん。つきまとうとか、そういうつもりはなかったんだけど。でも、ダメだよな。俺が、悪かった」
「いえ。いいんです」
鞠村の手がスプーンを持って、ブレンドコーヒーを掻き混ぜる。褐色の水面に白い渦ができる。くるくる、くるくる、ゆるい円を描いて、静かに消えていく軌跡を、鞠村はずっと眺めていた。
「あの人、αなんだろ?」
第二の性は外見で必ずしも判断できるわけではないが、なんとなく見当はつく。この人はαっぽいとか、Ωっぽいとか。もちろん、自分の属性らしくない外見の者も少なくない。
シーナも男にしては華奢な体つきだが、いきがった不良少年もどきの外見のため、ぱっと見ではΩには見えない。
「そう、ですね。幹部候補で入社した新入社員は、研修をかねて全部の部署を経験するんです。彼、同期で御薗生っていう名前なんですが、今日で僕のいる総務は終わりで、来月からは各地の支社を転々とするんです。再来週までは本社にいるんですが、ちゃんと、お別れの挨拶してきました。あのとおりの人ですから、うちの課の女子社員は騒ぎになって大変でしたよ」
鞠村の淡々とした口調に、塞き止められて溢れんばかりの激情が滲む。
「だったら、どうして」
どうして、レーヴに来た?
シーナを指名したりした?
「……怖いじゃないですか」
「怖い?」
初めて会った時から、鞠村はひどく初心で物慣れない感じがした。わりと抑制剤が効く体質だとかで、発情期の間も薬を飲んで自宅に引きこもっていると言っていた。
「シーナさんは、安心できたんです。僕にとっては」
「Ωだから?」
「そう。Ωだから」
同じΩ同士だから、わかってもらえるという部分は、たしかにある。
「御薗生は、社内で一番有名な新人です。入社前から、話題になってたくらい。同じ部署にいられた時は、すごく嬉しかったです。αの人はみんな、なんとなく威圧感があって、見下される気がして苦手だったけど、彼は違った。αでも、こんな人もいるんだって」
「だったら、」
なにを躊躇するのか。どうして、シーナで埋め合わせようとするのか。
「言えませんよ。αだから言えない。うちの会社は、ちらほらとΩの社員もいるんです。特別枠の採用があるので。御薗生の番になりたいって、Ωの女性も男性も、切実に思っています。それを押しのけて、僕がでしゃばるだなんてそんなこと、とてもできないですよ。職場の同僚で十分です。それ以上、僕みたいなのが求めちゃいけない」
「Ωだって、幸せになっていいんだよ」
「そうですね。だから、もっと御薗生に相応しい人が」
鞠村の横顔をじっと見つめる。無性に腹が立った。お人好しを通り越して、馬鹿だと思った。
「あのさ、本当にそれでいいわけ?」
「いいもなにも、始めからなにも始まってるわけじゃない」
「その彼が、鞠村さんのことを、どう思っているかも聞いていないじゃん」
「どうもこうも、そんな」
「あ~~、もうっ! 焦れったいってば」
座ったままその場で地団駄を踏んだシーナは、テーブルに手をついて、向かいの鞠村に迫った。
「いい? 俺が手伝うから、ちょっと確かめてみようよ。彼が、どう思っているかって」
なにかと理由をつけて尻込みする鞠裏をの手をつかむ。傍から見ると、ヤンキーが恐喝しているようだが、当人たちはに周囲を見渡す余裕はない。
「やってみなきゃ、わかんないから。駄目元で当たって砕けようぜ」
「……」
鞠村が乗り気じゃないのはわかっている。でも、ここでお節介をやかないと、ずっと後悔しそうだとシーナは思った。
計画は綿密に練った。
思いついたはいいものの、実行するには障害が幾つもあった。
シーナと鞠村は頻繁に連絡を取りあって、その日を迎えた。
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