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どこかで車のクラクションが鳴っている。まだ早い時間なのに、すっかりできあがった酔漢の音が外れた熱唱が聞こえてくる。
シーナは無地のキャップを目深にかぶりなおした。
普段から、なるべくΩに見えない格好を意識している。だが、αの中でも一部の者は、匂いでΩを識別するという。用心のために、ハイネックセーターの下には保護用の首輪をしてある。シーナは運命の番との出会いを求めてはいるが、意に沿わない相手に無理矢理にされるのは勘弁だ。
色とりどりの灯りに彩られた賑やかな大通り。歩調を合わせて歩く鞠村と御薗生は、いい雰囲気に見えた。
「いつも、ごめんなさい。遠回りになるのに、わざわざ送ってもらって」
残業や飲み会で帰りが遅くなると、さりげなく家まで送ってくれるのだと、鞠村ははにかみながら話していた。御薗生はやさしい。さりげなく気配りができて、押しつけがましくなくて、頼ってしまいそうになるのだ、と。
「気にするなって。どうしても運動不足になるから、歩くのにちょうどいいっていう俺の都合だよ」
「ありがとう」
年頃のΩは、一般の女子よりも庇護が必要な存在だ。一人で夜道をそぞろ歩くのもままならない。シーナにとっては窮屈で仕方ないが、ろくに自分の身も守れない以上、自衛するしかない。
「こっちに戻ってくるとわかっていても、いざ異動になると、やっぱり寂しいもんだな」
警戒されない程度の距離を保って、うしろを歩いていると、鞠村と御薗生の微妙な空気を感じる。
御薗生はけして、鞠村を疎んじているわけではない。ある程度の好意がなければ、こうして親しく接することはないはずだ。同期としての友情か、それ以上の思いがあるのかは、傍で見ているだけのシーナにはわからないが。
もっと押してみればいいのに、と歯がゆく思う。
御薗生にしても、まんざらではないはずだ。淋しさをこらえて歯噛みするくらいなら、もっと迫ってみればいいのに。もっとも、それができないΩのほうが多いだろうけど。
「頑張ってって、背中を押すべきだって、わかってはいるんだけど。僕も、淋しい。早く、本社に帰ってこられるといいね」
「ああ」
高層ビルが立ち並ぶ大通りを一本それると、がぜん暗い道になる。マンションは十階建てから三階建てに。門構えの立派なお屋敷から、ありふれた建て売り住宅に。
さらにゆるやかな坂道を下っていくと、門扉の壊れた空き家、極端な狭小住宅、学生向けの寮、古ぼけたアパートと様子が移り変わっていく。
住人の懐具合を反映した街並みだが、都心に近く、アクセス抜群のため、好んでこのあたりに住む者も少なくない。
シーナもあれから一度、鞠村のアパートに招いてもらった。前の住人もΩだったため、見た目は垢抜けないが、防音や防犯はばっちりで住みやすいという。ちなみに前の住人は、人も羨む玉の輿に乗って、いまでは豪邸住まいだそうである。
目に見えて、人通りが減っていく。シーナも二人と距離をとる。暗がりで尾行しにくいが、足音にさえ気をつければ、こちらのことも見えにくいはずだ。
まだだろうか。
まだ、薬は効いてこないのか。
はやる気持ちを押さえ、電柱の影に身をひそめて、鞠村と御薗生を目だけで追う。
そろそろ効き目があってもいい頃だ。鞠村のアパートまで、あと五分。ここまできて、肝心なところで、成果が出せないのかと焦る。
促進剤を使うべきか。だが、経口薬なので、うまく飲みこむ必要がある。隣を歩く御薗生に不審がられることなく、二つ目の薬を飲まなけれなならない。
(まだなのか。もう、ついてしまうのに……)
シーナが祈るような気持ちで見守っていると、急に鞠村の歩くペースが落ちてくるのがわかった。足がもつれたようになって、ブロック塀にもたれかかる。
「どうした? 具合悪いのか?」
「いえ、そんなことなくて、」
「熱でもあるのか、鞠村?」
御薗生は手を伸ばして、鞠村の額に触れる。幼児を気遣うような仕草に、影から見守っているだけのシーナのほうが心臓を押さえてしまう。
「だ、だめっ、離れて!」
「……ん?」
鞠村の態度が豹変する。
頭に手を当てて、その場にしゃがみこむ。自分の体を自分で抱きしめるように丸くなる。これ以上はないくらい縮こまって、必死に首を振った。
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