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「……その節は、大変お世話になりました」
後日、シーナは、鞠村から食事の招待を受けた。
レーヴでの勤務を考慮して、日曜の昼に中華料理店の個室に呼ばれた。少し張りこんだコース料理は、見た目にも美しく、食欲をそそる匂いが漂っている。
「いやいや。鞠村さんの役に立てて、よかったよ。無事に、番になれるのも見届けたしね」
「そ、それは、忘れてください……」
消え入りそうな声でつぶやき、肩を落とす鞠村は愛らしい。愛情をたっぷり注がれている者特有の、安定感のようなものがある。
「これ、うまいなー。エビチリ? 辛くてうまい。で、こっちのクレープみたいなのは?」
「北京ダックですね」
「へえ。俺、食べたことないんだよね。これが噂の北京ダックかあ。……ん、うまいね。高級なのに、あんまり気取った味じゃないっていうか」
クレープ状の生地に照り焼きのような肉と野菜を挟む。鞠村に言われたままに巻いて頬張る。
「お口にあってよかったです」
「ビール欲しくなるなあ」
「頼みますか?」
「いや、このあと、仕事あるからやめとく。く~、マジ残念」
「すみません。昼間じゃないほうがよかったですね」
「いや。俺も平日は一応学生やってるから、週末のほうが助かる」
中華といえば、ラーメン、餃子、チャーハンの三種類しか思い浮かばないシーナだが、皿に並ぶ料理はどれも美味しくて、次々と平らげていく。グルメなんてまるで理解できないが、美味しいものは美味しい。不変の真理だ。
そんなシーナの様子を、鞠村は笑顔で見守っている。
「御薗生は先週、転勤だったんです。半年から一年かけて全国各地を転々とするって。なかなか、こっちには戻ってこられないけんですが」
「とかいって、毎週、戻ってきそうだけどな」
「……来週末、戻ってきます」
「いいねえ。熱々で」
シーナが揶揄うと、鞠村はますます頬を染める。スーツ姿も新鮮だったが、ジャケットを軽く羽織っただけの今も、清潔感と色っぽさが同居して魅力的だった。
切り立ての髪からは、白いうなじが見えている。
あの夜、たしかに御薗生は犬歯を立てて、鞠村のうなじに噛みついた。二人は番の関係になった。その痕跡を、いまは目にすることができない。
αの番になれば、激烈な発情期が訪れることはなくなる。番以外の相手を誘惑するフェロモンの分泌は止まる。
「全部、シーナさんのおかげです」
「いや。俺もちょっと強引にしすぎたかと思ったけど、結果オーライでよかった」
「実は、僕も黙っていたことがあって。その、謝らなければいけないと思って」
ウーロン茶を啜りながら鞠村が切り出したのは、意外な告白だった。
「あの夜、シーナさんからもらった薬、飲んでいなかったんです。シーナさんが僕のことを考えてくれたのは嬉しかったんですが、その、薬を使ってΩの体質を利用するのがどうしても抵抗があって。御薗生を罠に嵌めるみたいで、どうしてもできなくて」
発情期を促す薬を渡したのに、鞠村は飲まなかった?
飲まなかったのに、発情期は狙っていた時間に訪れた?
「え? でも、あの時、アパートの前でちょうど始まっただろ」
「はい。周期でいえば、一週間は先だったんですが。どうして、あんなタイミングで都合よく……僕もわからないんですが」
「抜群の、予定通りのタイミングだったもんな」
二種類の薬を用意して、御薗生と二人きりの時に、発情期が来るよう調整するつもりだった。
けれど、薬を服用することなく、鞠村には予定外の発情期が訪れた。
「やっぱ、愛でしょ愛」
「え、あ、はい」
「ん~、そこは恥じらうとこじゃないの」
「え、でも、それは」
「はいはい。ごちそうさまでした。ご飯うまかったし、惚気にも当てられたし」
「す、すみません。ぼ、僕、そういうつもりじゃなくて」
「いいって、いいって。愛の力には勝てないから。あーあ、俺にも早く運命の相手が現れないかなあ。せっかくレーヴにいるのに、どうして出会えないのかな」
厳密に言えば、出会っていないわけではない。シーナはどうしても、αの番を求めていた。シーナが惹かれるようなαから番の契約を持ちかけられていないだけで、身請け話は幾つも出ている。
「いいよね、愛って」
耳のピアスを指先で弄りながらぼやくシーナを見て、鞠村が笑った。
今日こそは、新しい出会いがあるといい。シーナは祈るような気持ちで、深く息を吐き出した。
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