イヴは嘘をつく(α×Ω)

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 イヴはベッドからそっと抜け出して、バスルームへ向かった。  隣で寝ている男は熟睡している。珍しい。よほど疲れていたのか。だったら、睡眠時間のほうを優先すればいいのに。そう思いはするものの、自分が求められていると感じて嬉しくなるのだから、現金なものだ。  起こさないように、そっと上掛けで覆ってやる。体温の高い神蔵はすぐに暑がるが、夜更けは冷えるようになった。 「……っ」  部屋の中を歩くだけで、腰まわりと股関節に鈍痛が走る。酷使しすぎた後孔はヒリヒリを通り越してズキズキ痛むが、耐えられないほどではない。  発情期でないΩは、一般の男性と変わりない。内側から濡れてくることはないのだから、もう少し考えて欲しいと思うけれど、盛り上がると激しい行為をねだってしまうのはイヴのほうだ。  やさしく抱かれるより、我を忘れるくらい没頭できるほうが好きだ。考えたくないことが多過ぎるから。  神蔵とイヴは幼馴染みだった。  小中学校が同じだった。イヴは中学の途中で転校したが、神蔵が大学生の時に偶然、再会した。 『学生なの?』と訊かれて、『うん』と応えた。いまも、普通のフリーターだと思われている。オメガクラブ『レーヴ』のことは話していない。話したところで、αの神蔵に理解してもらえるとは思っていない。  神蔵の家は、地元の名士。  代々、αの生まれる家柄で、政治家を輩出する一族。  神蔵の父は現役の県会議員で、祖父も同じ。伯父は参議院議員を二期、務めている。  神蔵は長男で跡継ぎであり、ゆくゆくは父の後援者を引き継ぎ、政治の世界で活躍することを義務づけられている。穢れだとみなされているΩの入りこむ余地などない。  熱いシャワーで、体の隅々まで洗い流す。荒淫など微塵もなかったように装いたくて、たっぷり泡立てたソープを執拗に塗りたくる。どれだけ洗っても落ちない汚れはあると、知ってはいるけれど。 「おかしいな」  イヴは首をひねった。普段の神蔵なら、少々寝入っていても、このあたりで目を覚ます。一緒にシャワーを浴びたいと言って甘えてくる。  用意されているタオルで水気を拭い、ドライヤーで手早く髪を乾かして、バスルームを出る。  はたして、神蔵は静かな寝息を立てていた。思っていた以上に疲れが溜まっていたのだろう。足音を忍ばせて近づいてみれば、目の下のクマが濃いのに気がつく。  イヴは身支度をととのえて、神蔵の部屋を出た。  合鍵は持っていないが、ドアを閉めれば自動的に鍵がかかるタイプのドアだから問題ない。神蔵の住むマンションは設備がいちいちセレブ向けだ。 「おやすみ」  ドアを閉めてからつぶやいた。普段の神蔵なら、夜に帰宅する時は必ずイヴを家まで送り届けてくれる。Ωが夜歩くのは危ない。  深夜に一人で歩くなんて、いつぶりだろう。  神蔵のマンションからイヴのアパートまで、歩いて十五分ほどだ。駅へ向かう大通り沿いを進み、線路を跨いで、幹線道路を北上する。電車は深夜一時過ぎまで走っている。人通りはあり、コンビニも点在するので、それほど危険は感じない。  泣きたくなるくらい、月のきれいな夜だった。  火照った体に夜気が心地いい。夢のような時間は終わり、意識が現実へと戻ってくる。  神蔵に抱かれている時はあんなに満たされていても、家へ帰れば一人。明日は午前の仕事はないので、昼まで寝ていられる。  人気(ひとけ)のない信号を渡って、音を立てないようにアパートの階段を昇る。太陽の光の下では赤錆のひどい階段も、月光に照らされているいまは、神秘的に見える。  昼間の社会では忌み嫌われるΩも、夜の閨では寵愛される。  つまらない自嘲に思い至って、イヴは小さく鼻を鳴らした。おもむろに取り出した鍵をドアにさしこむ。静まりかえった廊下に、金属音が響く。  あ、と思った時には遅かった。  イヴの背中は、大柄な人影で覆われていた。 「指宿(いぶすき)蓮華(れんか)だな?」  首筋に刃物が押し当てられている。頚動脈ではないが、動けば怪我は免れない。 『イヴ』はただのニックネーム。人類始祖の女性とは関係ない。ただの名字。レーヴでもそのまま使っている名前だが。 「おまえに話がある」  俺には話なんてない。  そんな本音を言える雰囲気ではなくて、イヴは仕方なくドアを開けた。  
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