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部屋へ入るなり、イヴは男に突き飛ばされた。
起き上がろうとしたところを、さらに押し倒される。
「や、やめッ!」
男が胸の上で馬乗りになっている。息が苦しい。抵抗しようにも、あっという間に、頭上で両手をくくられてしまえば、術がない。おもちゃの手錠のようだが、手首を動かせないことには変わりない。
ついでのように、口にもタオルが押しこまれる。
「ひぃ……ッ」
ご丁寧に幅広のテープで口を塞がれた。
両手と口を封じられている現状を自覚して、一気に恐怖に襲われる。いま、この男に鼻をつままれば窒息する。息ができずに死ぬ。パニックで心臓がイかれそうだ。
イヴはかたく目を閉じた。視界が失われれば、現実と向き合わないで済むんじゃないか。これは悪い夢だ。どうにかして、そう思いたかった。
「どうして、こんな目に遭ってるか。もちろん、わかってるよな」
男の手がイヴの頬に触れる。
嫌悪すら感じない。ただ、恐ろしい。
男は刃物を持っている。切り刻まれ、嬲り殺されるかもしれない。死ぬより苦しい目に遭あわされるかもしれない。
恐怖で、息ができない。
「……ぅ、」
脅されたところで、口が塞がっているのだから、まともな声になんかならない。はなから、この男だってわかっているだろうが。
「おまえみたいな薄汚いΩ野郎が、たぶらかしちゃなんない相手がいるよな?」
安堵というほどではないが、因果の構図が見えて、イヴの体からわずかに力が抜ける。
イヴが暴漢に襲われるのは二度目だ。
騒いでも無駄なことはわかっている。どうせ、前と同じだ。『照子』の仕業だろう。
「まったく、Ωってのはタチが悪い野郎だな。追い払っても、追い払っても、意味がねえ」
イヴに馬乗りになっている男は、体格のわりに甲高い声でつぶやいた。年の頃は二十代後半か、三十代か。肉付きがよく、腿が太い。芋虫のように膨らんだ指が、イヴの前髪を乱暴に掻きあげる。
「頭の悪いΩには、体でしつけてやらないとな? やらしい体が疼くっていうなら、もっと相応しい相手がいるだろ? 立派なαの若様じゃなくてな」
男の手が、シャツのボタンを外していく。
アンダーシャツがナイフで切り裂かれていく音がたまらなくて、イヴはまた目をつぶった。ナイフで傷つけられなくてよかった。こんな体で済むことなら、くれてやる。
諦念を覚える一方、悔しさも募る。
なぜ、男の暴行を甘んじて受けなければならないのか。レーヴの客が、代金と引き換えに得るものを、部屋に押し入った暴漢に奪われなければならないのか。
Ωだから、仕方ないのか。
Ωだから、奪われるのか。
犯されたって、殺されるわけじゃない、と人は言う。Ωならどうせ、いつもしていることじゃないかと。
そんなわけは、ない。
選択肢のない行為は搾取だ。
こんな男に、いいようにされる。無力さを噛みしめる。悔しい。悔しい。力が足りないから。見下されているから。
神蔵に家まで送ってもらっていれば、こんなことにはならなかった。そんな思いがよぎることすら、悔しい。αを頼らなければ、まともな生活を送ることすらできない。残酷な事実を認めるような気がして、イヴは奥歯を噛みしめるしかない。
「おまえみたいなΩのクズには、オレで十分なんだよ」
「ぅ……」
男は暴漢を装っているが、たいしたことはない。ただの脅しだ。照子に雇われて、嫌々、片棒担ぐはめになったのか、もしくはそれなりに乗り気なのか。
ベルトを引き抜かれ、ジーンズを下ろされる間も、イヴは呼吸をととのえることに必死になっていた。
男は思い出したように部屋の灯りをつけると、カーテンを閉めた。
「悪いな。べつに、おまえに恨みはないんだが仕方ない。一応、証拠写真ってものをとっておかなきゃなんねえ。ほら、こっち向け。笑え。情けない顔、こっちに見せてみろよ」
男にスマホを向けられて、イヴは顔をそむけた。
半裸のΩを見世物にするなんて、悪趣味にもほどがある。照子は、本当にイヴのこんな写真を見るのか。それとも、一瞥もくれずに削除するのか。
カシャカシャという、シャッター音と人工的な光を浴びる。ひどい辱めだと感じる。そんなにまでして、貶めたいのか。
どのみち、イヴへの暴行の件を調べたところで、照子まで辿りつきはしないだろうが。
証拠を撮り終えた男が、再び覆いかぶさってくる。性急に膝を割り開かれて、イヴは眉をしかめた。
「発情期でもないΩなんて、抱けやしねえと思ったけど、そんなでもないもんだな」
男の目に熱がこもるのを見てとって、イヴは暗澹たる気持ちになった。
神蔵に抱かれたばかりの体だ。多少手荒くされても、最悪、裂けはしないだろう。計算出来てしまう自分が嫌になる。神蔵の余韻を消されそうなことよりも、自分の体の無事に気を回す。弱者は、ロマンチックに浸っている余裕などない。
むしろ、神蔵の残した痕には気づかないでいてくれ、と願う。逆上でもされた日には厄介だ。
「おまえ、うまそうだな」
そんなタイトルの絵本あったな。くだらないことを思い浮かべながら、体の力を抜いた。
べつに和姦じゃない。傷つくのが嫌なだけ。イヴは極端に痛みに弱い。慣れない男に怪我をさせられるなんて、たまったもんじゃない。
乾いた後孔を、唾液でおざなりに湿らされる。まだ潤いが足りないと言いたかったが、口は塞がれている。男のものが体格に比例していなかったのが不幸中の幸い。神蔵を受け入れた後のイヴの体は柔軟だった。
「おまえ……すごいな。発情期でもないのに、こんな、中、うねって絡みついてくる」
鼻息の荒い男の動きにあわせてやっただけだ。避けられないトラブルなら、とっとと用を済ませばいい。一分一秒でも早く、イヴの前からいなくなってくれ。
こんなちっぽけな男じゃ物足りない。神蔵を知る体に、粗末な男をよこしやがって。
「Ωってやつは、生まれながらの淫売なんだな」
感心したようにこぼしているが、男に余裕なんてない。なにかで気を紛らわせていないと、史上最速で果ててしまいそうなのだろう。低く唸っている。
イヴはせかすように腰を揺すって、きつく締めあげる。
「くッ……締めすぎだろ、おい」
焦った声でなじられたところで、痛くも痒くもない。堪えることなんてないのに。生理的欲求に逆らうだけ無駄。すぐに、イけばいい。イヴなら、こんなチンピラくらい何度でもイかせてあげるのに。
手練の娼婦のようだと思えば、いくばくかは愉快だった。不愉快な暴行でも、頭の中で変換できるのは、経験値からくるものか。加虐行為に快楽を感じるマゾヒストも同じなのだろう。
Ωに生まれた宿命なのか。
好きでもない男に弄ばれるのは。
とはいえ、男の欲情からくる行為ではなく、照子の差し金なのは、イヴにとって、このうえなく屈辱だった。
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