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どれだけの時間が経過しただろう。
半日睦みあっていたような、ほんの一瞬だったような。
互いを燃やしつくすような行為の後、有馬はイヴの隣で天井を見上げる形で横たわっていた。
「有馬さんは、『遺伝子の乗り物』って知ってますか」
唐突に問いかけられ、有馬は普段の半分もはたらいていない頭を軽く振る。
「なんだ、それ」
イヴは、先ほどまでとは別人のような顔で語り出した。
いわく、リチャード・ドーキンスという科学者が提唱した、選択的生物の進化形態だという。
「セルフィッシュ・ジーン、つまり利己的な遺伝子ですね。生物本人ではなく、生物の設計図である遺伝子が、主体的に選択するんです。いつ、どんな相手を生殖の対象とするか。どういう選択をするかによって、遺伝子が次代へと受け継がれていくのか。乱暴に言えば、そういう考え方なんです」
「へえ」
「あ、すみません。こんな話、つまらないですよね。ピロートークには向かないのに、つい」
そう言ってはにかむイヴの姿はとても自然で、飾り気がない。素の表情を垣間見ているようだ。有馬は今夜イヴと出会ってから、一番好ましく思えた。
「ちっとも退屈なんかじゃない。続けて」
「気を遣わせてしまって、ごめんなさい。でも俺、いつも思うんです。Ωってなんなんだろう。どうして存在するんだろう。どうして、俺はΩの体に生まれたのかって」
当座の熱を燃焼したイヴはひどく醒めた目で、色のない天井を見つめている。
睨んでいるわけではなく、諦めているでもなく、ただ、真摯に考えこんでいる。
「Ωの体は、本当に不自由です。自分のものなのに、思い通りにならない。自分の気持ちを、自分の体が裏切る。発情期が来るといつも、体と心がバラバラになったように感じます」
「αだって、思い通りにならないよ」
「そう、ですよね。ごめんなさい。俺は自分のことばかり考えて、周りが見えていないって、よく言われます。αの方だって、ままならない思いをしてるのに」
「いや、僕のほうこそ、言い方が悪かった。αなんかとは比べものにならないくらい、Ωのほうがしんどい思いしてるのに」
「いえ、そういうつもりではなくて」
困ったように眉根をよせるイヴの頭を、有馬は無意識に抱きよせていた。
手櫛ですくように、湿った髪を撫でる。イヴは一瞬、小さく首をすくめたが、すぐに力を抜いて有馬のするがままに任せてくれた。
腕の中にある人を、愛おしいと思う。
その気持ちに嘘はない。
けれど、他人から見れば、不毛で不潔な関係なのだろう。対価を払うことで成立しているという時点で、不純のそしりは免れない。
イヴが醸し出すΩの匂いに、有馬のαとしての習性が反応してしまった。それだけのこと。
「すべては遺伝子の仕業だから仕方ない。そういう考え方もできる。でも、生まれる時から体に組みこまれているプログラムがすべてではない。俺は、そう思いたいんです」
運命は、はじめから決まっているものなのか。
それとも、自らの意志で変えることができるのか。
「イヴは、すごいね」
有馬の口から、素直な思いがこぼれでていた。
「どこで、どういう風に生まれるかなんて、自分では決められない。だけど、与えられたものの中から、なにを選ぶかっていうのは、確かに自分の選択だよね」
「まあ、その選択すらも、遺伝子にさせられているかもしれない、って話なんですが」
照れたように笑うイヴを間近で見ているうちに、こぼしていた。
「僕はね、自分のことは、ずっとβだと思ってた。大学に入るまで」
第二の性は、二次成長を迎えた後に確定する。とはいえ、ごく幼いうちから、なんとなく見当がつくものだった。
α同士の夫婦から、αの子どもが生まれるとは限らない。Ωが父になることはないので、Ω同士の夫婦では子どもは授からない。
Ωに生まれた以上、Ω以外のパートナーを持ち、自身が産まない限り、子どもは得られない。
αが出やすい家系、Ωが出やすい家系というものがある、と言われている。また、顕著な特徴がなければ、多くの者はβだと思って、わざわざ精密検査を受けることはない。
「だからさ、例のバイト先の先輩に指摘されるまで、自分がαだって気付かなかった。僕は、落ちこぼれのαなんだ。人より優れていることなんて、なにもない」
検査を受けてαだったと知って、一番驚いたのは、有馬自身だ。
体が丈夫なだけが取り柄で、目立つことも、人前で誉められることもなかった。異性とつきあったのも、高校時代に一人きり。
αだとわかってから、Ωの男女から迫られることはあっても、すべて断ってきた。濃厚なフェロモンを嗅いでしまえば、自分が制御不能な状態に陥るのがわかっていた。どうしても嫌だった。
「なあ、あのさ、」
言いかけて、有馬はためらう。こんなこと言っていいのか。でも、いま、どうしても言いたくなった。
「もし、その、イヴさえ良かったら、なんだけど、さ」
「有馬さん、お気持ちはありがたいけど、結構です」
「え、でも、」
まだ、なにも言っていないのに、話す前から拒まれて面食らう。
「気分を害してしまったなら、すみません。でも、番の話でしょう。有馬さんはやさしいから、いつか切り出すかもしれないとは、思っていました。今夜、早々に言われるとは、思いませんでしたが」
「やっぱり、考えてはもらえない? 会ったばかりだから?」
「ねえ、有馬さん。俺は、番ってそういうものじゃないと思うんです。会ってすぐに、口にしなくてもわかるんじゃないですか。番の相手なのか、そうじゃないのか」
保護用の首輪で自身を守るイヴの横顔が、どこか淋しそうに見えた。有馬はつい手を伸ばす。断られるかと思ったが、イヴのほうから有馬の胸にもたれかかってきた。
事後の甘い熱を帯びている体を、両腕で抱きしめる。触れあった肌が心地よくて、互いに目を細める。
こんなにも惹かれあっているのに、番ではないとイヴは言う。
Ωが放つ、オスを呼びよせるフェロモンに反応しているだけなのだ、と。
「寂しい、な」
思わず口をついて出た言葉に、有馬は自分で驚いていた。
「でも、俺は有馬さんに出会えて嬉しかったです」
吹っ切れたように笑う横顔からは、陰は見えない。
「発情期、本当に苦しいんです。体が火照って、疼いて、たまらなくなる。俺は、ここレーヴに来て、やっと楽になりました。罪悪感を持たずに、一人ではどうしようもない欲求を満たすことができる。いろんなお客様と出会えます。Ωに興味がある人、Ωを見下している人、かわいそうだって思っている人」
イヴの両手が、有馬の手を包みこむ。人肌の熱を感じて、有馬は小さく身震いした。
「有馬さんは、ここへ来るつもりはなかったんでしょう。でも、俺は嬉しかったです。こんなに、やさしく抱いてくれる人、他にいません」
「イヴ……」
「もし、よかったら、また遊びに来て下さい。俺は大体、三ヶ月後にいますから」
三ヶ月経てば、またここにいる。
それはΩの性だから、仕方ない。
優秀な男の遺伝子を求めて、定期的に発情してしまう。
厄介な体。
「苦しいし、辛いことも多いけど、だからこそ、誰よりも抱き合える歓びをわかってるつもりです。今夜は当店をご利用いただき、ありがとうございました。またのおこしを、心よりお待ちしております」
店の決まり文句なのだとわかって、奥歯にものが挟まったように、もどかしくなった。
有馬を見るイヴの目は、もう潤み始めている。次の男を迎えるために、体はもう昂ぶっているのだろう。本人の意思とは無関係に。
「こちらこそ。今夜は楽しかった。じゃあ」
また来る、という口約束さえしなかった。
イヴには、会いたいと思う。
でも、イヴを所有することはできないのだと考えると、全身を掻きむしって叫びだしたくなる。
隙間なく首輪をはめ、αに所有されることを拒むΩ。
イヴは、いつまでここにいるだろう。気にはなっても、それを口に出して尋ねることはできなかった。
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