イヴはまた嘘をつく(α×Ω)

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『イヴ。どうして、急に引越しなんてしたんだ? いま、どこへいる? 危ない目に遭ってないか? 大丈夫なのか? これを聞いたら、すぐに連絡をくれ。何時でもいいから。お願いだから』  着信拒否にする勇気はなかったのが、まずかったのか。  留守電に入っている神蔵の悲痛なメッセージを耳にして、イヴは朝から肩を落とすことになった。  本当に別れようと思うなら、本人の目の前できちんと話をつけるべきだ。  頭ではわかっていても、イヴはとてもできる気がしなかった。神蔵を前にしたら、絶対に決心が鈍る。もしくは、うまく言い含められる。 「どうしろっつーんだよ、もう」  胃の底が痛む。こめかみも痺れる。腰まわりが鈍く痛むのは、昨日の立ち仕事のせいか、そうではないのか。  早ければ、あと数日のうちに発情期が来るだろう。明日のバイト以降は、一週間は予定を入れていない。  三ヶ月に一度、一週間ほどの発情期。  だいたいの目安なので、前後にずれこむことも多い。  ラウンジによってオレンジジュース一杯だけもらうと、イヴはその足で外へ出た。  神蔵の電話番号は控えていない。だから、いまの機種を手放してしまうと、イヴからはもう連絡が取れなかった。  これでいいのだ、と何度も心の内で繰り返す。自分を納得させるように。  神蔵には、話せないことが多過ぎる。レーヴの一室に部屋を借りているなんて、言えない。レーヴでどんな仕事をしているかなんて、絶対に言えない。αである神蔵に理解できるとは思わない。  朝一番を目指して向かったのに、前の客のトラブルがあり、ショップでの手続き完了までトータル二時間近くかかった。  一時からのバイトに間に合うためには、手っ取り早い牛丼かハンバーガーくらいしか、食べる暇がない。昼時はどこも混んでいて、通りには人があふれている。学生に会社員、有閑マダムにシニアのグループ、ガイド片手の外国人観光客に、なにをしているかわからない人々。  イヴはキョロキョロと見まわして、手頃な店にあたりをつけて歩きだした。 「……っ!」  信号待ちの人々の中にルカの姿を見つけて、とっさに目をそらした。  ルカ本人は、道路を挟んだ向かい側のイヴには、まだ気づいていないらしい。買い物だろうか。モスグリーンのダウンジャケットに、黒いリュックを背負っている。  なんとなく、気後れのようなものを感じて、イヴはうつむいていた。  ルカが二階堂と暮らし始めた時には、お祝いを渡し、新居にもあげてもらった仲だ。会えば、素通りはできない。 「ん?」  信号が青に変わる頃、ルカの姿が見えなくなっていた。道を引き返したのか、どこかの店に入ったのか。  イヴが早足で横断歩道を渡ると、植え込みの側でしゃがみこんでいるルカが見えた。 「おい、ルカ! どうした?」  考えるよりも早く、駆け寄っていた。 「イヴ。ああ、なんでもないよ」 「なんでもないって顔じゃないぞ。具合悪いのか?」 「いや、ちょっと。たちくらみがしただけ。たいしたことない」 「貧血、とか?」 「うん。たぶん、そんな感じ」  男性Ωの体は、妊娠によって劇的な変化を遂げる。ルカもきっと、ホルモンバランスの崩れで不調なのだろう。まだ、腹部に膨らみは見えないが、体の中が著しく変化しているはずだった。  イヴは近くの自動販売機でホットレモンのボトルを買うと、ルカに手渡した。 「これ、あったかいし、糖分もとれるから」 「気を遣わせて、ごめん。ありがとう」  あたたかくて甘いものを飲むと、ルカの顔色はだいぶマシになっていた。 「今日はもう、帰ったほうがいいぞ。俺が家まで送っていこうか」 「イヴは、用事があるんじゃないの?」 「まあ、あるけど」 「もう大丈夫だから。イヴは行って。時間ないんじゃないの」  ルカに急かされて、イヴは渋々立ち上がった。 「無理するなよ。一人だけの体じゃないんだから」 「うん、ありがとう」  集合時刻が迫っていた。イヴは駅に向かって駆け出した。  ルカ相手に、ちゃんと普通に接することができた。それだけで、胸をなで下ろす。  嫉妬、しているわけではない、と思う。羨ましいとは思う。愛している人と暮らし、その人の子どもを身ごもる。イヴにはとても、考えられない。  子どもを産む、という感覚が、まるでわからない。  けれど、知っている。  何年も前、ろくに覚えていない頃、イヴは産んだはずだった。  心身ともにボロボロで、いつ孕んだのか、誰の子を孕んだのかも、わからない。  産んだ子どもが男か女か、無事なのか、その後どうなったのかも、なにも知らない。  こんな自分は、神蔵のそばになんて、いられるわけがない。
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