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「ご飯ですよ」
まどろんでいると、再びイヴを呼ぶ声がする。しつこく言われるのが嫌で、布団をかぶったまま応えた。
「……食べたくない」
「無理にでも食べてください。体によくない」
天宮は諭すように言うが、食べたくないものは仕方ない。
今夜の客はちゃんと見送って、泥のように重たい体をようやく横たえたところだ。指一本動かすのさえ億劫。なのに、さんざん弄られて腫れあがったその場所は、まだ熱を持って疼いている。
いい加減、発情期のほうも落ち着いて欲しい。
今回は明らかにおかしい。やってもやっても、もの足りない。どれだけ啜っても収まりがつかないのなら、とりあえず眠ってしまいたい。
「もう四日目でしょう。食事を抜かないのは、ここの約束です。箸も持てないのならば、私が食べさせてあげますよ」
部屋の灯りをつけた天宮が、トレイを置いて、本格的に介添えしようとしている。イヴは布団の中で、思わずため息をついた。
「……っ!」
天宮が息を呑む気配が、した。一体なにに驚いているのか。気にはなるが、眠気と疲労には勝てない。
まぶたが完全に落ちる前に、大きく布団を跳ね上げられた。
「イヴ。どういうことですか、これは」
冷えきった声が響く。イヴは目をこすって、ゆっくりと上半身を起こした。部屋はほどよくあたたかいが、眩しくて目が開けられない。
「避妊、しなかったんですか?」
「え……あっ、えっと、あの、」
「すぐに薬を用意します。待っていてください」
天宮は踵を返して、部屋を出ていった。
「え。あ。うそ……」
イヴはとっさに手を伸ばして、首輪に手を触れる。確かに、うなじは専用の首輪で保護されている。そもそも、今回の発情期ではαと寝ていない。
だが、発情中のΩは、妊娠の可能性がある。経口避妊薬も存在するが、Ωの体には様々な負担がかかるため、服用は勧奨されていない。
「今夜のお客様だけですね。避妊を怠っていたのは」
五分とたたずに、水と薬を手にした天宮が戻って来る。
「え、あの、はい。えっと、すみません」
促されるままに、イヴはアフターピルのカプセルをつまんで嚥下する。追加で水を飲み干し、深々と息を吐き出した。
うっかりしていたのか。自暴自棄になっていたのか。ともかく、これで妊娠は避けられるはずだった。安堵すると同時に、言いようのない寂寥感に苛まれる。
「当たり前のことですが、自分の体は、自分しか守れません」
「すみません」
「責めているわけではないのです。でも、一瞬の気の迷いが原因で、あとから辛い思いをするのはイヴのほうですから」
「……はい」
いままで、一度もこんなことはなかった。油断していたのか、それとも。
「ルカのことが、気にかかりますか」
「え」
天宮はベッドの端に腰を下ろすと、きれいな黒目を向けてくる。見つめられていると意識すると、それだけで動悸がする。
一般に、Ωは容姿に恵まれた者が多い。ルカは子ウサギのように可憐で、シーナは血統書付きの猫のようにツンと取り澄まして見える。
けれど、天宮の美貌は別次元だった。性別を感じさせない。生身の人間ではないような、精巧なアンドロイドと対峙している気がする。
「ルカの入籍と妊娠は聞いています。イヴも、心のどこかで気にかかっていたのではないですか」
「いえ」
それきり、なにも言えなくなってしまう。天宮と二人、手を伸ばせば届く距離にいるのに、言葉が出ない。
ルカが幸せになることを、妬んでいるわけではない。友人として、祝福してあげたいと思う。
ただ。
あまりの落差に、自分との違いに、絶句するのだ。
人を愛して、人から愛されて、自ら幸せをつかみとったルカ。
誰のことも信じられず、神蔵から逃げて、自分自身から逃げて、捨て鉢になっている自分。
「でも、俺は、その、」
「過去のことを、気にしているのですか」
天宮の一言が、イヴの胸に突き刺さる。
過去。
イヴが目を閉じて、ずっと、やり過ごしていた時間。記憶に蓋をして、前だけを向くつもりで、自分に言い訳をしてきた。
「天宮さん、あの……」
言いかけて、口をつぐむ。イヴは目を白黒させて、唇を噛みしめた。
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