ふたりの月

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「月が綺麗ですね」  さっき飲んだ酒のせいか、沈黙のまま二人で空を眺める気まずさか、はたまた本当にそう思っていたのかは分からないが気付けば僕はそう口にしていた。  僕はそう言ってしまったことを後悔しながら、チラリと右にいる彼女の方を覗いた。彼女は上を向いたまま黙っている。顔は彼女の長い髪が上手に隠してくれていた。彼女に動きがないまま二十秒が経とうかというときに、彼女は顔を動かさないまま口を開いた。 「そうですね、確かに綺麗です。人類は遠い昔から月に魅せられてきました。暦にもなり、信仰の対象にもなり、科学が発達した現代でも謎を多く残したミステリアスな存在です。月を美しく感じ、見惚れてしまうのは当然なのです。人類は月に支配されていると言っても過言ではないと私は思うのです。それに月に支配されているのは私たち人類だけではないんですよ。なんでもアカテガニというカニは、満月と新月の夜、月の引力によって大潮の夜の満潮となった海に幼生を放つ為に集まるそうです。サンゴも同じような時間に放卵するそうですよ。そもそも、月によって科学が生まれたといってもおかしくないでしょう。かのニュートンも月の観測によって万有引力を発見したのですから。私はそういう科学的ロマンを含めて、月は美しいと思うのです」  彼女は畳みかけるように月について語った。彼女は生粋の科学者だったようだ。僕は穏やかではなかった胸中がすっと落ち着くのを感じながら、ともに残念な気持ちも感じた。  彼女を見ていた目を空に浮かぶ、彼女が語ってくれた月へと向ける。そのとき彼女がギリギリ聞き取れるほどの声で言った。 「しかし、今日の月はいつもより綺麗に見えます。あなたと見る月だからでしょうか」  思わず彼女の方を見た。未だに顔は月を向いている。そこに柔らかな夏風が吹いた。その風に揺れた長い髪が彼女の横顔を露わにさせた。その横顔は薄紅色に染まり、潤んだ瞳はまるで月のように美しかった。  なんとなく僕らは見つめ合って、顔を寄せた。  僕はその日の帰り、本屋によった。さっきまでのことが嘘だったかのように、周りを歩く人たちの顔はいつもと変わらない。しかし、この胸の高鳴りと、唇に残った柔らかな感触は確かに僕に存在していた。  何も買うつもりはなかったのだが、何となく目についた本を買った。その本は月と科学に関する本だった。
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