〈一〉リョクヤソ、山中

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 この地は、大筑紫、と住む者が呼ぶ、大きな島である。  その島の上に、五つの国があり、それぞれの土地と周囲の島々を治めている。土が肥え温暖なこの島は、人々がよく栄えたが、その豊艶な土地柄ゆえに起こる天災に、悩まされることが多かった。ひとつは嵐や雨、水の害。海も山の湧水もゆたかな大筑紫では、しばしば大きな水害が起きた。そしてもうひとつは地震である。島のなかほどに、「大いなるヤソ」として人々に敬われる霊峰、火の山ヤソが鎮座している。そしてそれに連なるように、東西南北に深い山々が並び、ヤソが火や熱い霧を吹くたびにその身を震わせ、そこかしこで地滑りが起きた。ここ最近で被害が甚大だったものは、七年前の「ヤソの憤怒」と呼ばれる大地震だが、小さな規模のものを含めれば、気の遠くなるほど昔から繰り返し続いている。それらの天災に飲まれてしまわないよう、人々は王を戴く国を造り、暮らしていた。国々はときに寄り添い、ときに争い、国境を少しずつ変えながら、今の五つの国のかたちへと、形作られていったのだった。  豊の国は大筑紫の東端に位置し、北と東は海に囲まれ、西側はヤソ、南側は連山と、自然に閉じられた国であった。国の奥部、地理的には国土の中央に位置する、二つの山に挟まれた谷間に、王と王族の住む宮が有る。宮から東へ下ると、海に面した都だ。こちらも海に面した北部と、連山を挟んで隣国と接する南部には、わずかながら平野が広がり農地となっている。しかし国の半分以上は、木々深い山であった。ヤソに面した豊の国の西半分には、山々をかき分けて目印に落とした碁石のように、集落ともいえないような家々が点在している。それは山師や木こりを生業とする者の山小屋であったり、獣を狩るためのあなぐらであったり、官吏と警固の者が国境を維持するための屋敷であったりした。  そしてここは、そのような、普段は無人になっている屋敷のひとつなのだった。 「姫。今生のお願いでございますから、もう少し姫君らしくなさってください」  少年が目を覚まして最初に聞いたのは、そんな懇願だった。 「何を言う〔雪〕。私はこれ以上ないほどに宮としての務めを果たしているぞ」  聞き覚えのある凛とした声が応える。はっとして目を開くと、まず一番に、床に横たえられた長刀の鞘が目に入った。次いで、よく磨かれてはいるが、埃っぽさが残る木の床。明かりがちらちらと反射していて、火が焚かれていることがわかる。眉を寄せ、目をすがめる。その奥に人が座していることも、ゆっくりわかってきた。どうやら、どこかの床に寝かされているらしかった。静かに息を吐き、息を吸う。脇腹は鈍く痛んだが、吐き気などは無くそれだけで済んだ。女声の問答はまだ続いている。 「このような危急の折だ。私とていつまでも霧ノ宮に閉じこめられているわけにいくまい」 「『わけにはまいりませんでしょう』とおっしゃいませ。そのように粗雑な振る舞いをされるから、下々から〔姫将軍〕などと渾名されてしまうのです」 「おい、大事なのは喋りかたの方か?」  捕らえた盗っ人を床に転がしたままでする会話としては、どうにものんきだ。少年の頭を違和感が占めたが、背後から「目覚めたようですよ」と別の声がして、それどころではなくなった。少年の腹を横殴りにした女の声だった。 「待ちわびた!」  長刀の女の弾けるような台詞とともに、少年は身体を引き起こされた。一度視界がぐわんと揺れたが、すぐ正常にものが見えだす。焚かれている炉の火のほかは、灯りのない簡素な屋敷の中だ。目の前に長刀の女が座っている。そのすぐ後ろに控えるように、見たことのない別の女が座っていた。ヤソの岩壁で見た他の二人は、少年の背後に控えているようだ。身じろぎをしようとして、少年は自分の腕が腹の前で縛られていることに気がついた。一瞬で絶望に染まる。見事まさしくお縄についたというわけだ。  自覚して青くなった少年の顔色を見たからか、長刀の女は、どうどう、と馬でも諫めるような調子で声をかけてきた。 「まずは話をさせてもらおう。お前は愚かな盗っ人であるが、その身の振り方によっては処遇を考えてやる」 「……!」 「もちろん、従わない場合は盗掘の罪人として刑罰を受けよ。ちなみに豊では、盗掘は流刑及び禁錮労働である。罪人の島から二度と出られぬと思え」  脅されている、と少年は理解した。盗掘の罰は、ほかの国でもだいたい同じだ。それは採掘されるもの――思潮石が、すべての国で重用されるたいへん貴重なものであるからだった。だからこそ高く売れるし、どの国でも価値が変わらないので、後ろ暗い手に入れ方をしても売りさばきやすいのだ。そのためどんなに厳罰を科されても、盗掘に臨む者はあとを絶たない。ここにいる彼も、労力に比して手に入る報酬の大きさに取りつかれ、後に引けなくなってしまった盗掘者のひとりだった。しかし、目の前の女は、なにかの頼み事と引き換えに、その罪を見逃すとほのめかしている。 少年は深く息を吐き、それからきっとして正面の女を見据えた。その時はじめて、女がとても良い衣を纏っていることに気がついた。紗の透かし織りの着物だが、細帯を袖口に留め、その上から兵士や警吏の胸当てのようなものを付けている。その胸当ても、飾り紐に金刺繍、留め具はなめした革と豪華なものだった。気絶する前の女の口上、そして先ほどのやり取りを、少年は思い出していた。 「……姫宮さま……」 「いかにも、私が〔一ノ姫〕である」  思わずこぼれた呟きに、〔一ノ姫〕は鷹揚に答えた。後ろに控えていた女が、はあーっと深い深いため息をついた。 「姫様……罪人にそう簡単に身分をあかしてはなりません」 「〔雪〕とて私を姫と呼んでいるではないか! なんにせよ、この者にはもうヤソの山中で身分をあかした。問われたのでね」 「本当におやめください、そういった軽率なことは!」  ほとんど悲鳴のような叫び声を上げた彼女をあっさりと無視して、姫は少年に向き直った。 「もう解っていると思うが、私はお前に頼みたき義がある。それゆえ、正しき身分でお前と話をしなければと思った。ヤソの山中で得られなかった答えを今聞こう。私の身分はあかしたぞ。『お前は、何者だ?』」  姫の目が、まっすぐ少年を射抜いた。容の良い瞳を正面から見据えて、少年は身体の奥が震えるのを感じた。なんと強い視線だろうか。単純に目力があるというだけではない強さが、少年を捉えていた。ふいに彼はおそろしくなった。姫の目を通して、とてつもないものが、矮小な自分を監視しているような気さえした。  震えを隠して、唇を湿らせ、少年はそっと答えた。 「俺は、レイ、といいます」 「それは、お前の名か?」 「そうです。俺は、家もないし、仕事は、……金を稼ぐのに、今日みたいなことやったり、あとは適当にモノを拾って売ったりして。あかす身分も、役目もないです。ただの、レイです」 「ふうん。このように魂の遠い者の、名を握るのはお前がはじめてだ。なんと呼んだものか」  姫は考えるように眉を寄せた。 「お前、国はどこだ」 「……生まれは、天神。国を出て、ちょっと前までは火の国にいました」  天神は豊の国の北西にある国。火の国は、ヤソを挟んで、豊の西隣にある国だ。 「かの国では、名は隠すものではないのだな」 「えっと。わからないですけど、みんな名前を呼び合ってます。……豊の国では、名前で呼ばれることはないんですか?」 「ほとんどないと言っていいな。身分に関わらず、すべての民が――土を耕す者、獣を狩る者、船を操り魚を得る者。都の役人から宮の侍従にいたるまで、もちろん我ら王族やそれに連なる貴族たちも、親兄弟以外に名をあかすのは、《真に魂が近い者》を得た時だけだ」  姫は当たり前のように言ったが、レイには《真に魂が近い者》がどういう者を指すのかよくわからなかった。わからなかったが、姫の言葉が続いたので黙って続きを聞いていた。 「豊の国では、名は魂そのものだとされる。名を知られるのは、魂の尻尾をつかまれるのと同じことなんだ。真名(まな)を知る者同士でも、他の者に真名を聞かれぬよう、普段から名を使って呼び合うことはしない。我らは家か身分、仕事や役目、生まれた土地で人を呼び分ける。例えば、ここにいるこれは」  これ、と言いながら、姫は後ろに控える女を指した。 「私付きの侍従頭だ。霧ノ宮――豊の国の王族が住まう処だが、霧ノ宮では姫付きの侍従頭のことを〔雪〕と言う。〔一ノ姫〕である私付きの〔雪〕だから、〔一ノ雪〕と呼ばれるんだ」  なるほど、と思い、レイは頷いた。〔一ノ雪〕は、姫からレイに自分を紹介されるのが、複雑極まりないという表情だった。しかし、レイと視線が合うと、すっとその表情を凪いだものに変え、丁寧な会釈をして見せた。レイも首を動かして礼を返したが、それをどう思ったか、〔一ノ雪〕の心はわからなかった。代わりに、〔一ノ姫〕が言葉を紡いだ。 「だから、お前もこの国で名を名乗っていては変に思われるだろう。我が国にはほとんど異国からの行商は来ないが、それでも国の境を越えてくる数少ない商売人は、みんな豊で呼ばれるための屋号を携えて来る。我が国の民は名をあかすことも嫌うが、他人の魂を不用意に握ってしまうことも同じくらい嫌うんだ」  さっきお前が名乗った時は、さすがに私もどきりとしたよ、と姫は笑った。そんな動揺は微塵も感じさせなかったが、さっきの〔一ノ雪〕といい、宮なんて雲の上に住む人々は、心の内を簡単に読ませるようなことはしないのだろう、とレイはぼんやり思った。  姫に指摘された通り、レイは豊に入って間もない。というより、二日ほど前に国境を越えたばかりだ。ヤソをなぞるように国境を越えて火の国と豊を行ったり来たりしていて、豊の里には降りて行ったことがなかった。なので、姫宮様といってもどれほどのひとなのか、実はあまりよくわかっていないのだ。豊の国は非常に閉じた国で、鎖国こそしていないものの、その内情が外の国に伝わってくることは稀だった。霧深い森の奥に守られた宮と、あたたかで水ゆたかな遠き都。こうやって確かに豊の中にいても、おとぎ話のような存在にすら思えてしまう。それがどうして一体、はるか縁遠いはずの姫宮さまなんかと、顔を突き合わせて話をしているのだろう。姫宮さまから問われて、返事をしているのは確かに自分なのに、どこかふわふわと覚束ない、他人事のような心持ちがする。理解の限界を超えて、レイは、語り部のものがたり歌を聴くように、ただ〔一ノ姫〕の話を聞いていた。 「まあ、そのうちお前に役目をやろう。それでお前を呼べばいい」  姫は自分で勝手に納得したようだった。 「しかし、これだけではお前が『何者か』はわからないな。すべて話せ。天神で生まれたお前が、どうしてわざわざリョクヤソまで来て、我が豊の思潮石を盗むに至ったのか? それは――」  そう言って姫が右手を胸元まで上げ、レイは思わずあっ、と声を上げた。姫の右手には、いつの間にか、見覚えのない籠手が嵌められていた。そして、指先まで覆う武具の手のひらには、レイが掘り出した思潮石が乗っていたのだ。ほのかに燃える炉の火を反射して、灯りはそれだけなのにもかかわらず、無色の宝石は燦々と輝いていた。  ちょうど子どものこぶしほどの大きさの、その美しい石を、〔一ノ姫〕はくるりと弄んだ。姫の強く鋭い視線は、依然としてレイをまっすぐ射抜いている。 「――それは、お前がこの石を持てることと、関わりがあるのか?」  声に突き刺されたような気持ちだった。  レイにとって、その質問は、簡単に答えることのできない問いだった。かといって、黙して語らず、〔一ノ姫〕の機嫌を損ねてしまったら、レイは次の瞬間にでも流刑に処せられてしまうだろう。しかし、誤魔化せるようなとっさの嘘を、うまく口に出せるほど、レイは器用ではなかった。なにより、この姫にはヤソの岩壁で見られてしまっている。  ぐ、と口を引き結び、答えもせずに黙り込んでしまったレイを、姫は凝(じ)っと見ていた。わずかの間、沈黙がふたりの間に落ちた。〔一ノ雪〕や、レイの後ろに控えているはずの他の女たちも、身じろぎひとつしない。ぴんと張った糸のような空気を、揺らしたのはやはり〔一ノ姫〕だった。  その瞬間、まったくなんの前触れもなく、〔一ノ姫〕は手に持っていた宝石を、目の前の盗掘者に向かって放り投げたのだ。 (――!!)  突然のことに、レイは思わず――本当に考える間もなく、目の前に飛んできた石を、縛られた不自由な両手の平を籠のようにして掴んでしまった。大きな透明の結晶は、その見た目よりもずいぶん軽く、やすやすとレイの手のひらに収まった。素手に石のひやりとした感触が伝わって、レイはぎくりと背筋をこわばらせた。おそるおそる、〔一ノ姫〕の顔を見上げる。  その手に思潮石の塊を湛えたレイを見つめる姫は、にいっとその瞳を細めて笑った。 「やはり、見間違いではなかったな。お前、思潮石を持てるのだな? ……いや、違う、『溶かす』ことができないのか? 『身体に混ぜることができない』? 」 「――っ、だったら、なんだというんですか」  レイは、声が上ずるのを抑えることができなかった。 「俺が《できそこない》なのは、ヤソで見たんでしょう。俺にできることなんて、何もない。貴女は、こんなことしてこそ泥を試して、いったい何をさせようっていうんですか」  勢いに任せてそう言ってしまって、レイは直ぐに後悔をした。馬鹿だ、俺の今後はこの姫宮さまの言葉ひとつで変わってしまうのに……! 今まで散々言われてきた言葉、これまでにはもっと酷い嘲りだって受けたのに、姫宮さまはただ俺が《できそこない》だったのを確認しただけだったのに。なんにせよ、自分に姫宮さまから頼まれて成し遂げられるようなことがあるとは到底思えない。姫宮さまとて、盗掘者が変わり種だったから、気まぐれで弄ってやっただけにすぎないのかもしれない。  そう考えたレイは、〔一ノ姫〕の表情がゆっくりと変わるのを見て、愕然とした。  〔一ノ姫〕は、至極満足そうに、その頬を甘く綻ばせて笑ったのだ。 「できることなんて何もない? いいや、お前だからこそ、できる。お前のような者を、私はずっと探していたのだ」 「なんで……」 「言っただろう? 頼みがある。レイ、私の望みを叶えよ。そうすれば、罪を赦すだけではなく、お前が望むものを――富か、地位か、望むものを。《豊ノ姫》は、お前に差し出す」 「……何、を」  呼吸が浅くなる。〔一ノ姫〕の迫力に気圧されて、単語を呟くようにしか、聞き返すことができなかった。ぱちり、と火の燃えさしが弾ける音がいやに響いて、悪い夢のようだと思った。 「お前は、現王を弑し奉るのだ。それが私の望みだよ」  姫宮さまは、涼やかで凛とした、美しい声でそう告げた。 「――吾が父を、殺してもらいたい」
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