深夜の食卓

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 玄関のインターホンが鳴った。卓也だ。 「よく来たわね。さ、入って」  由衣は笑顔で卓也を迎えた。深夜だった。卓也はサングラスをかけたまま、キョロキョロしながらドアをくぐった。 「こんなところにパパラッチなんていないわよ」  由衣は笑った。 「わかんねーぞ。今は一般人だって隠し撮り出来るからな。SNSに上げられたら、由衣にも迷惑がかかるだろ」 「だからって、気にしすぎよ」  この辺りは高級住宅街で、治安もいい。いきなり写真を撮るような不躾な輩がいるとは思えない。卓也の心配もわからないではないが、多少ナイーブになっているように見える。 「久しぶりなんだから、ここではゆっくりして行ってね」  由衣は卓也をダイニングルームへ招き入れた。  テーブルの上には白いテーブルクロスが敷かれ、落ち着いた色合いのグリーンのランチョンマットやシンプルだがセンスのいいカトラリーがセッティングされていた。スマートスピーカーからはジャズが流れている。 「気合い入ってるな」 「卓也にご馳走するの、大学以来だもんね」  由衣は答えた。──そう、あの頃はよく仲間達に料理を作って振る舞っていた。由衣と、卓也と、それから──。 「医学部で忙しかったのに、よくやってたよな、由衣は」 「ストレス解消も兼ねてたからね。卓也達が食べてくれて、こっちも助かってたのよ。ついつい作りすぎちゃって」  カウンターキッチンの向こうから、由衣は言った。料理の仕上げと盛り付けの手は休めない。 「今どうしてんだ? やっぱ、親父さんの病院継いでんのか」 「その前段階くらいね。勤務医として大忙しよ。やっと休みが取れたとこ」 「そんな時に……悪いな」 「いいのよ。卓也のお祝いでしょ。……はい、まずはこれから」  出て来たのはきのこのアヒージョとチョップドサラダ、それに赤ワイン。 「遅ればせながら、金森卓也くんの助演男優賞を祝って、乾杯」  カチン。グラスを合わせる。 「結構旨いな、このワイン」 「そんなに高くないけど美味しいのよ、これ」  ──彼女も、このワインは好きだった。由衣はその言葉を飲み込んだ。 「さっき、わたしのことを言ってたけど、卓也だって忙しいんでしょ? こんな深夜にしか時間が取れないなんて」  卓也と由衣は、同じ大学の同期だ。サークルの呑み会で知り合い、二人を含めたグループで一緒に遊びに行くようになった。場を盛り上げることが好きだった卓也が、突然大学を中退してお笑い芸人になった時は皆びっくりしたものだ。  しかしお笑いグランプリで優勝した卓也は一躍売れっ子になり、今ではバラエティに引っ張りだこだ。さらに最近はドラマなどにも出演の声がかかり、去年は映画で助演男優賞に輝くまでになった。 「そ、今も一週間ほど地方ロケに行って来たばかりでさ。忙しくてしょうがねーよ」 「でも、かわいい女優さんとデートをするヒマはあるみたいじゃない?」  からかうような由衣の言葉に、卓也は少しだけ渋い顔をした。例の映画で共演した美人女優とのツーショットが雑誌に載ったのは、先週のことだ。 「あの時は、周りにスタッフもたくさんいたんだよ。合同の呑み会だったのに、二人っきりみたいな撮り方しやがって」 「『あの時は』、ね』  細かく刻んだ野菜をスプーンでかき回している卓也を、由衣は微笑みながら見つめた。 「今、付き合ってる人はいないの」 「いねーよ」 「……わたし、卓也はめぐみと結婚するんだとばかり思ってたよ」  卓也の手が止まった。 「──仕方なかったんだよ。ちょうど俺は忙しくなり始めたとこだったし」  大学時代に集まった仲間達のうちで、特に親しくなったのが由衣・卓也・めぐみの三人だった。仲間内で付き合ったり別れたりを繰り返す中、卓也とめぐみはずっと付き合っていた。由衣はそんな二人を近くで見守りつつ、時には自分の片思いの愚痴を聞いてもらっていたものだ。  卓也が売れ始めてから、二人はすれ違うようになった。由衣も医者になってからは忙しくなった。いつしか、三人の道は完全に分かれてしまっていた。卓也のプライベートなメールアドレスに連絡を取ったのも、年単位で久しぶりのことだった。 「本当はね、わたしがあの頃好きだったのはめぐみだったんだよ」  由衣は言った。 「え……そうだったんだ?」 「うん。もちろん、友達としてではなく、ね。でもめぐみは卓也に気持ちが向いてたから、はなっから無理だってわかってたけど」  だから、自分の想いを隠して友人として二人のそばにいた。想いを表に出したら、二人と自分の関係はたやすく壊れてしまうと思ったから。良くも悪くも、由衣は自分の内心を隠すことに長けてしまった。 「でもまあ、今はわたしもめぐみには連絡取れなくなっちゃってるけどね。卓也はどうなの?」 「俺もだよ。電話は着拒されてるし、メールもLINEもブロックされてる」 「仕方ないよね。──じゃ、メインディッシュ行くわね」  メインディッシュはシチューだった。  ミートボールと野菜をデミグラスソースで煮込んだシチュー。由衣の得意料理だ。  湯気の立つシチューから、ミートボールを一つ、口に入れる。デミグラスソースの濃厚な味の中から、肉の旨味がじわりと広がった。と同時に、肉の確かな歯ごたえも感じる。切り落としの肉を、包丁で叩いて作ったミートボールならではの食感だ。  ソースには赤ワインとトマトが溶け込み、香辛料の香りが味を引き立てる。野菜にも程良く火が通り、ほっくりとした味わいを出している。 「前とちょっと風味が違うな。材料変えた?」 「さすが卓也ね。ミートボールに子羊の肉を使ってるのよ。たまたま手に入ったから、入れてみたの。口に合わないなら、食べなくてもいいけど」 「いや、旨いよこれ。食べる食べる」 「ならいいけど」  そのまま、二人はしばしシチューを味わっていた。 「──前から思ってたことだけどさ、……卓也ってしれっと嘘つくよね」  不意に、由衣が口を開いた。 「だから、コントやお芝居とか上手なのかもね。まあ、わたしも人のことは言えないんたけど」 「何が言いたいんだよ」  卓也は不審そうに由衣を見た。 「大学の時だってさ、めぐみがいるのに何人も他の女の子に手を出してたよね。それでいて、『俺はめぐみ一筋です』みたいな顔してて。探りを入れてもしらばっくれて」  確かに、昔から卓也はモテていた。顔は大したことはないが、明るい雰囲気とマメなところが女性達に人気だった。──だから、そのうちの何人かと、うっかりそういう関係になったことも多い。めぐみと由衣には隠していたつもりだったが、由衣の耳には入っていたようだ。  今でも、卓也の周りには女性の影が絶えないという噂だ。 「……めぐみとは、売れ始めた頃に別れたって言ってたけど、違うよね?」  由衣の眼が、卓也を捉える。 「別れたのはつい最近。それまでは、こっそりと付き合ってたよね?」 「──知らねーよ。誰に聞いたんだよ、そんなこと」  声が、少し震えているように聞こえる。 「めぐみ本人だよ」  由衣は答えた。 「卓也、わたしが父の総合病院で何科にいるか知ってる? 今はね、産婦人科にいるの」 「産婦人科?」 「そうよ。……一ヶ月ほど前かしらね、わたしの所にめぐみが相談しに来たのは」 「何で……由衣の所に? 相談?」 「お腹の子供を中絶して欲しいって相談よ。卓也のことを、すっぱり諦めるためにね」  子供。その一言に、卓也は衝撃を受けた。めぐみが妊娠していたことすら、彼は知らなかった。 「俺の……子だよな?」 「当然でしょ。めぐみに他に男がいたとでも?」  由衣の言葉に、言い返すことは出来なかった。めぐみが卓也に一途だということは、学生時代から変わらない。それは、卓也もよくわかっていたし、そんなめぐみに甘えてもいた。 「めぐみもね、迷っていたのよ。めぐみがわたしの所に来た時には、もう中絶が出来るギリギリな時期だった。母体にもリスクがある。それを話し合った上で、めぐみは決断したの。こうでもしないと、卓也を諦められないと」  手術は由衣だけでした。他の誰にもさせたくなかった。めぐみの体に、卓也との子に、自分以外の誰かの手を触れさせてたまるものか。 「でも、ここまでしても、めぐみは諦めることは出来なかったのよ。手術の後、明らかにめぐみは精神のバランスを崩していた。……その挙句、めぐみはマンションの屋上から飛び降りたわ」 「……めぐみが……?」  卓也は呆然と由衣の話を聞いている。 「先週、例のツーショット写真が雑誌に載った直後のことよ。うちに救急搬送されて来たの。──手の施しようもなかったけど」  学生時代は、三人で笑い合っていたのに。こんな最悪の結末を迎えるなんて、思っても見なかった。 「だからね、今日わたしが卓也を呼んだのは、本当は──」  由衣は言葉をつないだ。 「めぐみが最期に遺したものを、卓也と分かち合いたかったからよ」  めぐみが最期に遺したもの。その言葉が、妙に引っかかった。  奇妙な考えが、卓也の脳裏に浮かぶ。  由衣が中絶手術をした、めぐみと卓也の子。普通であれば、中絶した胎児も何らかの形で葬られるだろう。  ……しかし。  もし、死んだ胎児を、由衣が保存していたら。  冷蔵するなり、冷凍するなり、やろうと思えば方法はあるだろう。手術に由衣しか関わっていないのなら、何とかしてごまかすことも出来るかも知れない。  卓也は、目の前の皿を見た。つややかなデミグラスソースに沈んだ、原型もわからなくなるほどに刻まれた肉の塊。 「なあ、……このシチューに使ってるの、羊──なんだよな?」  由衣は。  微笑んだ。  部屋の空気が不意にひんやりとしたように感じた。 「腕によりをかけたのよ。たくさん食べてね」  本心を隠すことに長けた女の表情から、卓也は何も読み取ることは出来なかった。
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