源氏名

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源氏名

 (しおり)ははじめ、偽名を名乗ることに抵抗があった。偽名といっても源氏名だが、親がつけてくれた名前を隠すことに、すこし後ろめたさを感じたからだ。 しかし、芸能人と同じかと思ったら、とたんに気が楽になった。役を演じればいいんだ。  この日は一見(いちげん)の客のテーブルを任された。 「はじめまして、沙也加です」 「さやかちゃん、いつからいるの?」 対面(といめん)のソファに座ったスーツの男は、銀縁の眼鏡で真面目そうだ。しかし目線は、栞の足下から胸、顔と、ねぶるように這う。 「半年前くらいです」 「へー、じゃ中堅だ」 「ぜんぜん!まだまだです。美咲さんとかベテランさんが、いっぱいいますから」  美咲はこの店のナンバーワンキャバ嬢で、同伴やアフターを頻繁にこなす稼ぎ頭だ。 「そっかぁ。じゃ、さやかちゃん指名で、僕がナンバーワンにしてあげよう!」 「えー?ありがとうございますぅ!」 「今日の記念に、なんかドリンクたのみな。好きなの」 「ありがとうございます。すみませーん」 スタッフにキールロワイヤルと告げる。  勤めて半年が過ぎ、ようやく自分の身体に合う酒がわかってきた。生まれつき酒が強いらしく、顔色も全く変わらない。客に付き合って深酒をしても、酔いつぶれることがなかった。  夜の十一時過ぎ、帰宅した栞はそーっと玄関扉を開ける。廊下の電気も点けず、ゆっくりとリビングの扉を開け、ソファにそっと身体を沈め「はぁ、疲れた……」と漏らす。  リビングの扉が突然開き、「栞、遅かったな」父の秀夫が声をかける。 「うん、勉強に熱が入って。ごめんね、遅くなって」 「まぁ、身体壊さないように、ほどほどにな」 「うん、そうする」 栞が笑顔でこたえると、秀夫は安心したのか「おやすみ」と自室に引き上げた。  秀夫は栞が毎晩遅いのは、部活や友達との勉強だと信じている。栞がまだ、十六歳の高校一年生だからだ。  このころの栞は、自分がこの先もずっと偽名を使い、他人を演じ続けるとは、夢にも思っていなかった。
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