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3回目にあの現象が起きた時には私は46歳を迎えていた。
妻と高校2年生の長女と4つ下の次女の3人がソファーを占領して大きな画面で恋愛ドラマを楽しんでいた。
私だけはダイニングのテーブルで小さなスマホの画面に動く野球中継を眺めていた。
ダブルプレーが成立してチェンジになった瞬間、あの現象が訪れた。
ソファーの方から「パパ・・・」という次女の声がうっすらと聞こえる。
私は途絶えそうになる意識の中で、入院中の母のことを思った。
それと同時に「一旦、自宅療養に切り替えるほどに持ち直していますよ」という医師の言葉が誤りであったことを悟った。
私の視界には三度、赤ん坊の頃の風景が広がっている。
私は忙しなく頭を左右に振る。
そこにはアルバムの中の若い母があった。
「ほらほら、なぜそんなに泣くの?」
私はただただ涙が止まらなかった。
このまま永遠に赤ん坊のままで泣いていたいと思った。
「ほらほら、コウちゃん、よしよし、男の子は泣かないのよ」
泣きやまない私に動じる素振りも見せず若い母はゆったりと私を抱き上げる。
「パパ、大丈夫?」
次女が恋愛ドラマを放り出して心配そうに私の顔を覗きこんでいた。
私は顔を両手で覆って指先で瞼の下を確かめた。
「パパ、スマホ、鳴ってるよ」
ソファーから長女が短く叫ぶ。
「あ、おじいちゃんからだ、私、話す」
次女はテーブルの上のスマホを取り上げ、ひと言ふた言を話し、すぐに私に返した。
「大事な話なんだって」
スマホを次女から受け取る私にはすでに覚悟がしっかりと固まっていた。
要件を改めて聞き、これからしばらくのことを確認し合ってテーブルにスマホを静かに置いた。
ソファーから不安そうな顔で私を見る妻にゆっくりと深く頷いてみせると、妻は構うことなく声を上げて泣いた。
娘たち二人も妻から事情を知らされ泣きじゃくった。
しばらくして長女が私に向かって真っ赤に腫らした目で不思議そうに尋ねる。
「パパは悲しくないの?パパのママでしょ?」
私はひと呼吸を置いて無理やりにでも笑顔を作って娘たちに返した。
「パパが泣くとおばあちゃんに叱られるんだよ、パパは男だからね」
今でも街で見知らぬ赤ん坊がキョトンとした表情を浮かべているのを見ると、あの奇妙な現象のことを思い出す。赤ん坊の頃の私の無意識の記憶が呼び起こされたのか、何か未だに科学で判明していない類のものなのかはわからない。
ただ、あの一連の現象は、家族の前で私が父親として振る舞い切るために母が周到に用意してくれていた最後の贈り物だったのかもしれないと考えるようになっていた。
現に母がこの世を去ってしばらくの年月が経った後、長女の結婚式で私は人前であることも憚らずに大いに泣いた。次女の時も泣いた。
もともと泣き虫の私が思春期の娘たちの前で、奇跡的にも毅然とした父親の姿を見せることができたのは、母から与えられた贈り物の中の最後のひとつのお蔭だったのだと今でも思えてならない。
赤ん坊を見る度に私はいつもそんなことを思い出し、そして決まって空を見上げるのである。
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