末姫ユリアナ

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末姫ユリアナ

 わたくしはこのミミール国の王女、ユリアナ・セシリア・ファン・デル・ステル=ミミール。ユリアナさまって呼んでいいのよ? って言いたいところだけれど、今はそれどころじゃないわ! わたくしの朝は忙しいの。メイドが来る前に全てを終わらせなければ!      わたくしは暗い中手当たり次第……といっても手慣れたものだけれど、今日着る散歩用のドレスを手に持って着替え始める。朝一番で着るドレスは、昨日のうちから用意しておくのがもう習慣だ。どんな着替え方なのかも把握済みだ。   わたくしは着替え終わり、今まで着ていた化粧着をたたむと、ハンカチで顔を拭いて髪を櫛で整える。さすがにまだ水道はわたくしの部屋には通っていないので、顔を洗えない。なので応急処置みたいなものだ。いつか水道を通してほしいけれども、いまはまだその時じゃないのは百も承知だった。   この建造物自体が歴史あるものだから、改築にも気を使わないといけないのよね。わたくしの些細な一言で、周囲に迷惑をかけることは王族のすることじゃあない。服を着替えたので本当は髪を結いたいところだけれども、わたくしの今の腕前じゃ暗闇で結うのは無理だ。 「おはようございます。姫様」 「おはよう、ソフィア」   身支度を終わせたわたくしの耳に、聞きなれた声が掛かる。そう、メイドの――ソフィアの声だ。わたくしが入るように促すと扉が開き、ソフィアの姿が現れる。その姿は朝日に反射して、ぱっと浮かんで見えた。   ソフィアは見慣れた上品なフリル付きのエプロンドレスに、塵一つついていない黒色のワンピースを着ている。首元には黒色のシンプルなリボンがあってアクセントになっている。   足には黒色のストッキング。頭にはヘッドドレスをつけ、どう見ても使用人といったいでたちだ。長い黒髪もしっかりと後頭部でまとめてある。いつも通り何処にも隙がない。 「姫様、私のファーストネームはソフィアではありません、ヘイルトです」   仕える主人に対応する侍従らしからぬ毅然とした声で、ソフィアが言った。そう、ソフィアの本当の名前はヘイルト・オットー・ハーヘマンという。男みたいな名前ですって? だってソフィアは男性ですもの。わたくしは男性の名前では呼ばないけれどもね。折角だからどうしてこんなことになっているのか教えてあげる。   ハーヘマン家はわたくしのような王族に侍従として仕える一族だ。長年そうしてきた一族で、王族が王位を継ぐのと同じように、彼らもわたくしたちの身の回りの生活を整えることを一族で継承してきた。   けれども今の代では、なかなか女が生まれなかった。わたくしの両親が婚約した時に、わたくしのためにハーヘマン家では、わたくしに仕える子どもを妻たちに懐妊させようとした。けれども生まれたのは男性ばかり。数少ない女性ももう他の姫に仕えていた。   子供が生まれたこと自体は悪いことではない。養子をとるという選択肢もあるが、それが禍根の元になったら大変だ。   そう考えたハーヘマン当主は何を思ったのか、生まれた子どもに男性としての教育と女性としての教育、双方させてしまったのだ。それが思いのほかはまってしまい生まれたのが、わたくしの筆頭侍従のメイド、ソフィアだった。   生まれたころから女性の恰好の方が多かったというソフィアのしぐさは、とても上品でたおやかだ。女性よりも女性らしいと言える。知らない人が見たら、さすが王族に仕えるメイドなだけはあるという印象を受けるに違いない。  「あら、そうなの? なら、ヘイルトの恰好をしていらっしゃい?」  わたくしはげんなりしているソフィアにそういった。 このハーヘマン家のある意味傑作ともいえるソフィアを、女性の名前で呼ばないなんて選択肢はわたくしにはなかった。だって色々と台無しじゃない?   まぁ、自分の侍従でなければ心からそう思えたんだけどね。ここだけの話、なんでどうしてそんな考えにいきついたの? ハーヘマン家の皆さま! と思わず敬語を使いたくなるくらいには思う。   けれどもわたくしはこれでも王女。そんな心情はおくびにも出さない! 出来る女を目指しているのだもの、このくらい当然よね! 「この服装は私の戦闘着のようなものです。言っておきますが、女性の恰好をしているわけではありません。姫様であっても、普段着を着るようにというご命令は聞きかねます」   わたくし個人としては、男性の恰好で仕えればいいのにと思うけれど、ヘイルトはソフィアでないと、わたくしに仕えてはならないと思っている節がある。何故かは分からないけれども。   わたくしはソフィアの経緯はともかく、ソフィア自身のことは気に入っているから、それはそれでいいんだけれども、ソフィアがソフィアの恰好でいると、自分本来の性別まで忘れてしまうところは本当に頭が痛い。さすがに男性に身支度を頼めるほど、わたくしは割り切れなかった。 「そう。なら別にいいのよ。ソフィア」   ソフィアは、わたくしのよび方を直すことを諦めたようにこう告げてきた。 「私の恰好のことはどうでもいいのです。姫様、なぜお召替えを先にしてしまうのです? 私たち侍従の職務を奪うことは、姫様でも許されることではないのですよ」  幾度と申し上げたはずです。とソフィアは続け、王族としての心構えを説かれる。このやりとりももう何回目かしら? そういうのもうんざりするくらい聞いている気がするわ。 「あら? なら違う侍従をよこしなさい」言っても無駄だと知りつつも、わたくしはいった。 「いけません。姫様の私室に目通りさせられる者はまだおりません。私では不足でしょうか?」 「ある意味足りすぎているから言っているのだけれど……もういいわ、朝食の時間までもうないし、お湯を早くちょうだい」  わたくしは最後の身支度を迅速に終わらせると、ソフィアを伴って朝食室へ向かった。   朝食室に行くと誰もまだ来ていなかった。わたくしはそのことに安堵する。一番目下のわたくしが誰かを待たせることはよくないもの。王族と言っても、何もかも自由気ままというわけではない。   わたくしが席に着いてからそうは経たないうちに席は埋まっていき、そのたびにわたくしはすかさずあいさつを返した。そのたびにお兄様達やお姉様達がわたくしをからかったり、心配して来たりする。   これも末っ子の宿命だ。家族にとっては、未だにわたくしは幼子のままなのだ。以前は抵抗していたけれども、それももう面倒で、わたくしはこれも目上の者の好きにさせている。これも末っ子の仕事の一つと割り切ったほうがいい。    そうしているうちに、お父様とお母様がきた。わたくしの背筋は自然と伸びる。もうここからは完全に社会――公の場だ。    お父様とお母様は教育に力を入れていて、本人から直々に習ったことも沢山ある。私室から出てしまえば、もうそこは公の場だと教わったこともその一つだ。家族と言えども、それは変わりない。私ももう無邪気な子どもという年齢でもない。成人はしていないけれどね。   そんな社会でのやり取りを交わしているうちに、全ての席は埋まり、わたくしたち家族以外にいるのは、給仕をしてくれるハーヘマン家の侍従たちのみとなった。挨拶が止んだ瞬間から朝食が運ばれ、父の自然の恵みを感謝する言葉で、朝食が始まる。    朝食は朝食を楽しみ場であって、会話をする場ではない。その父の一言で会話が交わされることはない。   以前はさみしいと感じていたけれど、最近になって思うのが、家族とはただ上滑りするような会話を、家族の間でしたくなかっただけなのかもしれない。ということだった。朝食くらいは頭を煩わせたくはないが、家族とは過ごしたいといった父の我が儘なのかもしれない。そう思うと、家族の様子をちらりと伺うこの時間が楽しく感じることもあるから不思議だった。   わたくしはソフィアの給仕で朝食の味をしっかりと味わった。   朝食が終わり話が始まる。朝と夜の食事の後は、情報交換をするのが常だ。といっても、わたくしの立場はお気楽なほうだ。何せ末っ子ですもの。   だからこそいいこともたくさんある。そのいいことの一番は王位に関わりがないことだ。 わたくしが王位に関わる立場だったら、全てのやり取りにくらくらしたはずだ。どんなことにも王位がちらつくだなんて耐えられそうにない。そう思うたびにわたくしは今のささやかな平和を噛みしめる。   お兄様やお姉様たちのお話が終わると、やっとわたくしにお父様が視線を向けた。 「ユリアナ、今日は美術展だったか」 「はい、王族が寄付をしている団体の美術展です。画家たちが主役でありますから、静かに後見しているということを示してきます」わたくしは王女らしさを意識しながら微笑んだ。 「よろしい」お父様の声は簡潔だけれども満足そうに聞こえた。あまりしゃべらないお父様だから、その一言にこもっている一つ一つを逃してはいけない。わたくしはお父様の言葉にホッとして、内心で息を吐いた。  わたくしは無事に美術展の会場に着いた。 王族の代表として来たといっても、わたくしはそこまで気負っていない。 自分自身が注目されているならいざ知らず、王族という権威に、みんなが跪いていることなんて百も承知だからだ。わたくし自身を見てくれている人なんて、片手ですら余るんじゃないかしら。 それに今回の主役はわたくしじゃない。王族が画家たちの後援をしていることを通して、文化や芸術にも理解があるということをはっきりと示すこと。 そう考えてしまえば、とても気楽だった。  「久しぶりね、ポール」   わたくしはこの展覧会の主催をしている画商のポールに声をかける。以前、彼の画廊で開かれている展覧会を訪ねたこともあり、顔なじみの画商だ。彼は以前よりも痩せたようだ。噂によると新興画家の生活の面倒まで見ているらしい。きっと彼も気苦労が絶えないのだろう。 「ユリアナさま、よく来てくださいました。どれもこれもこの展覧会のために作った傑作です。楽しんでくださいませ」ポールがそうわたくしに笑顔で声をかけると、わたくしのことを誰だろうと伺っていた周囲の人々がざわめいた。 わたくしはやっと表に出はじめたばかりだ。肖像画が飾られているというわけでもない。あまり顔は知られていないため、姿だけでは分からなかったのだろう。きっと王族が来るにしても、美術品の造詣が深いアメリアお姉さまあたりが来るとでも思ったのかもしれない。    ポールの発言でようやくわたくしが王族だと分かったのだろう。ポールの声が聞こえたところから、自然と声が静まり静寂がその場を包む。みんなわたくしの言動を注視しているのが分かった。 「えぇ、今回も楽しませてもらうわね」   わたくしが王族の微笑みを浮かべ、護衛を伴って絵の鑑賞に入る。それからしばし時間がたったころ、わたくしが離れたところから、再びざわめきが画廊を包んだ。ただ賑わっているからだと思っていたけれども、なんだか様子がおかしい。 わたくしは傍で控えていたソフィアに声をかける。 「先程の騒ぎとなんだか違うわ。なにかあったのかしら?」 「調べてきますので、こちらでご鑑賞を続けてください」  ソフィアはすかさずそういうと、護衛に目くばせしてすぐさまその場を後にした。  わたくしはそのソフィアの視線の鋭さに、得も言われぬ危機感を感じながらも、なんとか意識を集中させて絵を鑑賞を再開した。わたくしはあの後絵を鑑賞し、画家たちと簡単なあいさつを交わして、ポールに寄付金を渡し、わたくしは王城へ帰宅した。    どの絵画も今までにない印象を感じる絵画ばかりで、とても興味深く鑑賞できた。きっとこれからは記録媒体としての絵画ではなく、ああいう人の思考をそのまま絵にしたようなものが、芸術になっていくのだろう。   だからそんなことがあっただなんて知らなかった。王族専用の廊下を歩いていた時、逆方向からきたエフェリーネお姉さまからこの話を聞くまでは。 「ユリアナ!」 「エフェリーネお姉さま、どうなさったのですか?」    お姉さまらしからぬ大きな声に、わたくしは思わずたじろいた。エフェリーネお姉さまはいま帰ってきたばかりのようで、外出着のままだった。   あら? エフェリーネお姉さまは、今日はボンネフェルト卿の夜会に出席している時間ではなかったかしら?    わたくしが不思議に思っていると、エフェリーネお姉さま付きの侍従もなんだか心配そうな顔をして、こちらを見ているのが分かった。  わたくしはもう私室で休むだけだから、もう侍従たちは下がらせている。    ……ソフィアがいれば、何があったか聞けたのに。  わたくしは仕方なく、こう尋ねる。 「エフェリーネお姉さまがそんな大声を出されるだなんて……何があったのですか? 落ち着いてくださいませ」 「落ち着いて、落ち着いてですって!? 貴女が襲撃を受けたと聞いて急いで帰ってきたのです! 怪我はしてはいないようだけれど、怪我は後から出るものもありますからね。安静にするのですよ」 「はい、美術展で疲れましたし、ゆっくり過ごさせていただきますわ。ですがお姉さま、わたくしはそのようなことに遭遇した覚えはないのですけれど?」   わたくしが不思議に思って首をかしげると、エフェリーネお姉さまは、何かに気付いたように笑顔を深めた。 「そう、ならよかったわ。表向きは落ち着いているけれども、時折他国の廻者が潜んでいるという噂があると聞いたわ。きっと今回のもそれでしょう。ゆっくり休むのですよ」    わたくしは不思議な表情を隠すこともできないまま、お姉さまに促されるように、私室へ向かうのだった。
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