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 雨は嫌いだ。  じめじめと空気が湿って洗濯物は干せないし、肌はベタベタするし、どことなく体も怠くなる。僕の住む地域では毎年入梅をしても空梅雨のことが多いのに、今年はしとしとと地雨が続いている。恵の雨とは言うけれど、一週間も薄暗い天気が続いたら誰だって気分が沈むだろう。 「陽向(ひなた)、ビール買ってこいよ」  亮也があからさまに不機嫌な様子で命令した。日曜の昼間から酒を飲むつもりらしい。 「今から洗濯しようと思ってたんだけど」 「雨で外に干せないのに、洗濯なんかしても鬱陶しいだけだろ」 「乾燥機にかけるから」 「いいから、買ってこいって!」  「自分で買いに行けばいいのに」という言葉を堪えてしぶしぶ出掛けた。僕はもうすっかり、こういう役回りだ。  亮也は学生時代からの恋人だ。暗くてどんくさい僕と違って、亮也は明るくて友人が多かった。釣り合わないと分かっていたのに、自分にないものを持っている彼が羨ましくて、惹かれたのだ。大学を卒業する時に勇気を振り絞って告白した。縁を切られる覚悟だったけれど、亮也は僕を受け入れてくれたのだった。付き合い始めてもう三年が経った。  一緒に住もうと言ってくれたのも彼だ。はっきりした言葉はなくても、きっと僕は愛されていると信じていた。  亮也の態度が変わったのは春辺りからだったと思う。ストレスや疲れを僕にぶつけてくるようになった。亮也は上下関係の厳しい会社で営業をしているので、少しでも楽になればとストレスを受け止める役に努めていたら、それが当たり前になって気付けば僕は彼のサンドバッグになった。   僕の姿が目に入ると苛々するのか「うざい」「のろま」などと罵られて、セックスも亮也の欲求不満を解消するためだけの横暴なものになった。今日だって「洗濯なんかいいからビールを買ってこい」と言われたけれど、帰ったらきっと「洗濯を中途半端にして出かけるな」と怒るのだろう。    ——好きじゃないなら別れたらいいのに。  パラパラと雨が傘に落ちる音に耳を傾け、デニムの裾がじんわり濡れていくのを感じながら陰鬱な空の下で溜息をついた。右手に持っている紫色の傘がやけに重い。  静かな住宅地を俯いて歩いていたら、水たまりに葉っぱが一枚浮かんでいるのを見た。鮮やかな緑色だったので、出どころが気になった。顔を上げると、すぐ傍の花壇に紫陽花が咲いていた。大きな鞠のような紫陽花が、紫、青、ピンクとグラデーションになってこれでもかというほど存在をアピールしている。僕は普段、花や草木に興味がないけれど、そんな僕でも思わず立ち止まってしまうほど、その紫陽花たちは美しかった。チョキン、と鋏の音がした。 「どちら様で?」  ウッドフェンスの向こうから、男の人が顔を出した。黒い短髪と細い目をした朴訥とした人だ。いかつい体躯の男が可憐な紫陽花の中で佇んでいる姿は、あまりにちぐはぐだ。 「すみません。綺麗な紫陽花だったので、つい見惚れてしまって」  男の人の背後には白い一軒家が建っている。 「あなたのおうちの紫陽花ですか?」  男の人は少し間をあけたあと、静かに答えた。 「ええ。母が育てていた紫陽花ですが、数年前に他界してからわたしが手入れをしています」 「そうですか。すごく大事にされてるんですね。綺麗なものを見れて元気が出ました」  では、と立ち去ろうとしたら、男の人はウッドフェンスの上から手を伸ばしてきた。枝切りされた紫陽花を差し出される。 「よかったら、持って帰って下さい」  ところどころにピンク色が混じった、薄紫色の大きな紫陽花を二朶。重たげに揺れている。受け取ろうとしたが、思い止まった。紫陽花を持って帰ったところで花瓶がないし、亮也に「邪魔だ」と言われるに違いない。欲しいけど受け取れない、というせめぎ合いで上手い断り方が浮かばなかった。僕は「けっこうです」と短く返して逃げた。  ――ああ、しまった。絶対、今の感じ悪い。  暫く走ったあと、立ち止まって振り返ってみた。あの男の人は、もういなかった。
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