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【今後とも宜しくね、お兄ちゃん?】
湊の飲んでいた抑制剤は、その晩は効果を発揮していた。
『兄貴は今発情期のはずだから。抑制剤は飲んでるだろうけど、抱いちゃえばそんなもんぶっちぎれるでしょ? そしたら、咬んでしまってよ』
瞳に不吉な火影を揺らがせていた宗谷の姿が脳裏をよぎる。
猛には、宗谷家が実際にはどの程度の力を持ち、湊にどのような対応をしてくるのか分からない。だが、絶対に湊を譲る気がないのなら、つがい契約を早急に済ませるべきだというのは理解していた。
プロテクターの連結部をいじっていた湊の白い指先が、今度は携帯を操作して、パスワードを打ち込んでいく。最後のひと文字をタップすると同時に、プロテクターの隙間からなめらかな肌が覗く。湊はサイドテーブルに携帯を置くと、首から引き抜いたプロテクターをその隣に押し込んだ。
照明を落とした寝室。カーテンの隙間から街明かりが差し込むほの闇に、白いうなじが浮かび上がる。猛が初めて目にする、何にも遮られていない湊の首筋だった。
無防備なその首筋の白さ心許なさを目の当たりにしたそれだけで、猛は己が昂ぶるのを感じた。
「夜中には薬も切れると思うのだけど」
抑制剤を飲み忘れたことがない、という湊は自信なさげだ。
「発情したら、すぐにつがいにします」
猛はそう言って、湊の細い身体を抱き込んだ。お互いに湯上がりの姿だが、触れ合わせた身体が上気しているのはそのせいだけではないだろう。
「うん。咬んで」
もはや猛にも湊にも、つがいになることへの躊躇いはない。お互いを取り巻く環境への相互理解は不十分だが、お互いのひととなりは、知り合ってからの歳月で十分に分かっている。お互いにとって好ましい人物であるのは、長らくの片恋が証明していた。
猛は湊に、恭しい仕草でキスを落とす。
発情を待たずの交接を望んだのは、湊の方だった。猛は何もかもが初めてである湊を慮り、発情してからの方が良いのではと思ったのだが、湊はきちんと覚えていたいからと言うのだ。
緊張に強ばった湊の身体を解きほぐそうと、猛は少しずつ肌を合わせていく。白い身体を露わにさせ、触れて唇をすべらせる。羞恥に染まる肌の色味を愉しみ、時に抗う身体をやんわりと抱き留めながら、途轍もない忍耐力を駆使して猛は湊の身体を蕩かしていった。本当は、己の欲望のままに抱いてしまえればどれだけ心地よいだろうかと思う。けれどそれでは、初めてを覚えていたいと言った湊の望を踏みにじることになる気がするのだ。
(優しい夜だったと覚えていてほしい)
それは猛の矜持でもある。
そんな風にやせ我慢と背伸びを駆使して、猛は湊を抱いたのだった。
そして抱きしめたままひと眠り――。
猛がまだ月の浮かぶ明け方に目覚めたのは、鼻腔をくすぐる芳香のせいだった。
えも言われぬ良い香りに目を醒まし、まだ覚醒しきらぬまま、傍らの身体を抱き寄せる。香りを嗅いでその源を追い、白いうなじに唇を寄せる。舐めて吸い付けば、腕の中の身体が震えた。
「くすぐったい」
湊の声は弾んだものだったが、少しうわずってかすれている。
「おはようございます。抑制剤、切れたみたいですね」
腕の中で寝返りをうった湊の頬は、ぼんやりと赤い。身体そのものも熱を帯びている。抑制剤の影響下から抜け出した身体がフェロモンを放出し、発情が顕在化しているのだ。
「……あついね」
そう言って湊が落とした溜め息は、ひどく色っぽいものだった。猛は二人共に掛けていたケットを払い、湊のその溜め息を奪うように唇を重ねる。
今度は特に確認もなく、予定調和の如く二人は肌を合わせた。
ほんの数時間前まで猛を受け入れた湊の窄まりは、まだ柔らかさを残していた。それどころか発情による愛液の分泌で、すでにぐずぐずに蕩けている。湊自身、初めての時のおぼつかなさとは違う、はっきりとした反応を返してきた。
「ん、」
赤く尖った胸先では、さきほどは曖昧なざわめきを感じるだけだったのだろうに、今はれっきとした快感を感ぜられるらしい。なぶる指先に腰をくねらせ、舐められれば猛の頭を抱き込んで声を上げた。
「気持ちよさそう。良かった」
「だ、って、ぁ、んん……っ」
猛が触れるほどに湊の声は艶を帯び、放出されるフェロモンの濃さが高まっていくようだ。強くなる香りに酩酊すら覚えながら、猛は湊の窄まりに指を差し入れる。先程確かめるように触れた時よりも熱を帯び、蕩けているようだ。指にさえ絡んでくる内壁に堪らない心地がして、性急に身体を繋げた。
湊の足をからげ正面から突き込めば、湊が泣きじゃくるような嬌声を上げて達する。ぷしゅっと散った精液で己の腹を汚す湊の姿は、淫猥でとても綺麗だ。カーテンを透かす淡い朝焼けがその肌をペールオレンジに染めるさまを、猛はうっとりと見つめながら腰を打ち付ける。
「ぁ、ひっ、あ、あ、ぁっ、」
蕩けた窄まり、その最奥に、先程は行き着くことの出来なかった深みがあるような気がする。猛は湊を抱えあげぐるりと返すと、這わせて後ろから突き込んでみた。
「や――――」
屹立の先端で奥を抉りこめば、湊がそれまでとは比較にならない声を上げた。
「や、やぁぁ、そこっや、やだっ、そこだめぇ……ッ」
力の抜けた腕では上体を持ち上げることも出来ないのか、シーツにぺたりと頬を付けてくずおれる湊。細い腰を猛に掴まれたまま、尻だけを高く掲げている。
「ここ、だめ?」
湊の横顔を眺めながら、彼が泣きじゃくる部分に屹立をずくりと差し入れる。ここは、発情によって下がって来て口を開いた、オメガ器官への入り口だ。オメガにとっては一番快楽を感じる部分である。
「ぁ……」
涙の光る眼差しを湊は猛に投げた。
「ぁ……ぁ、だ、めじゃない。だめじゃ、ない、からぁ、っ」
ふるふると首を振る仕草は、むしろねだっているようにも見える。猛は湊の腰を掴みなおすとぐいと引き寄せ、勢いよく穿ち始めた。
「っ、ァッ、あ、あ、ゃっ」
湊の上げる断続的な嬌声は甘く耳に心地よい。うっとりと聞き惚れながら引き寄せた背に覆い被さり、長めの髪をかき上げてうなじを晒す。ほっそりと白い首筋だ。少しでも力加減を間違えば食い破ってしまいそうなほどに細い。猛は目を眇めて狙いを定め、舌を這わせて舐め上げた。
「ひッ……」
途端に湊が身を強ばらせる。引き絞るような内壁の動きに、猛は抗うことなく身を委ねた。
「あ、あぁっ、ッ――――!」
胎の最奥に飛沫く流れを感じ取っているのか、ひときわ甲高く恍惚と泣きじゃくる湊。その心地よい響きに聞き惚れながら、猛は彼のうなじに歯を立てた。
窓を開け放した秋晴れの爽やかな室内に、新品の白いカーテンがひるがえる。
在宅仕事で家に籠もりがちな湊は、元々室内に植物を飾る習慣があったが、新居となるこの家にも大小幾つかの鉢を持ち込んでいた。
ベランダに続く窓の脇にはドラセナ。キッチンカウンターの上には折鶴蘭。湊のデスクにはポトス、といった具合である。
猛にとってはあまり馴染みのないそれらがそこに在ることは、共に暮らすひとの存在を知らしめる目印のようで、ひどく気分が良かった。
――二人がつがい契約を完了させてから三週間ほどが経った。
つがい契約を終えたのが土曜日。発情期を薬で抑えて、その翌日の日曜日の午後には宗谷と連絡を取った二人は、諸々の事情を最短で片付けたのである。宗谷家のことは、宗谷がかなりの尽力を見せてくれて、湊は宗谷家とは縁を切ることが出来た。
そして湊のオメガ器官除去手術はキャンセルの連絡を入れ、予約していた引っ越し屋は、そのまま二人の新居へと仕事をスライドさせた。新居は猛の通勤事情や今後の家族構成などを考慮しながら、二人で選んだ。
そして今日、湊が先に引っ越しを終えていた新居へ、猛もようやっと越してきたのである。――と言っても、荷物はさほどない。不要な家電や家具を始末してしまえば、衣類や鞄などの身の回りの品程度になったので、実家のセダンで二往復程度してダンボールを運び込んだのだった。
車は手伝いに連れ回していた弟が運転して帰った為、今は新居に二人きりだ。
「はい」
猛の荷物はひとまずそのまま、リビングで休憩である。冷えた麦茶とせんべいを出されて、猛は頭を下げた。
「ありがとうございます」
「うん。でも、ギリギリかもねえ。もう来ちゃうかも」
そう答えながら、湊は壁の時計を見上げている。
実際そう言い終わったか終わらないかのうちに、インターフォンが涼やかな音を立てた。くるりときびすを返した湊は、すぐさまその応対に出る。
「はーい。いらっしゃーい」
ほどなくしてリビングに姿を見せたのは、宗谷克己である。
「まだ散らかってんのね」
「そりゃ俺の引っ越しは今日が当日だかんなー。まあ今は休憩中。お前もせんべい食うか?」
ローテーブルの短辺に宗谷がひとりで座り、その斜め長辺に湊、隣に猛の順で座る。昔と変わった席順が、三人の関係性の変化を語っていた。
湊が出してくれたせんべいの皿を、宗谷に示す猛。
「あ、それ美味いよね。俺も好き……って、兄貴が俺の好物を用意してくれてるだけじゃんか」
むしろあんたがでかい顔して勧めんな、と悪態をついてから、宗谷はせんべいを取り上げた。
「克己、失礼だよ」
こと今に限っては、宗谷が礼を失していても仕方がないと思える猛は、気にした風もなくせんべいにかじりつく。知らぬ銘柄のせんべいだったが、確かに風味があって良い味をしていた。
「確かに美味いな」
「でしょ」
宗谷は全く悪びれないが、猛も普通である。そのことにほっとしたのか、湊はにこにこ笑いながら宗谷に麦茶を注ぎ、中身の減った猛のグラスにもおかわりを継ぎ足す。宗谷は目を細めてその様子を見ていた。
「――で、俺に何か頼みがあるんでしょ」
宗谷が切り出したのは、しばしせんべいと雑談を楽しんだ後だった。
「うん。ちょっと待ってね」
すぐさま腰を浮かした湊が、リビングのチェストボードからファイルを引き抜いてくる。そしてボールペンと共に、ファイルの中身を宗谷の前に差し出した。
「これのね、証人の所を克己にお願いしたくて」
かさりと開かれた紙は、婚姻届である。すでに猛と湊の記名は済んでいて、証人の欄だけが空白だった。
ふたり並んだ猛と湊の名前に、宗谷は色味の消えた眼差しを落とした。
「――――なんで俺なの。鯨井さんのご両親だっているだろうに」
宗谷の声は頑なに冷えている。彼は瞬きもせぬまま、ローテーブルの上の婚姻届を見つめ続けていた。
「僕が、克己に書いて貰いたいなあって思ったんだ。……僕とお前は、書類上はもう兄弟じゃなくなっちゃっただろう? だからせめてと思って、さ」
湊は何も気付いていない。だが猛には、これが宗谷を傷つけるだろうことは予想出来ていた。それでも申し訳ないが、肉親に恵まれなかった湊の、無邪気で悲嘆の籠もった願いを退けることが出来なかったのだ。
「……そう」
宗谷は言葉少なに頷くと、空白を埋めた。
湊の几帳面で美しい字と、猛のおおらかで崩れた字、そして宗谷のくせ字なくせに流暢な字が、一つの書類の中に並ぶ。それを湊は、とても満足そうに嬉しそうに眺めていた。
「ありがとう」
「いつ提出するの?」
「明日かな。特に日付に拘りないし」
「だったら、なんだったら、どうせ一緒に夕飯食べに出るんだし、その時ついでに出しちゃえば? こういうのって確かいつでも受け付けてるんだよねえ? せっかくだから、証人としてそこまで見届けるよ」
宗谷の提案に、湊はぱっと猛を振り向いた。目が輝いている。
「猛くん、どうかな?」
「いいと思いますよ」
乗り気の湊を留める理由もない。むしろ、宗谷の提案に一も二もなく飛びつかずに、自分を振り向いてくれたことが嬉しいと感じる猛である。
「じゃあそうしよう! 待ってて。着替えてくるね」
湊はぱっと立ち上がって、寝室へと飛び込んでいく。
宗谷と猛はその背を見送って、二人して微笑んでいた。
「――あーあ、これで本当に、名実ともに俺の兄になっちゃったね、あんた」
宗谷は笑って言った。口調は嫌味のようだというのに、その顔はといえば、切なくも吹っ切れた笑みを浮かべているのだった。
「弟から脱却する気なんかないから、今後とも宜しくね、お兄ちゃん? 俺の大切な兄貴を頼みます」
(おわり)
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