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【俺と結婚して下さい】
「突然どうしたの?」
夜半の来訪にも関わらず、湊は猛を快く迎え入れた。
在宅仕事をしている湊の仕事場でもあるリビング。その一角に置かれたL字型のデスク周辺には書類が散っているものの、食卓代わりのローテーブルやソファは綺麗に片付けられている。しかしキッチンやリビングの部屋の隅には畳まれた段ボールが立てかけられており、猛はそれらに不信の眼差しを向けた。
まだ蒸し暑さの残る秋の夜とあってエアコンが作動し、今付けたばかりなのか、空気清浄機が大きな唸りを上げていた。猛はその空気清浄機を眺めながら、細く息を吸う。
未だ消しきれぬ名残が、空気中に漂っていた。それはもちろん、発情期中であるらしい湊のフェロモンである。それはどれだけ抑制剤で抑えたとしても、ゼロには出来ない。
なのに来客を――しかもアルファと知っている人間を招き入れる湊の無防備さを、猛は危ぶんだ。
けれども、湊はそういうひとなのだった。
「宗谷と会っていて、顔を見たくなりました」
丁寧に頭を下げれば、湊が忍び笑う。
「克己を見て僕を思い出すほど、似ていないだろう?」
確かに顔立ちに似たところのない異母兄弟だ。それぞれの母親の血が出たのだろうか。宗谷は黒い三日月のように不吉だが、湊はそれと対照的な、春風のきらめきを感じさせる容貌をしている。
しかも宗谷はアルファとしては小さめな183センチ程度しかない男だったが、湊はオメガにしては規格外の、181センチの長身なのである。骨格としては華奢なのかあまり巨軀には感じないのだが、それでも中々居ない高身長のオメガだ。
――そもそもこの身長のせいで、宗谷家は湊をアルファだと思い込んだのだ。綺麗な顔立ちにその年齢としては長身の、努力家故に頭の良い子ども。その時に持ち得ていた彼の美点のすべてが、彼の人生を歪める原因となった。アルファであると見込まれて実の父の元に引き取られた彼は、オメガだったが故に再び捨てられた。その時には生みの母は違う相手と結婚しており、彼に戻る場所はなかったのだという。
『兄貴は身長のことをかなり気にしているから、大きいや高いは禁句だからね』
初めて湊に会う時に、宗谷はそんな忠告を与えて来た。
オメガ故に捨てられた彼は、彼をアルファと見紛わせたその長身故に、オメガとしての価値を見失っているのだ。
自分に価値を見いだせない彼は、だからこそこうも危機感なくアルファを家に上げてしまうのである。
「ふふ。克己と会って焼き肉を食べたのかい? 空気清浄機が怒っているね」
いたずらっぽく湊が笑うので、猛は赤面した。その笑顔の柔らかさが好ましかったのと、匂うと暗に指摘された羞恥ゆえである。その空気清浄機は湊のフェロモンを除去するために唸りを上げているのだと思っていたのだが、実際は来訪者の猛の匂いに反応していたようだ。
(クソ宗谷……! お前こういう心づもりだったくせに、どうして匂いのキツいモンを選んだんだよ……!)
嫌がらせか? 密かな嫌がらせなのか?
「まだほっぺ赤いね? 酔いが抜けない? お水入れようか?」
湊は猛の返事を待たずにキッチンへと入っていく。
「すみません」
ラグを踏んでローテーブルを回り込み、壁際のソファに腰掛けようとする猛。その途中でなんの気なしにデスクを眺めた彼は、そこで動きを止めた。
「猛くん?」
水の入ったコップを手に戻ってきた湊が、小首を傾げる。
「あ」
「湊さん、これ――――」
「ああ、うん……」
湊がコップをローテーブルに置くのとほぼ同時に、デスクの上の書類を取り上げる猛。
「”オメガ器官除去手術 同意書”。……どういう事ですかこれ」
「うん。読んだままだよ。その手術を受けて、ベータになろうかと思って」
愕然と湊を見つめる猛とは対照的に、湊は落ち着いた様子だった。熟考の結果なのだろうか。
「ベータ……」
「ちょっと家のことで色々あってね。僕はオメガじゃない方が生きやすそうだからさ」
予想したより更に悪い事態になっていることに、猛は固唾を呑んだ。
「……なぜ普通につがいを探さないんです……?」
その問いに湊は「やだな、克己から何か聞いた?」と首を傾げ、
「僕なんかをつがいに選ぶアルファなんていないよ」
と言い放った。虚勢ではない、真実そう思い込んでいるてらいのなさだった。
――兄貴がオメガだって分かってから……そりゃあ色々あったんだ。父と母が散々に、オメガらしくないと罵ったんだ。正直、放出されるのは兄貴自身の為に良い、って思うくらいの悲惨さだった――
宗谷がそう語っていた過去が、現在も湊を形作っているのだ。
「ここも引き払うつもりなんだ。さすがに父に真っ向から逆らうのに、父の買ったマンションにしがみつくのは格好悪いからね」
「引っ越し……ですか?」
「うん。だから、今日会えて良かったよ」
にこりと綺麗に笑う湊は、言外に『君と会うのはこれが最後だね』と言っている。たまたま今日来なければ、何も言わずに姿を消すつもりだったのだろう。
それを悟った猛は、ぎゅっと引き絞られるような痛みを感じた。
湊にとって猛は、笑顔ひとつで置き去りに出来る程度の存在なのだ。
(なにが”あんたにならプロテクターを外す”だよ。なにが”兄貴だけの片恋じゃないことを願う”だよ)
猛は宗谷を罵った。これでは、片恋をしているのは猛だけではないか。
「湊さん」
猛は同意書を元通りデスクに戻し、湊に向き合った。
湊は優しい笑みを絶やさずに猛を見上げてくる。
「湊さん、俺と結婚して下さい」
勝率ゼロ。それを予測した上での、玉砕覚悟でのプロポーズだった。しかも徒手空拳。花束も指輪も、気の利いた贈り物のひとつすら携えていない。せめて湊の好物のひとつくらいと思っても後の祭りだ。
「え?」
「ずっと好きでした。俺と結婚して下さい」
「猛くん――?」
猛の言ったことが本当に理解出来ない様子で、湊はうかがうような上目遣いを向ける。猛はその表情がたまらなく可愛いと思いつつ、みたびの告白を行った。
「俺は、貴方が好きです」
自己評価の低い湊は、自分が誰かの好意や恋愛や欲望の対象になるだなんて思ってもいないのだ。
本当は、宗谷に連れられて出会い、ひと目見た時から気になって仕方がなかった。だが湊自身はこんな風で、だからこその清廉さや無垢さが犯しがたかった。加えて、宗谷という忠実な番犬も控えていた。
宗谷はあんな風に言うが、猛自身は湊から特別な好意や眼差しを向けられた記憶はない。だからこそ、一歩踏み出すことすら出来ずにいた――分の悪い賭けに乗る惨めさを味わいたくなかったのだ。
そして現在。分の悪い賭けどころか、分の無い賭けだと思っている。それでも動き出してしまったのは、どちらにせよ後がないからだ。賭けようと賭けまいと、湊は猛の前から去ろうとしている。
「――――……」
猛の声がやっと届いたのだろうか。湊が笑みを消した。彼はふらつくように動くと、ソファにぽすんと腰掛けた。
猛はその斜め向かいのラグに座り込む。もちろん正座である。
「――ええと、冗談……」
「本気です」
「……本気の方が、ますます分からないんだけど……。なんで?」
「貴方が好きだからです」
声が届いただけでも、意味を考えてくれるようになっただけでも大収穫だ。急ぐ気は毛頭無い猛は、その後も繰り返された問答に丁寧に付き合った。
誰も手をつけないままローテーブルに置き去りにされたグラスは水滴に濡れ、氷は溶け去った。
湊が”猛が自分を好いていること”をやっと受け入れたのは、かなりの時間が経ってからだった。
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