【僕も、君と一緒だよ】

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【僕も、君と一緒だよ】

 宗谷湊は途方に暮れて、目の前に座る二つ年下の男を見つめた。  鯨井猛というその男は、弟の友人である。湊自身と彼を表す関係性は、無い。ただ弟の延長線上で繋がりが途切れていないだけだった。 「なんで……なんで猛くんみたいなひとが、僕なんかを」  湊自身に限っていえば、彼に好意を抱いていたのは確かだ。とはいえ、成就を願ったことのない、秘めた想いだった。 「――僕なんか、こんな身体だし、こんな……全然オメガらしくない、アルファに好かれるところなんてひとつもない……なんで」  それはオメガであることが発覚した折に、散々実父と継母から罵られた欠点だった。  実際、湊が彼らから解放され高校や大学に進み、社会人となっても、湊の隣に並ぼうというアルファは終ぞ出てこなかった。もちろんそれは、必要以上に臆病になった湊が自ら彼らを遠ざけていたせいもあるのだが、湊は父母の言う通り自分がオメガとして劣っているからだと信じている。 「身体、ねえ」  ところが猛はそう呟くと、湊を手招いた。 「湊さん、ちょっと立って下さい」 「え?」  ソファに座っていた湊は、首を傾げつつも猛の前へと立つ。ずっと正座を続けていた猛は、湊を前にしてようやく立ち上がった。彼の顔の位置がぐんと上がり、湊は彼を見上げることになる――そう、猛は湊よりも背が高いのだ。  湊が不思議そうに猛を見上げれば、猛は猛で不思議そうに湊を見おろしている。 「俺は気にならないですね。湊さんの身長」  猛はそう言うと、自分の鼻程度の位置にある湊の頭を撫でた。 「……ッ」  湊はぎょっとしたように息を詰め、自分の頭上の猛の手、そしてそれに続く逞しい腕を見上げた。  驚いた。  頭を撫でられるなんて、初めての経験だった。当然父や継母から撫でられたことはなかったし、情の通わなかった実母も同様である。 「だって俺、189あるんですよ。湊さん181でしょ? しかも細っこいし。――ちょっと失礼しますね」  猛はぱっとかがみ込むと、否やを言わせない素早さで湊の背と膝裏をすくい上げた。 「ぎゃ、ちょ……! 何して……っ!」  突如視界が回転し天井を見ることになった湊は、すがるものを求めて猛の首に腕を絡ませる。それによってますます安定感を得たのか、猛は湊を軽々と横抱きにして立ち上がったのである。 「思った以上に軽いですよ。吃驚しちゃいました」  猛は確かめるように、腕の中でぽんと湊を弾ませる。そして横抱きから縦抱きへと、湊の体勢を変えさせた。 「猛くん……降ろして……! なんでこんな事……!!」  突然高くなった視界に、湊は悲鳴をあげた。今にも頭が天井についてしまいそうだ。 「だって、湊のさんの体格なんて俺にはなんの障害にもならないって証明したくて」 「だからって!」  一応断りがあったとはいえ、暴挙である。心構えの出来ていなかった湊は、困惑と羞恥に顔を真っ赤に染めていた。  猛は至近距離からそれを見つめ、微笑んでいる。 「恥ずかしいですか?」 「あ、当たり前だろ! 降ろしてって言ってるのに!」 「俺はドキドキしてますよ。憧れの湊さんをこんなに身近に感じちゃって。思わずキスしちゃいたい位です」  湊はひっと悲鳴を上げた。  何が憧れの湊だ。今までそんな素振りは微塵も見せやしなかったくせに。湊がオメガ器官を捨てる決心を付けた途端に、どうしてこんな風に心をかき乱してくるのか――ドキドキしているのも、近すぎる距離に呼吸困難を起こしそうなのも、触れ合う身体に甘酸っぱいときめきを感じているのもみんな、湊の方だ。 「とにかく降ろしてってば!」  強引にでも滑り降りようと、湊は手足をばたつかせる。だが猛はよっぽど鍛えているのか、身体をぐらつかせることもなく悠然と立っている。むしろ、湊が声を張り上げて暴れるほどに笑みを深め、楽しそうになっていくではないか。 「ほら、分かりますか? 俺の鼓動、すっごく激しいの」  抱いた子どもをあやすように、猛は湊をゆらゆらと揺する。そして己の首に掛かっていた湊の手を取り、下へと滑らせた。自らの心臓の真上へと。 「……ッ」  掌に猛の体温を感じる。クーラーに冷やされたシャツ越しに、熱い肌と脈動を感じる。どくりと拍子を打つそれは確かに、早く激しいものだった。 「ね、どうです?」  答えなど自分でも分かっているだろうに。面映ゆそうに頬を染めた猛は、それでも返答を求めて湊の目を覗き込んでくる。湊はとても目を合わせて居られず、猛のシャツを爪繰りながら瞼を伏せた。 「――湊さんが好きだから、心臓がバクバクして全然収まらないんですよ」  返答のなさを理解のなさと誤解してか、猛が追撃を仕掛けてくる。湊はとうとう、猛のシャツをぎゅっと握り混んだ。  心臓の鼓動の激しさで恋情の深さが測れるというのなら、湊だって猛に負けないくらいに鼓動を響かせている。  響かないはずがない。好意を抱いていて、でも諦めて、もう会うことはないだろうと思い切ろうとしていた相手からの突然の告白と接触を受けたのだ――嬉しくないはずがない。胸を高鳴らせないはずがない。 (僕の心臓がこうなるのは……僕が猛くんを好きだからだ)  僕は猛くんが好きだ。それを反駁した湊は、握りこんでいた拳を開く。そしておずおずと、再び手のひらを猛の胸に押し当てた。  どん、と感じる鼓動。  その感覚を意識しながら、今度は猛の頬にすり寄るように頭を寄せていく。するとたったそれだけのことなのに、猛の鼓動が跳ねるのが分かった。それに勇気を得、また自信の芽生え始めた湊は、更に猛にすり寄ってみる。猛の首筋に抱きつくように、頭をもたせかける。  どくん、と大きくなった手のひらの鼓動は、大きさはそのままに高らかな拍動を刻み始めた。  猛の鼓動が変わるのは、湊が彼に働きかけた時――つまり湊の些細な行動が、彼にこんなにも影響を与えている。それを手のひらを通じて目の当たりにした湊は、思わず息を呑んだ。今までこんな風に、自分が誰かに影響を与えられる存在なのだと思わせられた事は無かった。ひとにとって、自分が重要な存在なのだと感ぜられた事はなかった。湊は誰にとっても必要の無い、右から左へと移動させられるだけの、どうでもいい存在でしかなかったから。  今、手のひらに感じる鼓動は、そうではないと告げていた。少なくとも猛にとっては、湊はどうでもいい存在では無いのだと、そう告げていた。  そのことが湊に感動を与える。それはさざなみのようにひそやかに湊の心の奥深くへと浸透し、ついには涙となって溢れだした。 「猛くん」  己の名を呼んでほろりと涙をこぼした湊に、猛は焦ったようだ。 「わ、湊さん?」  今まで何度頼んでも降ろさなかった癖に、猛はすとんと湊を滑りおろした。そして両手を肩ほどの高さに掲げながら、湊から一歩後ずさる。 「すみません。泣く程お嫌でしたか」  湊はふるりと首を振る。 「違う。違うよ」  湊は自ら猛にすり寄っていたというのに。あんな仕草を見せていてもなお、そのような読み違えをする――猛もそれだけ湊に対して本気であり、だからこその恐れを抱いているのだろう。それを悟ってしまうと、湊は自分ばかりが気遣われていることが、途端に恥ずかしくなった。  湊は決意を込めた眼差しで猛を見つめると一歩踏み出して、二人の間の距離をなくす。そして彼の手を取り、自らの胸へと誘導した。 「み、湊さん?」  猛が声を上擦らせるのも構わずに、大きな手のひらを己の胸へと押し付ける。 「ほら、猛くん、分かる――?」  湊自身には分かる。猛の手の熱さに跳ねる、自分自身の鼓動が分かる。これが猛に伝わればよいと願いながら、湊は猛の手の上に己の手を重ねた。 「僕も、君と一緒だよ」  自分よりも高い位置にある猛の瞳を、湊は一心に見つめる。 「湊さん……」  呆然としていた猛は、そのひと言で気を取り戻したようだ。途端にしゃきっとした表情を浮かべ、真剣に、手から伝わる心音に意識を注ぐ様子である。 「早い……でも俺と同じくらい……」 「君だって、早い」  再び猛の胸に手を当てた湊は、比べて笑う。  それは、今まで湊につきまとっていた淋しさの抜けた、少しだけ華やいだ笑みだった。それに目を奪われながら、猛は己の手に重ねられていた湊の手を両手で握りこんだ。 「湊さん。ずっと好きでした。俺と結婚して下さい」  猛は始まりの台詞を再び告げる。  湊は最初の時のようにいぶかしむこともなく、今度は、深くしっかりと頷いた。 「はい」  聞き間違えようのないはっきりとした返事に、猛は喜色を浮かべる。だが湊は、 「――ねえだけど、どうしていきなり結婚……? 普通ならつがい契約からになるのでは?」  と問いを重ね、猛はそれを受けて、例の”オメガ器官除去手術 同意書”へと視線を滑らせた。 「俺としては、オメガのままで居て欲しいですが、どうしても湊さんがベータになりたいのならばそれを尊重します。ですが、ベータになっても俺と結婚して下さいという意味で、つがい契約でなく”結婚”を申し込みました」  湊は目を瞬かせた。一気に伝えられた想いを咀嚼するのに時間が掛かったが、そうする間にも胸は早鐘のように鳴り響き、頬は赤みを増していく――何故ならそれは、『湊ならオメガでもベータでも良い』と言われたも同然だったからだ。 「う……」  アルファでないならば価値がないと捨てられ、今度はオメガ性故に生むことを求められ、オメガ性を捨て去りさえしたら、今度こそ良くも悪くも誰にも求められないもの(ベータ)となる……そう思っていたのに。誰からも誹られず不当な搾取を受けないことに憧れながら、真実求められないものとなった時の孤独と心許なさに本当は怯えていた。本当は、とても淋しかった。  猛の言葉は、湊のそうした柔らかい部分を見事に貫いた。 「ううう……」  先程ほろりと溢れた涙とは違う、滂沱となって流れる涙である。 「み、湊さん……!」  焦ったのは猛だ。だが今度は泣いた湊を突き放すようなことはなく、両腕で包み込むと胸に抱き寄せる。湊は猛の胸にすがりつくと、しゃくりあげながら泣きじゃくった。 「あ、ありが、……っく、ありがと、猛、くん、ありがと……」 「あー……今はいいから。落ち着くまで泣きましょう。ね?」  猛は優しく湊の背を撫で、髪を梳いてやる。こくんと頷いた湊は猛の肩に顔をうずめた。 「落ち着きましたか?」  湊が落ち着くまでは数分を要した。  問われた湊は自分の涙が作った染みを恥ずかしそうに見つめながら、こくりと頷く。言うまでもなく、それは猛の肩口である。猛のシャツを随分と派手に汚してしまった。 「ありがとう猛くん。もう平気……シャツ汚してごめんね」  猛は返事の代わりのように、まだ濡れている湊の頬を指先で拭う。 「――君が望んでくれるなら、僕はオメガのままで居たい……」  自分の涙よりも熱いその指先に誘われるように、言葉がほろりと唇から溢れ落ちる。  はっと、猛が息を呑んだ。 「ありがとうございます。オメガで居て下さい。後悔させません。絶対に、幸せにしますから」  猛はどこまでも真摯でひたむきだ。  彼の言葉に甘く疼くような幸福を感じながら、  ――僕がオメガであることが、彼にとっての幸福にもなればいい。  と願った。 
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