人ごみに彷徨う

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「いらっしゃいませ〜」  七海が中を覗くと気怠そうな女の店員が声を掛け、奥のボックス席に七海を案内した。カウンター内の店主と思しき中年の男はグラスを拭く手を止めて、目の前を通り過ぎる七海の姿に思わず見惚れた。  七海が隅の茶色のレザーシートに腰を下ろすや否や、店員は「ご注文はお決まりですか」と聞いてきた。メニューも見る間のなかった七海だったが迷わずに、 「トマトジュース」と小さな声で注文した。  店員は何を予想していたかは定かではないが、「あ、トマトジュースですね」と少し間を開けた後に返事をした。こういう店で七海の飲めるものといったらトマトジュースくらいしかなかった。本当はもっと体に浸透する物が七海は飲みたかったのだが。 「トマトジュース、ワンでーす」とカウンターにオーダーを通す店員の声が聞こえる。  久しぶりの外出で七海は思いのほか疲れていた。人ごみの中で聞こえた人の胸の内、焦燥や悲哀や絶望や嫉妬などのネガティブな声が、壊れたレコードのように頭の中で繰り返し流れている。 『人間って面倒臭い』七海は頭の中で考えていただけの何気ない言葉を口から小さく吐き出した。
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