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翌日、出勤した朔也は、改めて仁美に頭を下げた。
「別に謝られたいわけじゃないし、感謝されるつもりもないんだけどな」
「でも、きっかけをくれた。助かった」
「まあ私としては、葵ちゃんが元気になるなら、それでいいんだけどさ」
「そうだな。俺もその方がいい」
「うわー。正体明かした途端、なにその態度」
「少なくとも、嫌われてないことはわかったからな」
「ってことは、氷上くんの方は覚悟決まったってことなのね」
「そういうこと、かな」
仁美に問われ、朔也は答えた。
たぶん、なんて曖昧な言葉で濁すには難しい気持ち。会って、話して、ようやっと腑に落ちた。
はじまりが後ろめたい出来事だったせいで、罪悪感が消えなかったが、もうそんなことはどうでもいいのだ。
大切なのは、今どう感じているか。
今、大事なのは、朔也が満月嬢を好きで、葵のことも可愛いと思っていること。そして、その二人が同じ人物となれば、迷う必要もない。
「一発や二発じゃ済まないかな」
「ジンのこと言ってる?」
「陣内さんに疎まれるのは堪えるなぁ」
「でも、諦めるつもりもないんでしょ?」
「それは勿論」
「なら、いいじゃない」
「手伝ってくれるか?」
「私は葵ちゃんの味方です」
「それでいいよ」
〇
カウンターに立つ仕事じゃなくて、本当に良かった。
葵は心底そう思いながら、食器を洗っている。
先ほど、仁が葵に声をかけてきたのはいつも通りだったけれど、その隣にいる朔也に目が行ってしまったのは、昨日の事があったからだろう。
ずっと話をしていた新月氏が、実は氷上朔也だったこと。
それ自体は驚いたし、ものすごい偶然だと思ったけれど、まず葵が感じたことは「恥ずかしい」であった。
伯父や伯母に言えていないことも、新月には明かしている。知らない人だからこそ話せたのに、実は身近にいた、顔見知りだったなんて――
(……穴があったら入りたいって、こういうことだよね)
ものすごく恥ずかしくて、なかなか顔が上げられなくて。昨日は随分と迷惑をかけてしまったに違いないのに、そんな葵をちっとも責めず、朔也はただ己の非を謝罪していた。
葵を気遣い、励ましてくれる優しい人。
現実の新月は、やっぱり思っていた通りの人で、それが氷上朔也であったことも、すとんと納得できてしまった。それはやはり、朔也自身がいつも優しい人だからなのだと、葵は思う。
人が引けた後、葵は仁美に呼ばれ、食堂の片隅で話をした。
「仁美さん、昨日は、ありがとう、ございました」
「こっちこそ、いきなりでごめんね」
「いえ、色々わかって、よかったです」
「ジンには何も話してないのよね。葵ちゃんもそうでしょ?」
「……はい」
「まー、その辺は氷上くんに任せちゃいなさい」
「でも、ジンくん、怒りそう……」
「そうねぇ。でもさ、葵ちゃん。ジンが駄目だって言って、その通りにする?」
問われ、考える。
あの場所で、新月――朔也と話をすることを禁じられたとして、言われるがままに繋がりを絶つかと言われたら、それは否だろう。
あの文字だけの会話は、声を発することが苦手な葵にとって、それを気にせず自由に話ができる解放の場だった。
決して表には出せない葵の想いを、受け止めてくれる、大切な場所なのだ。それを取り上げられたくはない。
「――嫌、です。ジンくんに、そんな権利、ないです」
「よし。じゃあ、大丈夫か。二人で決めなよ」
「でも、氷上さん、は、どうなの、かな」
「やめないでしょ。引くつもり、さらさらないよ、あの顔は」
「なら、いいんです、けど……」
どこか不安そうに俯く葵に、仁美は首を傾げる。そして、あることに気づいて、おそるおそる問いかけた。
「ねえ、葵ちゃん。こんなとこで訊くのもなんなんだけど」
「はい」
「氷上くんから、なにも言われてないの?」
「なにもって……、なにをですか?」
「――あのヘタレが」
仁美は、舌打ちにとともに毒づいた。
「あの……?」
「葵ちゃんさ、新月さんのことは好きだよね、人として」
「はい」
「相手が氷上くんだってわかっても、それは変わってない?」
「おんなじだって、思ってますよ。すごく、しっくりきたし、それに、なんか……」
「うん」
「あの、うまく、言えないんですけど、嬉しいなって、思って。知らない人だったら、もう話すことも、なくなっちゃうかも、だけど――」
「氷上くんなら、居なくなったりしないから、良かったってこと? でも、居なくなりはしなくても、気軽に話せなくなることだってあると思うよ。例えば、彼女が出来たとか、結婚したとか」
放たれた言葉に、葵の心臓は大きく音を立てた。緊張しているわけでもないのに、息が苦しくなって、頭がぐらぐらして、どうしようもなく泣きたくなってくる。
一人は嫌だ。
せっかく一人に慣れようとしていたのに、葵の毎日にはもう、新月――朔也がいる。
他の誰かでは、きっともう駄目なのだ。
「……わた、私、は」
「キツイこと言ってごめんね。でも、それが葵ちゃんの答えだよ」
「こた、え?」
「誰か一人が特別になるって、嬉しくて楽しくて、時々哀しくて、怒りが湧いて。色々あって、幸せなことなんだよ」
それが、恋だよ。
仁美の言葉が胸に落ち、じんわり熱を持って身体中に広がった。
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