09 それは光のような

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 翌日、出勤した朔也は、改めて仁美に頭を下げた。 「別に謝られたいわけじゃないし、感謝されるつもりもないんだけどな」 「でも、きっかけをくれた。助かった」 「まあ私としては、葵ちゃんが元気になるなら、それでいいんだけどさ」 「そうだな。俺もその方がいい」 「うわー。正体明かした途端、なにその態度」 「少なくとも、嫌われてないことはわかったからな」 「ってことは、氷上くんの方は覚悟決まったってことなのね」 「そういうこと、かな」  仁美に問われ、朔也は答えた。  たぶん、なんて曖昧な言葉で濁すには難しい気持ち。会って、話して、ようやっと腑に落ちた。  はじまりが後ろめたい出来事だったせいで、罪悪感が消えなかったが、もうそんなことはどうでもいいのだ。  大切なのは、今どう感じているか。  今、大事なのは、朔也が満月嬢を好きで、葵のことも可愛いと思っていること。そして、その二人が同じ人物となれば、迷う必要もない。 「一発や二発じゃ済まないかな」 「ジンのこと言ってる?」 「陣内さんに(うと)まれるのは(こた)えるなぁ」 「でも、諦めるつもりもないんでしょ?」 「それは勿論」 「なら、いいじゃない」 「手伝ってくれるか?」 「私は葵ちゃんの味方です」 「それでいいよ」    〇  カウンターに立つ仕事じゃなくて、本当に良かった。  葵は心底そう思いながら、食器を洗っている。  先ほど、仁が葵に声をかけてきたのはいつも通りだったけれど、その隣にいる朔也に目が行ってしまったのは、昨日の事があったからだろう。  ずっと話をしていた新月氏が、実は氷上朔也だったこと。  それ自体は驚いたし、ものすごい偶然だと思ったけれど、まず葵が感じたことは「恥ずかしい」であった。  伯父や伯母に言えていないことも、新月には明かしている。知らない人だからこそ話せたのに、実は身近にいた、顔見知りだったなんて―― (……穴があったら入りたいって、こういうことだよね)  ものすごく恥ずかしくて、なかなか顔が上げられなくて。昨日は随分と迷惑をかけてしまったに違いないのに、そんな葵をちっとも責めず、朔也はただ己の非を謝罪していた。  葵を気遣い、励ましてくれる優しい人。  現実の新月は、やっぱり思っていた通りの人で、それが氷上朔也であったことも、すとんと納得できてしまった。それはやはり、朔也自身がいつも優しい人だからなのだと、葵は思う。  人が引けた後、葵は仁美に呼ばれ、食堂の片隅で話をした。 「仁美さん、昨日は、ありがとう、ございました」 「こっちこそ、いきなりでごめんね」 「いえ、色々わかって、よかったです」 「ジンには何も話してないのよね。葵ちゃんもそうでしょ?」 「……はい」 「まー、その辺は氷上くんに任せちゃいなさい」 「でも、ジンくん、怒りそう……」 「そうねぇ。でもさ、葵ちゃん。ジンが駄目だって言って、その通りにする?」  問われ、考える。  あの場所で、新月――朔也と話をすることを禁じられたとして、言われるがままに繋がりを絶つかと言われたら、それは否だろう。  あの文字だけの会話は、声を発することが苦手な葵にとって、それを気にせず自由に話ができる解放の場だった。  決して表には出せない葵の想いを、受け止めてくれる、大切な場所なのだ。それを取り上げられたくはない。 「――嫌、です。ジンくんに、そんな権利、ないです」 「よし。じゃあ、大丈夫か。二人で決めなよ」 「でも、氷上さん、は、どうなの、かな」 「やめないでしょ。引くつもり、さらさらないよ、あの顔は」 「なら、いいんです、けど……」  どこか不安そうに俯く葵に、仁美は首を傾げる。そして、あることに気づいて、おそるおそる問いかけた。 「ねえ、葵ちゃん。こんなとこで訊くのもなんなんだけど」 「はい」 「氷上くんから、なにも言われてないの?」 「なにもって……、なにをですか?」 「――あのヘタレが」  仁美は、舌打ちにとともに毒づいた。 「あの……?」 「葵ちゃんさ、新月さんのことは好きだよね、人として」 「はい」 「相手が氷上くんだってわかっても、それは変わってない?」 「おんなじだって、思ってますよ。すごく、しっくりきたし、それに、なんか……」 「うん」 「あの、うまく、言えないんですけど、嬉しいなって、思って。知らない人だったら、もう話すことも、なくなっちゃうかも、だけど――」 「氷上くんなら、居なくなったりしないから、良かったってこと? でも、居なくなりはしなくても、気軽に話せなくなることだってあると思うよ。例えば、彼女が出来たとか、結婚したとか」  放たれた言葉に、葵の心臓は大きく音を立てた。緊張しているわけでもないのに、息が苦しくなって、頭がぐらぐらして、どうしようもなく泣きたくなってくる。  一人は嫌だ。  せっかく一人に慣れようとしていたのに、葵の毎日にはもう、新月――朔也がいる。  他の誰かでは、きっともう駄目なのだ。 「……わた、私、は」 「キツイこと言ってごめんね。でも、それが葵ちゃんの答えだよ」 「こた、え?」 「誰か一人が特別になるって、嬉しくて楽しくて、時々哀しくて、怒りが湧いて。色々あって、幸せなことなんだよ」  それが、恋だよ。  仁美の言葉が胸に落ち、じんわり熱を持って身体中に広がった。
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