07 月の裏側

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 文字だけでも気分というのは伝わるものらしい。  その日の満月嬢は、とても嬉しそうだった。朔也が紹介したスマホケースを購入し、商品が届いたらしい。  ハンドストラップと一緒に、ビーズ細工の小さなウサギも付けたのだと、興奮した様子が伝わってくる。  あそこまで喜ばれると、教えた甲斐があったというものだろう。  きっかけは、姪へのクリスマスプレゼントという名の、おねだりだった。  商品検索をしていたせいで、ページに表示される広告が女性向けのスマホアクセサリーで埋め尽くされており、その中でウサギの絵がついた手帳型ケースが目に入ったのである。  彼女は、ウサギのモチーフが好きで、ついつい集めてしまうらしい。  お月見の時期はそういった物がよく売られているらしく、楽しみにしているのだと言っていたことが頭をよぎり、朔也はなんとなくウサギの絵が入った商品を探し始めてしまった。  スマホケース、ウサギ、手帳型  検索ワードを入れて、画像を上から眺めていく。  我ながら何をしているんだと思わなくもなかったが、その時はそれが正解だと思ったのだ。  そしてやはり、それは正しいことだったのだと、パソコンの前で朔也は笑みを浮かべる。  満月嬢と話をするようになってから、自分はよく笑うようになったと、朔也は思う。総務部の同僚にも、私生活に変化でもあったのかとこっそり訊かれたぐらいだから、それは確実に自分に影響を与えているのだろう。  いつか離れていく相手だと思っていたけれど、その時自分はどうなってしまうのだろう。  衝動的に、電話をかけてしまうかもしれない。  直接声を聞き、会いたい、会って話がしたい、と告げてしまうかもしれない。  自分はこんなにも、抑えが効かないタイプの人間だっただろうか?  朔也は、もう戻れない深みに嵌ってしまっていることに気づいて、頭を抱えた。  外出先から戻ってきたところで、入口近くのソファーに座っている人がいることに気づいて、朔也は足を止めた。  時刻は、四時を迎えようかという頃。こんな時間に来客が来るとは思えないし、だとしてもなぜここに座っているのか。  一体誰の客なのかと近づくと、そこに座っていたのは、望月葵だった。 「望月さん、こんな所でどうしたんですか?」 「あ。氷上さん。お疲れさま、です」  立ち上がって頭を下げる。  黒くて長い髪が、さらりと肩から流れ落ち、彼女の頬を撫でた。  食堂で見かける際は、後ろでひとつに縛っており、髪が落ちないように頭部も覆っているので気づかなかったが、意外と長髪だったらしい。 「えと、人を、待っていて……」 「人? ジンを?」 「違、くて。あの、伯父さんを」 「陣内さん?」  こくこくと必死に頷く葵。  朔也が「呼んできましょうか?」と言うと、今度は首を横に振った。 「お仕事、邪魔に、なっちゃう、ので。大丈夫です」 「でも、ここは暗いし、寒いでしょう」 「最初は、食堂の、控え室で、待ってた、けど。もうみんな、帰る時間、で」 「そうか。あっちはもう上がる時間か」 「はい、です」 「だったら、尚更だ。あっちに休憩用のスペースがあるから、一緒に行きましょう」 「あの、でも」 「望月さんも、うちの従業員なんですから、遠慮する必要はありませんよ」  促して、朔也は葵を奥へと連れていく。隣を歩く彼女は、キョロキョロと周囲に目をやっており、いつぞや誰かが言っていた「モルモットみたい」という言葉を思い出した。  モルモット、とは少し違うような気がする。例えるならば、なんだろうか。  暖かそうなモコモコしたコート、肩から掛けた鞄には、白いウサギのマスコットが揺れている。 (――そうか、ウサギか)  しっくりくる形容が浮かび、妙にウサギに縁があるものだと独りごちた。  いつも使っている休憩スペースに案内し、自動販売機の前に立って葵に問う。 「何がいいですか?」 「じ、自分、でっ」 「後輩でいる間は、素直に奢られておけばいいんですよ」  慌ててこちらに近づいてきた葵に、朔也は苦笑と共に返す。  財布を取り出しかけて、葵の鞄からは、別の物がこぼれた。朔也は足元に落ちたそれを拾いあげ、渡そうとして、固まった。  和を思わせる藍色に金糸の模様。朱色の目が映える白ウサギが、満月を目指している構図のスマホケース。同色のハンドストラップが付属しており、小さなウサギの絵が刺繍された凝った作りになっている。その脇には、ビーズで作られた小さなウサギのマスコット―― 「す、すみま、せん。すぐ、落としちゃって」 「……綺麗なケースですね」 「はい、知り合いが、お薦め、してくれて。すごく、気に入ってて」  照れくさそうに、でも、とても嬉しそうに笑う葵に、朔也は唾を呑み込んだ。 「随分と新しいようですが――」 「数日前に、届いた、ばっかり、なんです」 「そう……ですか。ちなみに、どちらで?」 「お店の、名前、よく覚えて、なくて。ネットの、お店です」  すみません、と小声で謝罪する葵の声を遠くに聞きながら、朔也は自販機にコインを投入し、葵へ促した。ペコリと頭を下げて、葵の指が購入ボタンの上をさまよう(さま)を、朔也はぼんやりと見つめる。  小さな手。  小さいんです。だから、うっかりすると子供用とかになっちゃいます。  なるほど、たしかに小さいな。  胸中で響く独白に気づくことなく、望月葵は朔也を見つめ、「ありが、とう、ござい、ます」と笑顔を浮かべる。  果たして自分はどんな顔をしているのだろうか。  柔らかくなったと称されるけれど、今は上手く笑えている気がまるでしない。  嘘だろ? 一体なんの冗談だ。  勘違いだと思いたいが、考えれば考えるほど、満月嬢と望月葵が重なっていく。  満月嬢は、正社員ではなく、三ヶ月ごとに契約を交わしていると言っていた。派遣ではなく、契約社員だというのであれば、勤務態度に問題がなければ、正社員への道が開く可能性があることを告げ、いくつかのアドバイスをしている。先ごろ、次の契約更新を行い、来年も働けるようになったと報告があったところだ。  本人は二十歳で、朔也と同じ年齢の従兄がいる。 (……ほんと、冗談キツイ)  (ひとし)になんと言えばいいのか。  葵は誰にもやらん、などと豪語しているあのシスコン男に、例のメッセージを送った上、現在進行形でチャットをしている相手が、おまえの大事な従姉妹だった、なんて、言える気がまるでしない。  まして仁は、朔也とチャットの女性を取り持とうとしているのである。  あの頃はともかくとして、今となっては「別に恋じゃない」とは言えなくなってきている。いずれ疎遠になるだろうと思っていたけれど、実はすぐ傍に居たのだと知った途端、確実に欲が生まれたことを朔也は自覚した。  手に入れられる可能性があるのに、離れる必要があるだろうか?  答えは、否だ。 「陣内さんに、声をかけてきます」 「あの、でも」 「一人で待たせていたら、俺がジンに怒られる。陣内さんだって、一緒だと思うよ」 「伯父さん、怒りますか?」 「というか、心配するんじゃないかな」 「……私、もっと、ちゃんと、したいんです」  朔也が言うと、葵は沈んだ顔をする。  以前、食堂で話した際にも「ちゃんと出来ているか」と問われたことを思い出し、朔也は首を捻った。 「二十歳で、一人で暮らして、仕事もしている。これ以上なく、ちゃんとしてると思う。少なくとも、俺が二十歳の頃は、今の望月さんよりずっと情けないガキだったと思うよ」 「全然、そうは、見えないです」 「望月さんぐらいの年齢から見れば、周囲はみんな年上で、すごくしっかりした大人に見えるだろうけど、実際、そこまで大人でもないよ。そう見せかけてるだけ。みんなそうやって、社会の中で擬態をしているにすぎない」 「擬態、ですか?」 「君は自分が駄目だと思っているかもしれないけど、周りはきちんと評価している。つまり、君も擬態が出来ているってことだ」 「本当は、違うのに?」 「嘘の中に、真実があったりするもんだよ」  何もかもをさらけだして、剥き出しの心で生きていくのは困難で。多少の嘘や幻影で飾り、自分を偽ることは悪いことではないはずだ。  それは決して「悪」ではない。  生きていくうえで、必要なことだろう。 「郷に入っては郷に従え。君は立派な社会人だよ、望月さん」 「ありが、とう、ござい、ます」 「礼を言われることでもないと思うけど」 「氷上さんは、やっぱり、いい人です」 「いい人、ね」  真実を知っても、果たして「いい人」と思ってくれるのだろうか。  苦い気持ちを抱えながら、朔也は陣内博史を呼ぶ為、総務部のスペースへ足を進めた。
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