10 これから

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「ちょっと望月さんに話があるんだけど、いいですか」 「え? 氷上さん、ですか?」 「眼鏡、どうしたんですか?」 「……ちょっと、壊れまして」  驚いた顔をされ、朔也は居心地悪げに目を逸らした。  普段かけている眼鏡は伊達で、視力は決して悪くはない。眼鏡をしている理由は、童顔のせいだった。  お金を扱う仕事をしている以上、少しでも落ち着いた大人として見られるよう、虚勢を張っているだけなのである。  食堂班の面々に奇異の目で見られつつ、朔也は葵を連れ出した。  社内食堂に近い場所にある休憩スペースは、時間帯のせいもあって、誰もいない。話をしていても、咎められたりはしないだろう。 「あの、眼鏡、どうしたん、ですか?」 「フレームが曲がったというか、曲げられたというか」 「曲げられ……?」 「ま、それで済んだなら安いもんだよ。二、三発は殴られるつもりだったし」 「な、なぐっ。ま、さか、ジンくん、ですか?」  息を呑んだ葵が立ち上がり、珍しく憤慨したような様子となる。  こんな顔もするんだな――と思いつつ、怒った顔も可愛いな、と胸中で呟く。 「殴られてはないよ。気持ちの持って行き場がなかっただけだろ。その矛先が眼鏡になっただけで。なくても支障がない物に当たるところが、ジンらしいよな」 「なくて、困りません、か?」  眼鏡を外した姿は昨日すでに見られているが、そういえば、それについて言及はされなかったし、自分もそれどころではなかったことを思い出す。  苦笑して、朔也は答えた。 「眼鏡は俺の武装だったけど、別にもういいよ」 「武装、ですか?」 「前に言っただろ? みんな擬態してるって。大人に見せかけるための擬態が、眼鏡だったんだ。でも、もういいかな。どっちでも」  童顔の自分は嫌だったけれど、今となっては感謝する。二十歳の葵の隣に立とうと思えば、童顔すらプラスの要素になるだろう。  使えるものは、なんでも使う。  仁にバレたことで、朔也は清々しい気持ちになっていた。 「坪内さんにも怒られたよ。不安にさせるなって」 「仁美さん、が、なにを?」  葵の手を取り、立ったままだった彼女を隣に座らせる。 「望月さん」 「は、い」 「君のことが好きです」 「――っ」 「君を大事にしているご家族に、先に話を通しておこうと思った俺が悪かった。先に俺の気持ちをきちんと伝えておくべきだったと、反省している」  握りしめた小さな手が、朔也の手の中で小さく震えた。  悪かった、と謝罪する声に、葵が(かぶり)を振る。朔也の前で左右に揺れる髪に手を伸ばし、葵の長い黒髪に初めて触れる。  髪なんて、特に珍しくもなんともないものなのに、どうしてこんなに美しいと思うのだろう。  どうしてこんなに、触りたいと思うのだろう。  人の思考は不思議だ。 「友達じゃなくて、彼女になってくれますか?」 「わ、私、で、いい、ですか?」 「言っただろ。君()いいんだって。話がしたいのも、顔が見たいのも、声が聞きたいのも、一緒に居たいのも、全部君だ」 「……ひ、かみ、さん」 「うん」  私も、ずっと一緒が、いいです。  囁くような小さな声が耳をくすぐり、全身を巡る。  朔也は「何故、今は昼間で、ここは会社なのだろう」と、天の神様を恨んだ。  その日の帰り、朔也は陣内家を訪れた。  仁は自身の両親には何も話してはいないらしく、同じ部屋にいながらも、黙って座っている。葵が欲しいなら全部てめーで話をつけろ、ということだろうと受け取り、朔也はきっかけとなった出来事から話しはじめた。  証拠としてスマホの画面を見せ、葵もまた自身のスマホを伯父夫婦に提示し、朔也の後押しをしてくれている。  すべてを話し終えた後、陣内博史は難しい顔をして黙り込み、ずっと下を向いている状態だ。  こちらから何も言うことも出来ず、朔也は神妙に沙汰を待つ。  隣に座っている葵は、おろおろとした様子で、しかし、何を言っていいのかもわからないのだろう。博史と朔也の顔を行ったり来たりしているだけである。  長い沈黙の中、口火を切ったのは、京子だった。 「黙ってないで、なんとか言いなさいよ。真っ正直に話してくれたんだから、今度はあなたの番でしょう」 「あの、伯母さん――」 「葵ちゃんは? 氷上くんと同じ気持ちなの?」 「……うん」 「そう。なら、伯母さんは応援するかな」 「ほんと?」 「葵ちゃんの初恋だもんね。女親としては、反対したくないかなー」  初恋という単語に、朔也が思わず葵に目をやると、小さな背丈をますます縮めて、葵が視線を逸らせる。  引き結んだ口元、ちらりと覗いた頬は、紅潮している。  その姿に、離れた場所に座っていた仁が、床に倒れた。身体の大きな成人男性が「葵が、俺の葵が……」とさめざめと泣いている姿は、どうにも情けない。  京子は、そんな息子を容赦なく罵倒する。 「あんたら男共は。普段、さんっざん氷上くんのこと褒めてるくせに、一体なにが不満なの!」 「不満とかじゃねー。サクはいい奴で、いい人に出会って幸せになればいいって思ってて」 「ならいいじゃない。それとも、あんたは葵ちゃんがいい女じゃないとでも?」 「そんなわけがあるか、葵は世界一可愛い」  言い切った仁に、葵は小声で――、しかしはっきりと呟いた。 「……ジンくん、気持ち、悪い」 「葵ぃぃ」  朔也が思っていた以上に、陣内家は愉快な一家だったらしい。  騒がしい家族を尻目に、家長の博史はようやっと口を開き、朔也を見据えた。 「氷上くん」 「はい」 「……どこまで知っているかはわからんが、葵はね――」 「大体のことは、お聞きしました。私は彼女の言葉や、それを伝えようとする姿勢を、いつも好ましく思っています」  居住まいを正して答えた朔也に、博史は泣き笑いのような表情を浮かべて、頭を下げた。 「これからも、葵の声を聞いてやってください」  葵はこのまま陣内の家に残るということなので、朔也は引き止められつつもお(いとま)することにした。  ただ何故か、クリスマスにお邪魔することが決定してしまった。  もともと用事もなく、家で一人シングルベルを鳴らすだけの身分だ。葵と過ごせるのならば、それに越したことはない。 (問題なのは、親御さんが同席ってところなんだが、まあ、仕方ないか……)  京子の方は、なにかと味方になってくれそうな雰囲気があった。  仁あたりはデートにまで付いてきそうな気もするが、こちらは仁美がなんとかしてくれるだろう。  見送りの為、外に出ている葵が、「今日は、曇り空、ですね」と、やや残念そうに呟いた。  つられて空を仰ぐと、雲の向こうにうっすらと光る月が、ぼやけて見えている。これで満月でも見えていれば完璧なのだが、そこは現実の哀しさか。 (月が綺麗ですね、とはいかないか……)  きっかけになったメッセージを思い出して、苦笑する。  吐いた息が白く濁り、月日の流れを感じた。  すると葵が、思い出したように話し始める。 「月が、綺麗ですね、は、後から作られた、創作だって、話も、あるんです」 「へー、随分と詩的だとは思ったけど、あれ作り話だったのか」 「えと、諸説、あるんです、が、もうひとつ、言葉が、あって。そっちでは、綺麗、じゃなくて、青いって、いうんです」 「青い?」 「はい。月が、とっても、青いなあ、って」  ふんわり笑った葵を見て、朔也は胸を掴まれたような感覚に襲われる。  満月  望月  彼女の名前は―― 「……あおい」 「はい、青い、です」 「いや、そうじゃなくて……」  意を決して口に乗せた言葉に笑って頷かれ、朔也は言葉につまる。  違う。  そうではない。  そうでは、なくて―― 「葵」  尻すぼみにならぬよう、はっきりと言い切るように、少し強めに彼女に告げる。  ぱちくりと瞳をまたたかせた葵は、やがてその意図することが伝わったのか、みるみるうちに顔が赤く染まっていく。 「あ、あ、の。えと、その……」  うろうろと目が動き、それでもこちらをチラチラと見やる様子が可愛い、だなんて。まったく自分はどうかしている。  涙目になり、恥ずかしそうに俯く姿が可愛くて。だけど、それが嬉しくて仕方がない、だなんて。 「葵。そう、名前で呼んで、いいかな」  こくり、頷く姿に、朔也は笑みを深くする。  今度は青空の下で語り合い、そして夜になったら同じ月を眺めよう。  満月から新月。  新月から満月へ。  繰り返す空の下で、これからの月日を共に過ごしたい。   〇  机に置かれたスマートフォンが震えた。  手に取ると、画面には、登録したばかりの名前が記されている。  届いたのはSMS。  タップして確認すると、名も知れぬ頃に交わした以前のメッセージがまだ残っていた。  あの時と違うのは、そこに「氷上朔也」と名がついたこと。  葵は微笑み、小さな手を使って、ゆっくりと返事を打ち込んで、送信した。  はい、おやすみなさい。  葵
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