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「ちょっと望月さんに話があるんだけど、いいですか」
「え? 氷上さん、ですか?」
「眼鏡、どうしたんですか?」
「……ちょっと、壊れまして」
驚いた顔をされ、朔也は居心地悪げに目を逸らした。
普段かけている眼鏡は伊達で、視力は決して悪くはない。眼鏡をしている理由は、童顔のせいだった。
お金を扱う仕事をしている以上、少しでも落ち着いた大人として見られるよう、虚勢を張っているだけなのである。
食堂班の面々に奇異の目で見られつつ、朔也は葵を連れ出した。
社内食堂に近い場所にある休憩スペースは、時間帯のせいもあって、誰もいない。話をしていても、咎められたりはしないだろう。
「あの、眼鏡、どうしたん、ですか?」
「フレームが曲がったというか、曲げられたというか」
「曲げられ……?」
「ま、それで済んだなら安いもんだよ。二、三発は殴られるつもりだったし」
「な、なぐっ。ま、さか、ジンくん、ですか?」
息を呑んだ葵が立ち上がり、珍しく憤慨したような様子となる。
こんな顔もするんだな――と思いつつ、怒った顔も可愛いな、と胸中で呟く。
「殴られてはないよ。気持ちの持って行き場がなかっただけだろ。その矛先が眼鏡になっただけで。なくても支障がない物に当たるところが、ジンらしいよな」
「なくて、困りません、か?」
眼鏡を外した姿は昨日すでに見られているが、そういえば、それについて言及はされなかったし、自分もそれどころではなかったことを思い出す。
苦笑して、朔也は答えた。
「眼鏡は俺の武装だったけど、別にもういいよ」
「武装、ですか?」
「前に言っただろ? みんな擬態してるって。大人に見せかけるための擬態が、眼鏡だったんだ。でも、もういいかな。どっちでも」
童顔の自分は嫌だったけれど、今となっては感謝する。二十歳の葵の隣に立とうと思えば、童顔すらプラスの要素になるだろう。
使えるものは、なんでも使う。
仁にバレたことで、朔也は清々しい気持ちになっていた。
「坪内さんにも怒られたよ。不安にさせるなって」
「仁美さん、が、なにを?」
葵の手を取り、立ったままだった彼女を隣に座らせる。
「望月さん」
「は、い」
「君のことが好きです」
「――っ」
「君を大事にしているご家族に、先に話を通しておこうと思った俺が悪かった。先に俺の気持ちをきちんと伝えておくべきだったと、反省している」
握りしめた小さな手が、朔也の手の中で小さく震えた。
悪かった、と謝罪する声に、葵が頭を振る。朔也の前で左右に揺れる髪に手を伸ばし、葵の長い黒髪に初めて触れる。
髪なんて、特に珍しくもなんともないものなのに、どうしてこんなに美しいと思うのだろう。
どうしてこんなに、触りたいと思うのだろう。
人の思考は不思議だ。
「友達じゃなくて、彼女になってくれますか?」
「わ、私、で、いい、ですか?」
「言っただろ。君がいいんだって。話がしたいのも、顔が見たいのも、声が聞きたいのも、一緒に居たいのも、全部君だ」
「……ひ、かみ、さん」
「うん」
私も、ずっと一緒が、いいです。
囁くような小さな声が耳をくすぐり、全身を巡る。
朔也は「何故、今は昼間で、ここは会社なのだろう」と、天の神様を恨んだ。
その日の帰り、朔也は陣内家を訪れた。
仁は自身の両親には何も話してはいないらしく、同じ部屋にいながらも、黙って座っている。葵が欲しいなら全部てめーで話をつけろ、ということだろうと受け取り、朔也はきっかけとなった出来事から話しはじめた。
証拠としてスマホの画面を見せ、葵もまた自身のスマホを伯父夫婦に提示し、朔也の後押しをしてくれている。
すべてを話し終えた後、陣内博史は難しい顔をして黙り込み、ずっと下を向いている状態だ。
こちらから何も言うことも出来ず、朔也は神妙に沙汰を待つ。
隣に座っている葵は、おろおろとした様子で、しかし、何を言っていいのかもわからないのだろう。博史と朔也の顔を行ったり来たりしているだけである。
長い沈黙の中、口火を切ったのは、京子だった。
「黙ってないで、なんとか言いなさいよ。真っ正直に話してくれたんだから、今度はあなたの番でしょう」
「あの、伯母さん――」
「葵ちゃんは? 氷上くんと同じ気持ちなの?」
「……うん」
「そう。なら、伯母さんは応援するかな」
「ほんと?」
「葵ちゃんの初恋だもんね。女親としては、反対したくないかなー」
初恋という単語に、朔也が思わず葵に目をやると、小さな背丈をますます縮めて、葵が視線を逸らせる。
引き結んだ口元、ちらりと覗いた頬は、紅潮している。
その姿に、離れた場所に座っていた仁が、床に倒れた。身体の大きな成人男性が「葵が、俺の葵が……」とさめざめと泣いている姿は、どうにも情けない。
京子は、そんな息子を容赦なく罵倒する。
「あんたら男共は。普段、さんっざん氷上くんのこと褒めてるくせに、一体なにが不満なの!」
「不満とかじゃねー。サクはいい奴で、いい人に出会って幸せになればいいって思ってて」
「ならいいじゃない。それとも、あんたは葵ちゃんがいい女じゃないとでも?」
「そんなわけがあるか、葵は世界一可愛い」
言い切った仁に、葵は小声で――、しかしはっきりと呟いた。
「……ジンくん、気持ち、悪い」
「葵ぃぃ」
朔也が思っていた以上に、陣内家は愉快な一家だったらしい。
騒がしい家族を尻目に、家長の博史はようやっと口を開き、朔也を見据えた。
「氷上くん」
「はい」
「……どこまで知っているかはわからんが、葵はね――」
「大体のことは、お聞きしました。私は彼女の言葉や、それを伝えようとする姿勢を、いつも好ましく思っています」
居住まいを正して答えた朔也に、博史は泣き笑いのような表情を浮かべて、頭を下げた。
「これからも、葵の声を聞いてやってください」
葵はこのまま陣内の家に残るということなので、朔也は引き止められつつもお暇することにした。
ただ何故か、クリスマスにお邪魔することが決定してしまった。
もともと用事もなく、家で一人シングルベルを鳴らすだけの身分だ。葵と過ごせるのならば、それに越したことはない。
(問題なのは、親御さんが同席ってところなんだが、まあ、仕方ないか……)
京子の方は、なにかと味方になってくれそうな雰囲気があった。
仁あたりはデートにまで付いてきそうな気もするが、こちらは仁美がなんとかしてくれるだろう。
見送りの為、外に出ている葵が、「今日は、曇り空、ですね」と、やや残念そうに呟いた。
つられて空を仰ぐと、雲の向こうにうっすらと光る月が、ぼやけて見えている。これで満月でも見えていれば完璧なのだが、そこは現実の哀しさか。
(月が綺麗ですね、とはいかないか……)
きっかけになったメッセージを思い出して、苦笑する。
吐いた息が白く濁り、月日の流れを感じた。
すると葵が、思い出したように話し始める。
「月が、綺麗ですね、は、後から作られた、創作だって、話も、あるんです」
「へー、随分と詩的だとは思ったけど、あれ作り話だったのか」
「えと、諸説、あるんです、が、もうひとつ、言葉が、あって。そっちでは、綺麗、じゃなくて、青いって、いうんです」
「青い?」
「はい。月が、とっても、青いなあ、って」
ふんわり笑った葵を見て、朔也は胸を掴まれたような感覚に襲われる。
満月
望月
彼女の名前は――
「……あおい」
「はい、青い、です」
「いや、そうじゃなくて……」
意を決して口に乗せた言葉に笑って頷かれ、朔也は言葉につまる。
違う。
そうではない。
そうでは、なくて――
「葵」
尻すぼみにならぬよう、はっきりと言い切るように、少し強めに彼女に告げる。
ぱちくりと瞳をまたたかせた葵は、やがてその意図することが伝わったのか、みるみるうちに顔が赤く染まっていく。
「あ、あ、の。えと、その……」
うろうろと目が動き、それでもこちらをチラチラと見やる様子が可愛い、だなんて。まったく自分はどうかしている。
涙目になり、恥ずかしそうに俯く姿が可愛くて。だけど、それが嬉しくて仕方がない、だなんて。
「葵。そう、名前で呼んで、いいかな」
こくり、頷く姿に、朔也は笑みを深くする。
今度は青空の下で語り合い、そして夜になったら同じ月を眺めよう。
満月から新月。
新月から満月へ。
繰り返す空の下で、これからの月日を共に過ごしたい。
〇
机に置かれたスマートフォンが震えた。
手に取ると、画面には、登録したばかりの名前が記されている。
届いたのはSMS。
タップして確認すると、名も知れぬ頃に交わした以前のメッセージがまだ残っていた。
あの時と違うのは、そこに「氷上朔也」と名がついたこと。
葵は微笑み、小さな手を使って、ゆっくりと返事を打ち込んで、送信した。
はい、おやすみなさい。 葵
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