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5、現在(夢の途中)
でもあの歌はその後もずっと私の頭の中に残っていた。
今でも脳の中で虫の羽音のように鳴ることもある。
「遠い昔の誓いの契り
絆の糸は色香に縺れ」
歌詞まで覚えている。
冬合宿のあと、先輩たちは就職活動と卒論でサークルに来なくなった。環先輩がいないサークルからは私も足が遠のいた。
だから環先輩とヒロミ先輩が別れたことは、かなり後になって知ったんだと思う。
別れの原因はわからないし、これから先の人生の中で、環先輩に聞こうとも思わない。
就職氷河期と言われたあの年、内定がなかなか出なくて落ち込みかけていた環先輩に、商社の人事部長を務める父を紹介することになったのは、私たちがお付き合いを始める前のこと。
環先輩の上司でもある父は、今日私が生まれてから一番機嫌が悪い。
こっそり新婦の控え室に逃げてきた先輩は、困ったように言った。
「でも、こんなかわいいサーちゃんを見たら、俺に奪われる専務の怒りもわかるかな」
鏡越しに笑った環先輩に見えないように、右頬を隠した。
参列者の中には、サークルの仲間たちに混じってヒロミ先輩もいた。
ヒロミ先輩の黒髪は今も艶やかに美しい。
あの鬼が夢なのか現実なのかもわからない。
どこから来て、どこに行ったのかも。
薔薇を投げたのは誰かもわからない。犯人を追求しようとも思わない。
わかっていることは、私が今、幸せだということ。
薔薇の棘の傷なんて、ワセリンとファンデーションで隠れてしまうということ。
もし前世というものがあるとして、環先輩が「誓いの契り」を結んだ相手は、私なんだとあれから何度も自分に言い聞かせている。
誰かに話したら、夢の中のことをと笑うかもしれない。
もちろん決して誰にも話すつもりはないけれど。
「遠い昔の誓いの契り
絆の糸は色香に縺れ
ちょっきんなあ」
私は、今、幸せだ。
<fin>
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