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森の外れには、壊れかけの小屋がうずくまるようにしてありました。森のにぎやかさから追い出されてしまったようで、さびしく一軒だけ。森に住むみんなの記憶からも忘れられてしまったかのようでした。
屋根や壁は半分崩れてなくなっていて、外からでも中の様子がうかがえました。
中には何もなく物置としてさえも使われていないようでした。動物が潜む息遣いも聞こえてきません。太陽が昇っている昼間でも暗く、床に穴がいくつも開いているため、地の底に引きずり込むような不気味な黒い渦があちこち巻いているように見えました。
みどりの芽が目を覚ましたのは、そのすたれた小屋の床の下。冷たさと暗さがもうもうと沈殿する固い地面の上でした。
芽は曲がっていた細い体を、ふにゃりと起き上がらせました。
底を這うようにひんやりと冷たい空気が流れてきて、芽は起き上がらせたばかりの体をふるふると震わせました。頭の小さな二枚の葉っぱも左右に揺れました。
「うぅ、寒い」
床の下には太陽の温かさは届きません。地面はかちかちに固まっていて、またからからに渇いていて、その上で長く眠っていたため、体のあちこちがぐぎぐぎと痛みました。
「うぅ……」と、芽はまた体を震わせました。
今度は寒さで震えたのではありませんでした。辺りが真っ暗で何も見えないので、怖くてしかたなかったのです。あまりに静かで、打ち捨てられた幽霊の呻き声とも言えるようなみじめで嫌な音が響いてきます。暗い中にじっと身を隠して、自分を睨みつけている目がいくつもあるような気がしてしまいます。今にも鋭い爪をあらわにして静けさを切り裂き、襲ってくるかもしれません。真っ暗な闇それ自体も、いつか大きな目をボッと光らせ、大口を開けて飲み込もうとしてくるかもしれません。
とにかく芽には、周りの全てのものが自分を押しつぶしてくるように感じられてしまうのです。
「なんで、ぼく、こんなところにいるんだろう」
芽は泣きたくなりました。小さな二枚の葉っぱで自分を懸命に包むようにして、体を縮ませます。
この頭を叩かれるほどに静かな暗闇の中、ただ一人でいることがさびしくてさびしくて、心が押しつぶされそうになりました。
今すぐどこか、せめてほんの少しでも太陽の光が当たるところへ逃げたい。けれど、がんばって背伸びをしたところで、根が固い地面に埋まっていて、ちくりとも動くことができませんでした。
「ダメだ、いくらふんばっても体が抜けない。ぼく、もうここから動けないんだ」
どこにも行けないと分かった芽は、動くことを諦め、もう怖くて目をつむってしまいました。そうして自分がこの深い井戸にも似た小屋の床下にどうしているのか、思い出しました。
人間の大きな手に掴まれて捨てられたのです。
「お前はまったく我々の役に立たない。お前なんて必要のないものだ!」
そう吐き捨てられ、やわらかい土から引っこ抜かれて投げ捨てられました。その言葉が今も頭に残っています。
そうして風に吹かれ、知らない場所に運ばれたのでした。長い間眠ってしまい、目を覚ました時、このさびしく暗い地面の上に横たわっていたのです。
「必要ないから、捨てられた。葉っぱだけのぼくには何もない、何もできないから……」
芽は俯いて、じっと怖さと寂しさに耐えました。頭の二枚の葉っぱは体を抱き締めることも忘れ、力なく垂れています。
芽の体は花を咲かせるはずの芽でしたが、生まれてこの方、まだ一度も花を咲かせたことがありません。つぼみさえ一度もつけたことはないのです。
人間の手によって、居心地の良い鉢に植えられ、「お前は他とは違う。特別な花を咲かせるのだよ。そして我々の役に立っておくれ」と大事に育てられてきました。けれども、待てども待てども芽は花を咲かせることがありません。ずっと葉っぱだけの体だったので、「なんなんだこのダメな葉っぱは。これではもう雑草と変わらないではないか。これじゃあ使い物にならないぞ」と人間に呆れられ、ついに土から引っこ抜かれて森に捨てられたのです。
「花を咲かせていたら、誰かを楽しませることができたのかもしれない。こんな真っ暗な世界に捨てられて、寂しい思いはしなかったかもしれない。自分の花を、花を……」
葉っぱから、涙の滴が零れ落ちていきました。体は渇いているのに涙はまだ枯れていません。誰も見てくれない涙の滴は、誰にも知られずに地面に消えていきました。
「ぼくには何もなくって何もできない。だから、もう誰にも知られることはなくって、世界を知ることもできない」
◎
芽はとても疲れていて、またゴツゴツとした固い地面に横たわりました。
体が水を欲しがり、眠ろうとしてもなかなか眠れずに、そのまま夜を迎えてしまいましたが、真っ暗な地面の世界にほんのわずかながら光が差し込みました。金色の薄膜をまとった、雅やかで清澄なる光でした。
それまで明かりを遮ってきた樹木の群れが、金色の光をあがめるように一斉に背を反らして天を向き、そのおかげで枝の天蓋がほどけ、小屋にまで光が届いたのです。
土に体を横たえてずっと伏せっていた芽は光に照らされて、顔を上げました。
「光が入ってくる。あれは、あのやさしい明かりは、もしかしてお月様の光じゃないのかな」
ふらりと体を起き上がらせます。顔を上げて光をまっすぐ見つめていると、冷え切っていた体があたたかくなっていきます。今までずっと寒さ怖さで震えていたのに、その震えがぴたりと治まりました。
夜空からしずしずと降り注ぐ金色の光は、冷えた空気にまとわりつかれながらも、芽の横たわる漆黒の土を厚く照らし、沈殿していた冷たさや暗さを楚々と掃き、ゆっくり休める柔らかいものに変えてくれたのです。
「そうだ、お月様の光だ!」
芽はかすかに見える夜空の中に、月の姿をとらえることができました。
「お月様の光ってこの暗い地面にまで届くんだ。うわぁ、知らなかったなぁ」
懐かしさから胸の中で静かな波が打ち寄せました。
「すっごく広い夜の空。もしかしたらあそこだってここみたいにすっごく冷えるのかもしれない。なのに、そんなところに一輪だけ咲いてて、いつだってたくさんの命を見守ってくれてる。あぁ、すごいや、ぼくのあこがれの美しい夜の花」
芽は鉢に植えられて育っていた頃も、毎晩空に浮かぶ月を見上げて過ごしていました。鉢の上にいた時も、やっぱり話し相手がどこにもいなくて、さびしかったのです。
はてしなく遠く離れている存在でも、やさしく照らしてくれる月に、一途に想いを寄せました。
その日その日に起こったことを話したり、ただ、『さみしい』と思ったことや、『うれしい』と思ったことだけでも伝えていたのです。きっと気持ちが伝わると信じていました。
たとえ言葉が届かなくたって、誰かに、自分はここにいるよ、と知ってほしかったのです。
「お月様だって、たった一輪の花だから、悲しい時とかさびしい時とかあるはずなのに、いつだって暗くて広い夜空をひたむきに照らしてるんだ。あぁ、いつもすごく遠い場所、全然違う世界にいるような気がしてたのに、今は、お月様のこと、すごく近くに感じる。何でだろう、不思議だな、ぼく、こんな地の底に落ちたような場所にいるのに。お日様の光でさえ届かないこんな暗い暗い場所なのに」
「あなたのことを、わたしはちゃんと見ていますよ」
芽は目を丸くして驚きました。空から、しっとりとした声が届いたのです。
この声はお月様のものだ、とすぐに分かりました。降り注ぐ光と同じで、ほのかに甘い香が混じっていた声でした。
月の声を聞くことなど初めてのことでした。
「お月様とお話ができるなんて。ぼく、ずっと、ただ見つめていることしかできないって思ってた」
言葉が上擦ります。
「あなたがわたしにお話をしてくれるのを、いつもそっと耳をかたむけて聞いていましたよ」
「じゃ、じゃあ、ぼくの言葉、空に行く途中で、溶けて消えてしまってたんじゃなかったんだね」
「えぇ、ちゃんと届いていましたよ。あなたの声は夜のしじまを越えていたのです。たくさんの人が見ている中で、言葉を返すことはできませんでしたけれど」
「よかった。ぼくの言葉を受け止めてくれてた人がちゃんといたんだね」
芽はとても幸せな気分になりました。
すっと月の光が弱くなりました。薄い雲が覆ったのです。月が恥じらい、袖で顔を覆ったように見えました。
「あなたも……わたしのことを、いつも見ていてくれましたから」
月がしっとりと呟いた言葉に、芽の心は火が灯ったかのようにしゅぽっと熱くなりました。
「光にあふれた世界が、弱い光を放つことしかできないわたしのことを忘れてしまっても、あなたはわたしのことをまっすぐ見つめてくれました。とてもとてもうれしかったのですよ」
その時、ぴちゃん、と水のしずくが涼やかに落ちる音が芽の側で響きました。
お月様の涙だろうか、と芽は思いました。雲に隠れた向こうで、しとしと泣いている顔が見えるような気がしました。
続けて何かが芽の頭にポンと落ちてきました。二枚の葉っぱのちょうど真ん中にそれは乗っかりました。
「な、なんだろう」
頭の上がたちまち、ポッと明るくなりました。
芽が自分の頭を見上げてみると、白と黄色の交じった光が広がっていました。
光は闇の中に咲く花のような形をしています。花びらの形になっていたのです。
「うわぁ、花だ! ぼくの体に花が咲いてる!」
「なかなか花を咲かせないあなたに、わたしからのプレゼントです」
雲が流れ、月の光がまた蘇ります。
「お月様がぼくに!?」
「光の花を差し上げましょう。これからはきっとさびしくなくなりますよ」
「お月様の光の花を、ぼくに分けてもらえるなんて!」
月からの思いもかけないプレゼントに、芽は暗闇のずっしりした重さを感じなくなりました。また、水分が体中に流れ込んでくるようで、体の渇きも感じなくなりました。
心地よさとうれしさで地面に埋もれている体が自由に動かせる気持ちがしました。
「わあい、お月様がぼくをこんなに素敵な姿にしてくれた」
頭に生まれた、ほわほわと光るその花からは、月のやさしさをいっそう身近に強く感じました。
芽はうれしくて、左右に揺れながら、幾筋もの涙をこぼしました。真っ暗闇も、自分の体で照らすことができるのです。これからはいつでも月のことを側に感じることができて、昼間に味わうさびしい思いも忘れることができるのです。
「わたしたち、遠く離れていますけれど、こうしてして差し上げられることがあるのですよ」
「お月様、お月様」と、芽はまっすぐ月を見つめました。今まで抱いていたほんの小さな恋心が、胸の中でどんどんとふくらんでいくのです。
ぼくもお月様のために何かをしてあげたい。いつも暗い夜空を一人でもやさしく照らし続けているお月様。ほんとはすごくさびしいから、ぼくにはその涙が見えた。この世で一番自分を見つめてくれる人。この人のために、ぼくは一体何ができるだろう。
芽は一心に考えました。
そうして、ただのみどりの芽である自分にもできることが一つある、と気づいたのです。
ぼく、これでもいつかきっと花を咲かせるはずなんだ。そう、きっと。お月様のために、自分の花を咲かせてみたい。
月からもらった光の花ではなく、自分の力で花を咲かせてみたい、そう思ったのです。綺麗な花を咲かせたら、月はどれだけ喜んでくれるでしょう。
「ぼくもいつか……いつになるかは全然分からないけど、必ず、自分の花を咲かせてお月様を喜ばせてあげますからね」
月は微笑んで、「はい、うれしいです。待っていますから」と、頷きました。
雲がまた空を覆ってしまい、月の光はすっかり隠れてしまいました。
◎
それまで真っ暗だった小屋がほんのりと明るくなりました。
芽の光の花が、冷たく静かな地面を照らしているのです。まん丸で白と黄色が混じり合った光はまるで、大地にも月が生まれたかのようです。
冷たい風が吹いていた地面には、やさしい風が吹くようになりました。固かった土もだんだんと柔らかいものになっていき、太陽の匂いまでもが感じられるようになって、横になって眠っても安らかに眠ることができました。
毎晩、芽は月に向かって祈りました。「こうして自分が光の花を咲かせているのは、お月様のおかげです」と。厚い雲がおおって月が見えない夜も、まっすぐ空を見上げました。一人でいるさびしさも我慢することができました。
季節は冬に近づき、森の木々も枯れ葉をたくさん落とすようになりました。そんなある日のこと、小屋の床下に親子のネズミが入り込んできました。
「ほら、かあちゃん、こん中、すごくあったかいでしょ」
子ネズミが母ネズミの手を引いていました。
「あらあまぁ、ほんとうね。森のはしっこに、こんな光の灯った小屋があるなんて、全然知らなかったわあ」
母ネズミはどうやら腰を悪くしているようでした。歩くのが少しおぼつかないのです。
「この小屋ってさ、こんなにぼろぼろじゃない。長い間みんなに忘れられてたみたいなんだよ。前ちらっと見た時も真っ暗だったしさ、なんかでっかいミミズの化け物とかが出てきそうで怖かったんだ。でもさ、また誰か住み始めたみたいなんだよね。いつも明かりがついてるんだもん」
「えぇ、なんだか心がうきうきする明かりよね」
「でしょでしょ。前はすっごい怖い場所だったのに、今はちっとも怖くないんだよ。それにすっごく不思議なことが起こるの」
こっちこっち、と子ネズミは母ネズミの手を引いて、さらに中へとゆっくり進んでいきます。
「なんだか、この光を浴びてると、まるで温泉に入ってるみたいだわ。光というより水かしら、体にすぅ~って入り込んでくるの。日頃の疲れがとれるようで、はあ~、なんて気持ちいいのかしら」
「ねっ、ぼくの足のケガだってぺろりってなめたように治っちゃったんだよ。だから、きっとかあちゃんの悪くなった腰も治るよ!」
「そうだといいわねぇ。良くなれば、もっとお前をね、いろいろな場所に遊びに連れてってあげられるものね」
壁の穴を一つくぐると、親子のネズミは、「あっ」と声を上げました。
そこに光の花を咲かせる芽の姿を見ました。
「わぁ、花だよ! ほら、光る花だ! すごいすごい!」
子ネズミは飛び跳ねて喜びました。
輝くほどの光なのに、ちっともまぶしくはありません。
「こんなお月様のような花、わたし、初めて見るわ! こんなにお月様を間近で見ることができるなんて。なんて、なんて綺麗なんでしょう」
母ネズミも、目を輝かせました。
「まん丸お月さんみたいだよねぇ」
二匹ともその場に座り込んで、芽の光をじっと見つめました。
芽の方はというと、目を閉じて鼻歌を歌い、楽しそうにゆらゆら揺れていました。
けれども、ふと誰かに見られていることに気づいて振り向きました。
「あ……」
そこには二匹のネズミがいて、自分をうっとりと見つめているのです。
びっくりしてしまいました。なにしろ、芽はずいぶん久しぶりに動物の姿を見たのですから。
子供のネズミの方は、芽とほとんど大きさが変わりません。
「光の花さん、こんばんは」
その小さな子ネズミが、丁寧に頭を下げました。
芽はどうしたものかと、どぎまぎしました。こういった時、どんな反応をしていいのか分からなかったのです。
「綺麗な光ですねぇ」
母ネズミもにっこり微笑んできます。「温泉に入っているようで、疲れた身体が癒されます」
二匹の顔があんまりにも安らぎに満ちていたので、戸惑っていた芽も心が楽になって微笑むことができました。
この花の光を好きでいてくれるんだ。
二匹のネズミは幸せいっぱいの顔をして、芽の側に長い間じっと座っていましたが、「遅くなる前に、そろそろ……」と母ネズミが立ち上がりました。
その瞬間、母ネズミは自分の体に変化が起きていたことを知りました。
ちゃんと立つことができたのです。
「腰が何ともないわ。痛みが全然ないの」
チョロチョロ走り回ることも苦ではありません。
「わぁ! 良かったね、かあちゃん」
手を合わせて喜ぶ二匹は、また芽の方に向き直って、深々とお辞儀をしました。
「ありがとうございました。具合の悪かったところがすっかり良くなりました」
二匹はぴょんぴょん跳ねるように、森へ帰っていきました。
それからというもの、森の中には、やさしい光を放つ小屋の噂が広まっていきました。光を浴びていると病気も治してもらえる、という不思議な力も伝わっていきました。『光の温泉』だとも言われました。
そうしてたくさんの動物たちが集まってきて、小屋はにぎやかになりました。
たくさんの命に囲まれた芽はもうすっかりさびしくなくなりました。目を開けた時には、いつもすぐ側に誰かいてくれるのです。
「この光る花は、きっと空から落ちてきた天使にちがいない」
「天国の温泉ってこういうのなのかな」
森の動物たちみんなが芽の光を大切にしました。芽のいる小屋が、森のみんなが集まる憩いの場所にもなりました。
「なぁ、そろそろこのぼろぼろの小屋も、新しいものにしないか?」と、誰かが言いました。
「そうだなぁ。せますぎて、みんないっぺんに入れないしな」
外で順番待ちしている動物もたくさんいるくらいです。
「この世に二つとない素敵な花があるんだ。もっといい場所に住まわせてあげないと」
「うん。それに、天国の温泉って呼ばれてるんだから、小屋も綺麗にしてさ、その名に相応しいくらいさ、もっと居心地のいい場所にしようよ」
「それでさそれでさ、いつかね、世界の森の中で、ここが一番って噂されるくらいに発展してくといいね。一年中食べ物に困らないくらいね」
そこで動物たちは力を合わせて、古びた小屋をぴかぴかの小屋に建て替えました。
芽が小屋の真ん中にくるようにして床が作られました。天井には雨をふせぐための屋根もつけられました。
新しい小屋に、もう暗闇はありません。小屋のどこにいても芽の光は届いて、明るいのです。
芽はぴかぴかの小屋の中で、みんなに囲まれながら毎日を楽しく過ごしました。体を潤す清水をかけてもらったり、森で起こっているいろいろな話を聞かせてもらいました。
けれども、屋根ができてしまったために、月を見ることはできなくなってしまいました。
お月様はどうしているだろうか。
心に宿った灯火はゆらゆらと揺れましたが、小屋を新しくしてくれたみんなの厚意はやはりとても有り難く、月が見たいという思いを内に秘めたまま、日々が過ぎていきました。
けれど、芽と月を繋げる情熱の火は、その小さな心の中だけでは留まることができなかったのか、ついに森に飛び火する日を迎えることとなるのです。
◎
その日は、朝から雷が落ちるような、何かが爆ぜるような轟音がずいぶん長い間森の中に響いていました。けれども、正午を過ぎると、今度は反対に辺りは森閑としてしまいました。
「おかしいな、もうお昼頃だっていうのに、今日はまだ誰も来ない」
外で激しい嵐でもあったのでしょうか。
それにしても今はそんな風雨の騒がしい音は聞こえてきません。嵐が止めば、みんながまた集まってくるはずです。
誰も来ないなんて、この頃ではとても珍しいことです。
「森で何かあったのかな?」
芽が不安になっていると、小屋にどしんどしんと近づいてくる足音がありました。
「あ、やっと誰かが来たみたい」
けれど、その足音は森の動物たちのものではありませんでした。
扉を開けて、中を覗きこんできたのは、人間でした。
その人間の向こうに見える光景に芽は激しいショックを受けました。森から木がすっかりなくなってしまっていたのです。火で燃やされたのか、あちこちで煙がくすぶり、動物たちのはしゃぐ声など一切聞こえてきません。鳥のさえずりさえも響いてはきません。
「おおっ、これが噂の光る花か!」
「すごいな、ほんとに花びらが自力で光っていやがるぞ」
芽は人間を見て、過去の捨てられた思い出を蘇らせてしまい、体が怯えました。
「動物たちが夜な夜な集まっていたのもわかるなぁ。毎日仕事仕事で疲れた体が癒されるようだ。ずっと見ていても、ほら、目がチカチカしないよ」
「この光を浴びていると、ケガもたちまち治ってしまうって言うじゃないか」
「温泉の花だとか言われてるんだろ」
「温泉よりもっとすごい、病気を完全に治す奇跡の花なんだよ。ほらほら、早速、採って帰ろうじゃないか。この花はきっと治るのが難しい難病も簡単に治してくれるに違いないんだ」
人間たちが荒々しく小屋の中に入ってきます。芽はなすすべなく、根っこごと引っこ抜かれてしまいました。
大地から離れても、芽の花は光り続けていました。
小さな箱の中に入れられて、遠く遠くへ運ばれていきます。
硬い箱の中に閉じ込められていると、もう二度とあの笑顔いっぱいの思い出がつまった小屋には帰れない気がしました。
「森が燃えてなくなっちゃった。もうみんなに会えない……。ぼくのことを大切にしてくれたみんな……みんな、どこに行ってしまったんだろう……みんな、どうか無事でありますように……」
色々な負の感情が混じり合って涙が滲みました。
「ひとりになることがこんなにも悲しいことだったなんて」
こんな時、愛しく思える誰かを見つめたい、と思いましたが、どこを見回してもカベだけです。「自分の周りには何もない、誰もいない」と悲しみで心がいっぱいになりました。
「この花は、一体どういうふうにして光っているんだろうな」
真っ白い建物に連れてこられてから、芽はたくさんの人間に見られました。
動物たちに見つめられていた時とはちがって、人間に見つめられていると花の光が吸い取られていってしまうようでした。
小屋よりもずっと広い部屋を、いくつもの電灯が照らしています。目を刺すほどの鋭い光でした。その中で、芽の光はとても弱々しく見えました。
自分が光っているのかいないのか、段々と分からなくなってきました。
芽が自分の花の光に自信をなくすと、花がポロリ、と頭から落ちてしまいました。
「……えっ!?」
見ていた人々はびっくりしてしまいました。
一番驚いたのは、芽です。唖然として声も出ませんでした。
「花が落ちた……花が落ちたぞ!」
落ちた花は、それでもテーブルの上で光り続けていました。
「す、すごい! 花びらだけで光ってる」
「まるで空に浮かんでいた月が、我々の手元にあるかのようだ」
人間の目は落ちた花に注がれ、みどりの葉っぱだけになった芽は見向きもされませんでした。
光る花は手で抱きしめられるように、別の部屋へ大事に大事に持っていかれました。
けれど、花を失くした芽は、いらないものとして外に捨てられてしまいました。
捨てられた場所は、太陽の光が当たらない場所でした。一日中、日かげで暗く、地面もアスファルトで固いのです。
光の花やみんなの笑顔といった大切なものをいっぺんに失くしてしまった芽は、倒れたまま起き上がることができませんでした。
「みんなが集まってきてくれた光の花。でも、その光の花を失くしてしまったぼくは、結局いらないって言われて捨てられた。もしかしたらみんな、ぼくを見ていてくれたんじゃなかったのかもしれない。光る花を見ていてくれただけだったんだ、きっと」
夜を迎えても芽は悲しんでいて、その体に怖ろしいことが起きました。
みどりの体が、どんどんと黒く染まっていくのです。
「うわわ、ぼくの体が!」
あわてて起き上がっても、みるみる黒くなっていきます。
炎のように燃え盛る夜の闇が、いくつも腕を伸ばして芽に巻きつき、飲み込んでいくのです。
「ああ、体が黒くなってく。ぼくがぼくじゃなくなっちゃう!」
芽が生まれた時からもっていたみどりの体。その色さえも、今、失われようとしていました。
このまま真っ黒になってしまえば、自分が暗闇の中にいるのかどうか分からなくなってしまうかもしれません。
「ああ、そうだ。ぼく、大切な人からもらった光の花以外に、ずっと自分の色を持ってた。花を咲かせなくても、ぼくはぼくである特別なものを持ってた。どうしてそんな大事なことに気づけなかったんだろう。初めて捨てられたあの時。暗闇の中にいたって、ぼくの体はずっとみどりだった。暗くたって黒くなんてなってなかった。だから、お月様は、暗い中でもぼくのことを見つけてくれたんだ」
今は根っこから葉っぱの先まで体が真っ黒になってしまいました。
暗闇の中で芽は自分の姿を見ることはもうできません。
「ぼくは消えてしまった。今度こそ、本当に誰にも見られることはないんだ」
芽はアスファルトの地面に倒れながら、夜空を見上げました。
夜空はどこまでも真っ暗でした。
そこに月の姿はどこにもありません。
「あれ……? お月様がない。お月様が、全く見えなくなってる」
雲があるわけではありません。
月が見えない夜は、以降もずっと続きました。
どうしてしまったのだろうと心配していると、通り過ぎていく風が話しているのを偶然耳にしました。
「もう月は遠い星の空に旅立ってしまった」
「ずいぶん前から、どんどんこの星から離れていっていたからな」
風の会話に、芽はショックを受けました。
「お月様が別の空へ行ってしまった……!? ぼくがお月様のことを忘れてしまったせいだ。きっとそうだ。大切な、ぼくに光る花を分けてくれた、とても大切な人だったのに」
芽はいよいよ声を上げて泣き出しました。
「お月様は、ぼくに声を掛けてきてくれた時、泣いていたんだ。空でひとりぼっちだからさみしくって。その涙をぼくに見せてくれたのに、ぼくは光の花をもらったらさびしくなくなって、お月様のこと忘れてしまった。ぼくがみんなに囲まれて楽しかった時、お月様はきっとさびしくてさびしくて、さびしさにたえられなくなって。だから、いなくなってしまったんだ」
涙はアスファルトの固い地面の上では、すぐに乾いて消えてしまいます。
「ぼくは、あの光の花をもらって、誰を一番照らしたかったんだろう。誰に一番笑顔になってもらいたかったんだろう」
約束したことを思い出しました。お月様のために、自分の花を咲かせてみたい。自分の力で花を咲かせてみたい。
「必ず、お月様を喜ばせてあげるって約束したのに……。今のぼくは、みどりの葉っぱでいることもできなくなっちゃったんだ」
自分への悔しさが込み上げて、涙はますます止まらなくなりました。月に光の花を贈られてから体を満たしていたのは情熱の火だけではなかったのです。潤いの水にも満たされていたのでした。
「うわあ! ぼくはばかだ! 大事な人のことを忘れてしまうなんて!」
芽はどこか遠くへ行ってしまった月へ、思いを強く込めました。
「どうか戻ってきてください。ぼく、お月様から光の花を分けてもらって、分かったことが一つあるんです。お月様の光は、みんなを笑顔にできるとてもやさしい光なんです。電灯とか、そういう光の強さにはかなわないけれど、あの光はきつくて痛いんです。みんな、ほんとうはお月様のやさしい光を大切にしているんです」
芽は重い体を必死に起き上がらせました。
「そうだ、お月様のために、ぼくは何かしなければいけない。約束したもの。ぼく、お月様を喜ばせてあげるって! 笑顔にするって! お月様がぼくにそうしてくれたように」
真っ黒になって誰の目にも見えない芽は、それでも自分がみどりの葉っぱであることを信じていました。
「お月様、ぼく、ここにいるんです。見てください。ぼくを見て!」
月のために自分の花を咲かせたい。そう強く願いました。花を咲かせれば、月は戻ってきてくれると思ったのです。
「お月様、ぼく、あなたのことが好きなんです」
涙を零しながら一心に思い続けました。
すると黒い体から、ちょこんと何かが顔を出しました。
それは、碧い色をしたガラス細工のようなつぼみでした。つぼみは、月への思いがふくらんでいくのと同時に、みるみる開いていき、花になりました。
まん丸のエメラルドグリーンに輝く、透き通る水の花でした。夜空に向かってまっすぐに潤いの花を咲かせました。
「ああ、ぼく、花を咲かせることができたんだ。ぼくでもできたんだ。ああ、みどり色をしてる。ぼく、まだぼくのままでいられたんだね。ほら、お月様、光ってはいないけれど、あなたと同じ花になれたんです。ぼくはここにいるんです。どうか、お月様、この花のみどりの輝きが届きますように。そして、みんなのために戻ってきてください」
静かな夜空に、ほのかな光がさしました。遠い空から、月がしっとりと姿を現したのです。夜の闇に隠れるようにして半分顔を出していました。
芽には、自分の花が月をやさしく包んでいるように見えました。
「ああ、戻ってきてくれたんですね。良かった……」
「約束、覚えていてくれていたんですね。いつか花を咲かせて見せてくれるっていう。あなたの夜空をかがやかせるみどりの花、遠い夜空まで届きましたよ。あなたの花の光を見て、私は戻ってきたんです」
「ぼく、まだお月様を見つめることができるんですね」
芽はうれしくて泣きながら笑いました。
「お月様がぼくに光の花を分けてくれたように、ぼくもお月様にしてあげられることがあるんです。今、ぼくはお月様をこの花で抱きしめているんですよ」
「いろいろな星の空をめぐってきても、あなたのエメラルドグリーンにかがやく花を見た瞬間、わたしの居場所は、ここなのだと感じたのです」
「お月様の光は、みんな大好きですから」
「いいえ、ちがうのです。たくさんの命に見ていてもらいたいのではないのです。わたしがここに戻ってきたのは、あなたを見つめることのできる空だから。あなたが見てくれる空だからなんです」
月の深い愛を知って、芽はこの上ない幸せを感じて胸がいっぱいになりましたが、水でできた花は、ぴちょん、ぴちょん、と崩れ落ちていきました。
水の花が開いているのはほんのわずかの時間で、すぐに形を失い、散って消えてしまうのです。あまりにも短い時間しか咲いていないので、芽はなかなか花を咲かせることはなかったのです。
「あなたのために、花を咲かせて、幸せでした……」
芽の最期の言葉に、月は夜空に大粒の涙を、しとしととこぼしました。
「わたしがここに戻ってきたのは、あなたを見つめることのできる空だったからなんですよ。あなたが見てくれる空だったからなんですよ」
宵闇は、月の涙など知らん顔といったように無言のままです。
けれど、月の周りがぼんやりとエメラルドグリーンに輝きました。
さめざめと泣く月をそっと包み込むようでした。
〈了〉
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