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白と赤の愛
目を開けて瞳に写ったのは、2人の男女だった。
私は立派な木製の椅子に腰かけていた、臀部を支えているクッションは妙にゴツゴツしている。
起きしなで定まっていない眼はぼんやりと2人を捕らえた。
暗い室内であの番«つがい»だけにスポットライトが当たるように破損した屋根の間から日の光が差している。
その光景は神々しく、自分がここにいるのが場違いのように感じる。
「ゆうとさん、これからはずっと一緒ですね」
「うん…あの」
「なんですか?」
「綺麗だよ、みゆ」
「ふふ、嬉しいです」
睦まじく表情を明るくしながら話している2人を見て、私は微笑ましいと思った。
過去の私もあんな時期があったと思い出しながら、一緒にいる時間と比例していく妻の冷たさに寂しさを覚えた。
私にも問題がないとは言えないがこれからも一緒に過ごしていく予定の女房だ、この状況をなんとかしたいとは思っている。
彼らは白い布地に赤い模様が規則性なく染まっている衣類を身につけていた。
男はタキシード、女のほうはウエディングドレスのようだ。
「…結婚式か?」
私は呟いた。
段々とクリアになってきた頭をゆっくりと左右に振って周りを見渡した。
だだっ広いホールは暗く、茫然としか全貌を把握できない。
ふと自分の鼻に不快感のある臭いが流れ込んできているのに気づいた。
錆びた鉄のような臭いである、体が嫌悪しつつも懐かしい臭い。
それは血だと私は思い出した。
なるほど2人が着ている純白の召し物の赤は血液の色なのかもしれない。
それは彼らの血だろうか?そんなことは考えても分からなかった。
とりあえず私はほかにこの会場にいる人間を探してみた。
しかし私以外の参列者はいないようだった、神父も式の進行役も、彼らの両親も友人もいないのだ。
つまりこの多大な空間の中には光の中でお互いを愛であっている花婿と花嫁、そしてそれを状況の理解ができずボケっと眺めているしかない私の3人しかいないのである。
これが結婚式の会場ならば…随分と寂しいものだ。
「どこか行きたい場所はあるかい?」
「ゆうとさんとならどこにでも…」
「それなら海だな、海面に映る君はさぞ綺麗なんだろうね」
「まあ!」
そんなことを話しながら2人はクスクスと笑っていた。
この境遇と状況に少しも不満のないようだった。
私の主観的意見だが彼らは幸福を手にしているのだ。
しかし…どうしたものか。
私は重くなる瞼が刻々と落下運動の餌食になるのを知りながらも焦ってはいなかった。
わけのわからない結婚式場にわけのわからないまま放り出されていた私だが、不思議と心は乱れなかった。
不明瞭な意識でいい加減に今の状況を推理していると、かすかに焼けたゴムのような臭いが鼻腔をくすぐった。
鉄の次はゴムか、これらが指すものはなんだ。
私はこの臭いも嗅ぎ覚えがあった、血液ほど印象に残っているわけではないが、確かに知っている。
これは…タイヤが擦れたときの臭いに似ている、若い頃に無茶な運転をして車を転がしてスリップしたときに嗅いだ臭いだ。
道路に焼け焦げが残るあの人工的で工業的な香り、それが今軽く漂う程度にこの会場に現れているというのか?
「今度のドライブはどこに行こうか?」
「うーん…ゆうとさんの故郷に行ってみたいです」
「なんにもないよ?」
「いいんです」
にっこりと彼女は笑った。
彼らの白い衣類に付着している赤い液体。
あれが彼らの血だと仮定したならば、彼らはなんらかの外傷を受けた証があの紅色なのではないか。
血とタイヤの焦げた香り。
私はそこに死の存在を見出した。
愛し合う2人は不幸な事故に遭遇し、その命を天に返上したのだ。
そして来たるべくリンカネーションの前に、神からせめてもの救いとして与えられたのがこの閑散とした婚約の式なのではないかと私は考えた。
ではなぜ私はここにいる?
その疑問はもっともであり、当然のものであった。
縁もゆかりもないこの私がなぜ彼らの結婚式に参列しているのか。
しかもこの広い会場に私1人だけ招かれたのも謎が残る。
「君は海鮮は好きかい?」
「はい、大好物です」
「よかった、僕の生まれ育った地は海が近くてね、魚もよく捕れるんだ」
「それは楽しみです!あれ?もしかして最初から実家に私を招いてくださるつもりだったんですか?」
「あはは…ばれちゃったか」
慎ましやかにお互いを愛するその談笑に耳を傾けながら私は微笑んだ。
私たちにもあのような時期があった、過去の優しさと幸せに満ちた我々の関係は今では多少の冷淡色に染まってきていた。
そんなことを考えていると、突然ハッと閃いた。
この謎の真実が理解できたかもしれない。
確証はないが私の脳内では、歪なパズルは完成していた。
おそらくだが、私は彼らの最期を見届けるためにこの場に召喚されたのではないだろうか?
2人が蜜月を味わい、結ばれる瞬間をこの目に記録するため。
つまるところが媒妁人なのだろう、彼らの婚約を証明するための仲人のようなものだ。
それがなぜ私なのかという答えは出ないが筋は通っている。
「ゆうとさんのご両親はどのような方なのですか?」
「別に特段変わったところはないさ、そのへんにいる平凡な夫婦だ、まあでも…平凡でも僕を育ててくれたことには感謝してるよ」
「素敵な方々ですね」
「そんなことないさ、でも君はそんなに心配することはないよ、君みたいに素晴らしい女性なら反対されることなんてないだろうからね」
「まあ、そんなことはないですよ」
「それよりも僕が君のご両親に挨拶に行くほうが心配だろう、その…僕は君のような女性と釣り合ってないしさ」
「ゆうとさん…また怒られたいんですか?」
「ご、ごめん」
男は頭を掻きながら謝罪した。
女性は意地悪気にクスクスと笑っている。
男にも微笑みは戻り、暖かい空気が彼らを包んでいた。
私はそれを見て相好を崩した。
私も妻の実家に出向いたときはずいぶんと腹部を痛めたものだ。
もう2度とあんな思いはしたくない、再婚はごめんである。
それに私なりに妻を愛しているのだ、はたから見ればそうは見えないかもしれないが。
さてなぜ私が彼らの媒妁人なのかを、私の考えだが述べたいと思う。
思うに理由などないのではないのだろう、身も蓋もない考え方だとは思うが。
婚約にはそれを証明する第三者の人間が不可欠である。
なので愛し合った2人が死ぬたびに神から選出された生きている誰かが彼らの結婚を見届けるのだ。
そう勝手に妄想して私は少し心が明るくなった。
もしそうだとすれば中々粋なことではないかと思ったのだ。
「ゆうとさんの故郷を歩いた後に、私行きたいところがあるんです」
「どこかな?」
「あの場所です」
「あの場所…?」
男は困ったように彼女を見つめていた。
ああいう経験は私にもあった。
そして彼と同じように首を傾げたものだ。
女性の唯一の欠点は男が持っているはずの記憶の手の届かない名詞を抽象的に表現し、それを当然の認知のものとして問うてくることではなかろうか?
男はまだ答えが分からぬ様子で彼女の顔を伺っていた。
女性はにこやかにその瞳を見返している、男のほうはどうにも居心地が悪そうだ。
「あの場所ですよ、私たちの思い出の場所」
「…あそこかい?一緒に行った水族館」
「違います」
「えっと…ごめんわからないよ」
「もう、一緒に夕焼けを見にいったじゃないですか、また来ようねって約束しましたよね」
「ああ…車で山に登ったときのことだね、確かに頂上から見る夕焼けの景色は綺麗だったなぁ」
「はい、とっても綺麗でした」
「そういえばあの場所で初めてキスしたね」
「そういえばって…ひどいです」
「ごめんごめん」
「もう…ゆうとさんったら」
「また行こうね」
「もちろんです」
私は立ち上がった。
今まで腰かけていた重厚な椅子から臀部を浮かして、彼らを見つめた。
私があの2人の前に行っていいのかと思ったからである。
しかし私が立会人ならここでボーッと座っているわけにはいかないだろう。
下界に佇立していた心優しき悪魔が、救いを求め神の光を目指すように。
私は恐る恐るだが確固たる足取りで彼らの傍に向かって歩いた。
2人の数メートル前まで近づいて、私は立ち止まる。
愛し合う者たちは私のことを気にも留めない。
こちらを振り返り見ることもなく、楽しそうに会話を続けている。
きっと私のことを認識できていないのだろう。
しかしそのほうがいいのかもしれない、幸せを噛みしめる者たちに水を差すような真似はせずに済んだのだから。
命を落とし、朽ちた体は亡愛の中に沈んだ。
そして不必要な枷を全てとっぱらって彼らは今、無垢な精神だけで泳ぎ楽しんでいるのだ。
それを邪魔するという行為は酷く無粋なことであろう。
「ゆうとさん」
「なんだい?」
「私たちこれからも一緒ですよね?」
「もちろん、ずっと一緒だ」
「離さないでくださいね?」
「当たり前だよ」
2人は柔らかく抱き合った。
お互いに笑みを表情に浮かばせて額を合わせる。
そして囀るように囁いた、己の瞼を閉じながら。
「ゆうたさん、私は今とても幸せです」
「僕もだよみゆ、君が大好きだ」
「私も大好きです」
「誓うよ、君のことをずっと愛すると」
「私も誓います、あなたをずっと愛することを」
お互いに永遠の愛を誓い合う麗しき恋人たちは、そっと唇を重ねた。
私たちのように擦り切れたものではない、純粋で穢れなきキスだった。
その接吻にやましさや快楽にふける感情は見いだせない。
まったくもってウブである。
その姿に亡くした生命と生まれた愛の儚さと頑強さを垣間見た。
そして美しき虚像と愛情は渾然と重なり合い、絞りつくされた後の残滓が私を含めたこの世界を創り出したのだ。
不安定で確固たる幻は朧げながらも存在し、愛し合う男女に痛みのない優しい夢を見せている。
私は媒妁人である。
この愛の夢を最後まで見届ける代わりに、手数料として幸福を受け取っている。
天が差す一条の光を微かに浴びながら私は口を開く。
己の務めを果たすときだ。
「ゆうとさん、みゆさん、君たちはこれからもずっとお互いを愛しあう権利と義務がある、しかし誰かと一緒になるというのは思っているより難しいことなんだよ…たとえそれが自分の心が恋した相手でも」
彼らは私の声には答えない、ただただ甘い口づけに身を任せていた。
私は短い息を吸って、それを吐いた。
「幸せになりなさい、あなたたちの幸福を祈っているよ、結婚おめでとう」
相変わらず2人には私の声は届いていない、しかし構わなかった。
彼らは唇を名残惜しく離した後、照れくさげに微笑んだ。
その笑顔が私に向けられた気がしてなんだか嬉しかった。
彼らの姿に見とれていると、突然その白い下半身が溶けるように消え始めていることに気づいた。
そうか、もう時間なんだな。
私は察した、彼らの消えていく体の部位が赤い泡沫となって空に昇っていく。
幸せに身を包んだまま、2人は抱き合いながら天の迎えを受け入れた。
彼らは最期まで微笑んでいた、全ての身躯が泡となっても。
幸福な男女は行ってしまった、残ったのは私だけである。
だが虚無感や寂しさはなかった。
奇妙な心地よさのみが残っているだけである。
ふと足元を見てみた。
そこには花束がある。
ブーケのようだ、花の種類は薔薇である。
私はそれを拾い上げた、白い薔薇と赤い薔薇が混じっている。
それを見つめながらそれが間違いだと気づいた。
花束は全て白薔薇だった、赤薔薇などなかったのだ。
あるのは白い花と血で赤く染まった白い花だけだった。
私は少し嗅いでみた、微かな血の臭いと薔薇特有の芳しい香りが鼻の奥を刺激する。
「白と赤、純情と愛情か…君らにぴったりだ」
この薔薇のように塗りつぶした愛情は無垢な色を侵食するのか。
それが善いことなのか悪いことなのかは私には分かりかねるが、愛があるのなら上等さ。
そんなことを考えながら、私はゆっくりと目を閉じた。
目覚ましが鳴る、寝ぼけた頭にガンガンと響く。
私はスイッチを押して不快な音を泣き止ませた。
周りを見る、そこは私の部屋だった。
ぼんやりと立ち上がって部屋から出た、香ばしい朝食の匂いが私を誘う。
リビングに入り、せっせと朝食の用意をしている妻に挨拶をする。
「おはよう」
「…おはよう」
ぶっきらぼうな妻の態度も、今朝はなんだか愛おしく見えた。
私はテーブルの椅子に腰かけて、朝食が運ばれるのを待った。
「今日の朝食はなんだい?」
「焼き魚」
「それは美味しそうだね」
「なにそれ」と不機嫌に呟いた妻は、素早くテーブルに食事を置いた。
妻自身も椅子に座ってパクパクと口に運ぶ。
私も妻の作った朝食に口をつける、いつも通り美味である。
「おいしいね」
「そう」
妻はあくまでもドライである。
結婚したての頃はウェットだったはずのに。
私は暖かな心で妻との交流を大切にしようと思った。
「なあ、今度どこかに行かないか?2人きりで海か…いや山ってのも」
「何言ってるの?」
「え?」
「私今仕事忙しいの知ってるでしょ?バカなこと言ってないで今日は食べ終わったお皿水につけといてよね、昨日テーブルに出しっぱなしだったよ」
不愛想にそう言って妻は自分の食べ終わった皿を台所に運んだ。
ずかずかと自分の部屋に戻っていく。
私はなんともいえない気持ちでパクパクと残った白米を食べた。
そう上手くはいかないものだな、と自嘲気味に私は苦笑した。
「さてと」
私は食べ終わった皿を妻の言う通りに台所に持っていって水につけた。
これをしないとまた怒られてしまう。
だが不思議と焦りや苛立ちはなかった。
あるのは妻に対する愛情とかわいいという感情だけである。
今日はなんだか清々しい。
妻へのプレゼントでも仕事帰りに買ってこよう、彼女は喜んでくれるだろうか?
まあいいさ、結果はどうであれ私の誠意が少しでも見せられたら御の字だ。
さて、プレゼントは何にしようか。
そうだな、と少し考えてロマンティックすぎる案が浮かんだ。
赤い薔薇を買おう、燃え上がる血のような赤。
妻へのささやかな愛情表現だ、そう考えているとなんだか心が軽やかになってきた。
「行ってらっしゃい」
そそくさと玄関から出ようとする妻に言った。
妻は苦虫を噛み潰したような顔をした後、外に出た。
やっぱり上手くいかないな、と私は晴れやかな気分で苦笑した。
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