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第7診 一つ目小僧の憂鬱
新見先生、曰く。
眼は繊細な神経の集まりなので、身体の中に異常があるとすぐにシグナルを出してくれるとのことです。
気づくか気づけないか、それは私たち医療従事者に委ねられています。
そう考えると患者さん一人一人に対してすごく緊張してしまうのですが、まぁそんな重篤な患者さんは滅多に来ないので、眼科の日々はだいたい穏やかです。
……そう、大体は。
今回は、いつもと違うちょっと特別な一日です。
瞳の色が段々変わっていく、一つ目小僧に狙われているという不思議で妖しい訴えは、一体何が原因なのでしょうか。
***
「あれ、珍しいですね」
たった二人しかいない眼科ですが、私はいつも一番最初に出勤します。
機械の設定や針の消毒がありますし、下手すると診察開始時間ギリギリになっても姿を現さない新見先生を探しに行く時間も見込んでいないといけないので、かなり余裕をもって出勤しています。
だから、いつもの時間に出勤したのにすでに準備ばっちりで仕事用の伊達眼鏡をかけた新見先生の姿を見つけて、少し驚いてしまいました。
「おはよう、香住くん」
挨拶よりも先に驚きの言葉を口にした私を咎めることもせず、先生は診察室の机にキチンと並べられた数枚の紙に視線を落としています。
「おはようございます。何をしているんですか?」
興味をそそられて、私はその内容を読みとろうと試みます。
同じ図形がただ並んでいるだけのように思えますが、よく見ると一つ一つが微妙に違います。
段々、小さくなっているようです。
「これはね、ゴールドマン視野計といって……片目で見える範囲を示したものなんだ」
「見える範囲?」
そういえば、前任の古川原先生も何度かこんな検査を患者さんにしていました。
「そう。視野ともいう。モノの見え方は視力だけじゃないからね。見える力があっても、見える範囲が狭くなれば意味がないだろう? 十分な視力と、良好な視界。それがあってはじめて正常で普通とされるからね。視力と視野は、切っても切れない関係なのさ」
先生はそう言って、机の上に広げていた紙を一つ一つ丁寧にファイルへと片づけます。
「それ、誰の検査結果なんですか?」
「これ? 僕のだよ」
先生はなんの気負いもなく教えてくれましたが、それはじわじわと少しずつ、見える範囲が狭くなっていく様子を示したものです。
「……先生、こわくないんですか」
「なにが?」
「その……いつか、見えなくなってしまうことが」
先生は、いつか目が見えなくなってしまう遺伝性で進行性の病気です。
病名はまだ教えてもらっていません。私が当てる予定です。さっきの資料が先生のものなら、新しく視野に関係する病気だということが分かりました。
……本当は、私はその気になればいつだってスマホで検索するだけで先生の病名を当てることが出来るのです。
先生の病気に使用される薬の名前を、私は知っているのだから。
だけど、まだそれをしていません。
それは、仕事の合間に無い知恵を絞って考えてきた意地のようなものでしょうか。
……いいえ。おそらく、病名を当てることで今の先生との距離感が変わってしまうような気がして、怖かったのです。
「そりゃあ、こわいよ。こわくてこわくて堪らない。明日、突然見えなくなったらイヤだなぁと思いながら毎日眠っているよ」
薬があると言っても、まだまだリスクの大きな薬で一般化はされていません。
基本的に治療法のないらしい先生の病気は、刻一刻と先生の視界を奪っていきます。
最初に病気の話を聞いたとき、拍子抜けするほど軽い調子だったので失念しがちですが、冗談めかして言うしかなかったのかもしれません。
だって、現実はあまりにも辛くて重いから。
「でもそれが運命なら、僕は受け入れる。離婚して、青ヶ森に来て、キミと出会って、やっとそう思えるようになったんだ」
急に自分へと矛先が向いたので、少し驚きます。
「私ですか? 私はなにも……」
「ま、こういうのは自分じゃ分からないものなんだよ」
先生はすっかり綺麗になった机の上にファイルを置いて、立ち上がりました。
「さて、何か手伝うことでもある?」
「朝の支度は私一人で十分なので、どうぞ座っていて下さい。今日は、どうしてこんなに早いんですか?」
私には私のルーチンがあるので、下手に動かれるよりも座っていてもらう方が良いと思いました。
せっかく診察時間前に診察室にいるので、このままここに留まって欲しいところです。
「今日はね、古川原先生が来るんだよ」
「えっ!? 来られるんですか? それならそうと早く言って下さればよかったのに……」
そういうことなら、おいしいお茶菓子のひとつでも用意していました。
古川原先生には新卒のころから非常にお世話になったので、いくら感謝しても足りません。
「……でも、何の用事でしょうか」
「先生が来る理由と言ったら、患者のためでしょ」
「患者?」
「僕」
先生は一差し指でスッと自身の唇を指さしました。
以前、古川原先生は新見先生の主治医だと、神宮先生に聞いていたことを思い出します。
「眼科医は例の黒い医者のように、鏡を見て自分で自分の診察っていうのができないからねぇ」
頭の中に、某天才外科医の顔が思い浮かびました。
「……手塚先生、お好きなんですか」
「心のバイブルだね」
私も好きです。先生とは気が合いそうです。
「ひょっとしてあやかしあばきも、その黒いお医者さんを参考にしていたりするんですか?」
「まぁ、やってることは似ているかもね。患者さんが自分の症状をどんな風に表現するのか、想像もつかなくて本当にびっくりするよ。面白いよねぇ」
やらなくていいと言っているのに、先生は検査機械のスイッチを入れていきます。
「先生、違います。先にパソコンの電源をいれていただかないと、うまく起動しません」
「あ、ごめんごめん」
「……気持ちはうれしいんですが、座っていてください」
「うん……」
しばらく、もくもくと準備をします。
誰かが居ると思うといつもより機敏な動きになってしまい、予定よりも早く支度が整いました。
「先生、古川原先生はいつ来るんですか?」
診察室の小さな本棚に並んだ参考書を病名順に並べていた先生は、時計を見て言います。
「もうすぐ来るはずだよ。朝、早いほうが良いっていうから」
「もう来ておる」
久しぶりに聞いた嗄れ声の方を向くと、真っ白の髭を蓄えた古川原先生が居ました。
杖もつかずに、しっかりと自分の脚で立っています。
少しだけ痩せたような気がしますが、元気そうです。
「おはようございます」
「先生! お久しぶりです。その節はどうも」
「なんの。ワシも体力の限界を感じておったから、丁度よかったんじゃ」
先生が、誰かのことを『先生』と言うのはなんだか変な感じがします。
「お髭、整えることしたんですか?」
「仕事を終えた証にな。流石に現役時代は、できないじゃろう」
おじいちゃん先生は自慢げに白い顎髭を撫でました。
椅子を勧めると、ゆっくりと腰掛けて一息吐き出します。
「今、お茶を用意しますね」
「いい、いい。気を使わんでくれ。莉亜さん、元気にしておったか」
「はい」
「それはよかった。アンタは配属されきた当初、生気のない顔をしておったからな」
「う」
流石、おじいちゃん先生です。
確かにあの頃は、兄が亡くなってあまり時間が経っていなかったので、少しだけ投げやりになっていました。
お見通しですか。
「ワシの目はごまかせん。じゃが、仕事となると一生懸命に頑張る様子は今も昔も変わっておらんようで良かった、良かった」
口元をすぼめて笑う姿は、しっかりお髭を蓄えるようになっても全く変わっていなくて安心しました。
「おかげさまで、楽しく仕事をさせてもらっています」
「そう言えるのは、健全な証拠じゃな。……新見はどうだ?」
いつも眠たそうに大きな目を半分閉じている新見先生ですが、古川原先生の前だと入学パンフレットの学生かな? と間違うほどキラキラした瞳で答えます。
え? どちらさまでしたっけ……? と言いたくなるほどの変わりようです。
「僕も、こっちに異動になってから日々勉強させてもらっています」
「前の職場とは、少し違うじゃろう」
「そうですね……あそこは、患者さんの細かい話を聞く暇なんてありませんでしたから」
「それもひとつの医療方針ではあるがの。医者の目から見て健康である人間に時間を割くよりも、緊急性のある患者を優先するというは合理的じゃ」
「ええ。僕も、そう思っていました。でも自分がこういう病気になって……もっと、患者さんの話を聞きたいと思ったんです」
「聞いて、どうするんですか?」
思わず、口を挟んでしまいました。
「一見すると不思議な出来事に見えても、実はただのすれ違いとか勘違いだったっていうことは多いと思わないかい?」
新見先生の好きな『あやかしあばき』のことでしょう。
どの事例も、先生はしれっと正解を当ててみせましたが、確かにそれは先生がどうでもいいようなことでも患者さんの話をしっかり聞いていたからでした。
「いつか、この仕事を辞めないといけない日が来るのなら、僕にしか解けない病気をできるだけ解いておきたいんだ。たとえそれが、病名のつかないものであっても」
「相変わらず、前向きだか後ろ向きなんだかわからんのぅ」
「僕は、前向きですよ? でなきゃ、眼科医なんてとっくに辞めてます。自分と同じ病気の人間と話をする時は、頭がどうかしそうですけどね。でもこの病気も、僕の一部ですから。これを嫌がったら、僕の今まで生きてきた時間を否定することになってしまいます。それだけは、したくないんです。たとえ最後が暗闇でも、それが僕なら、受け入れるだけです」
「……そうか。それなら、後任に新見を指名して良かったわぃ。新見の祖父も喜んでおるだろう。アイツは孫のことを心配しておったからな」
新見先生と古川原先生の間には、私の知らない物語がありそうです。
「ありがとうございます。それで、今日はこれから診察してくださるんですよね?」
「診察といっても、大したことはできんがな」
「なにを仰いますか」
新見先生とおじいちゃん先生は、そう言いながら検査室へとへと消えてしまいました。
どうして先生は、あそこまで潔く自分の行く末を受け入れることができるでしょう。
私もぼんやりと、家族が短命だったから自分も短命かもしれないと覚悟はしているのですが、まだハッキリと確定しているわけではありません。
私の『かもしれない』覚悟なんて、きっちり診断されている新見先生に比べれば笑っちゃうぐらいにお粗末で子供っぽいのかもしれません。
「三ちゃん〜! 来てるか〜?」
先生の名前を呼ばれたので、振り返ると内科医の神宮先生が受付に来ていました。
ラフな格好に白衣を羽織って、大柄の先生を初見で内科医だと見抜ける人はほとんどいません。
「神宮先生、おはようございます」
「莉亜ちゃん、おはよ。ねぇ、ウチの瑠衣子ちゃんと喧嘩でもしてるの?」
「えっ?」
いきなり確信を突かれてドキッとしてしまいます。
「喧嘩というか……、別に、そんな感じではないんですけど」
そう、全く喧嘩なんてしていないのです。
私のプライベートな部分を指摘されてしまって、気まずくなっているだけです。
家族を喪い続けて、自分も短命かもしれないという理由で他人との関わりから一線引いてしまっている部分を。
ただ、私自身もこれは直すべきところだと思っています。
怖いだけなのです。
また、大事な人をつくって喪うのも、私が誰かを置いていってしまうのも。
家族でもないのに、本当にその人のことを想って他人のプライベートな部分に口を出すなんてよっぽどのことがないとできないでしょう。
私は、それができる瑠衣子を尊敬します。
尊敬しているのに……うまく伝えることができなくて、連絡も渋っている現状が情けないです。
「妖しい話をする患者さんがいるから新見のとこに行ってきてくれ、って頼んだら『神宮先生が直接行けばいいじゃないですか』って言うんだよ? いつも愛想の良い瑠衣子ちゃんが俺にそんなことを言うなんて……これはきっと何かあるに違いないね」
神宮先生は噂話好きの瑠衣子に負けず劣らずの好奇心にまみれた表情をしています。 何か言わないと、と考えますが何も出てきません。
「……ま、女同士の友情に俺が口を出すつもりはないけどね。だけど、瑠衣子ちゃんちょっとだけ、余計なこと言ったかな……ってちょーっとだけ落ち込んでたから……早めに連絡とってあげてね」
人好きのする豪快な笑顔で神宮先生は言います。
軽い口調でしたが、私にはいつも明るい瑠衣子がどれだけ私のことを気に病んでくれているのか伝わりました。
「……はい」
「うん、よろしくね! それでさ、新見いる?」
「あっ、今日は古川原先生がいらしていて……今はお二人で話されています」
「ジジイ来てるの!? 教えてくれたらいいのに!」
「じ、ジジイって……随分な言い方ですね」
「だって、新見のじいちゃんとジジイ……じゃなくて古川原先生は親友で、俺と新見は幼なじみだろ? 昔からの知り合いだから、つい出ちゃうんだよ。ま、外じゃケジメをつけないとな……ごめんごめん」
尊敬する先生へのあんまりな呼び方を思わず咎めてしまいましたが、神宮先生は素直に否を認めてくれました。三人の関係性を知らなかった私も悪いので、神宮先生が謝る必要はないのですが……。
そういうところが、瑠衣子が神宮先生を気に入っている一因なのでしょう。
「新見のじいちゃんと新見は同じ病気なんだよ。だから、古川原先生も気になるんだろうな」
「へぇ……遺伝性っていうのは、本当だったんですね」
「そうだよ。有名じゃないか。……もしかして莉亜ちゃん、まだ新見の病名当てられてない?」
「はい……」
「何を賭けるか決めた?」
「とりあえず、当てたら美味しいモノを食べさせていただくことになってます」
「デート?」
瑠衣子にも似たようなことを言われたのを思い出します。
「いやいや、そんなんじゃないですよ」
「そうかな? 莉亜ちゃんはデートするのイヤ?」
「イヤ……では、ないですけど」
新見先生と一緒に出かけて、また公園で話した時のようにプライベートなことや、そうでない些細なことも、もちろん、あやかしあばきのことも。……たくさん、話が出来れば素敵だなぁ、楽しいだろうなぁと思います。
「それならいいじゃん」
「もぅ、からかわないで下さい」
でも、それは私が一方的にそう思っているだけで、新見先生はたぶん、そんなことを考えていないでしょうから失礼です。
「映ゆいなぁ……」
「はゆい? どんな意味ですか?」
「面映ゆいってことだよ。照れくさいとか恥ずかしいとか……そんな感じ!」
「恥ずかしい……ですか」
「見ているコッチがちょっと、ね……。莉亜ちゃん、新見の顔を見るとまぶしく感じることってない?」
「なぜですか?」
最初は童顔具合にビックリしましたが、もう見慣れたお顔なのでなんとも思いません。
「あはは、まぁ、そのうち分かるからさ。……早く、新見の病名当ててやってな」
「はぁ……」
言葉の真意を掴みかねて頭をひねっていると、神宮先生は持参していたカルテを取り出しました。
「古川原先生と一緒ならしばらく時間がかかるだろうし、莉亜ちゃんに伝えてもいい?」
「はい、どうぞ」
「えーっと、患者は十歳の男の子なんだけど、もともと手足の震えで内科に来てたんだ」
「そんなに若いのに震え、ですか」
「結構、顕著でね。両親が心配して連れてきて経過を見ていたんだけど、最近片目だけ妙に黄色くなってきて……『一つ目小僧に狙われてる!』って騒ぎ出したらしい」
「一つ目小僧……ですか」
「もう、聞いた瞬間に新見の出番だと思ったな。その子が言うには、一つ目小僧は自分の仲間を増やそうとしていて、マーキングした眼を刈り取っているんだって」
「なんか、聞いたことのない話ですね」
「突拍子もないから、このままだと精神科の紹介になりそうってことで新見に聞いておきたくてさ」
「わかりました。伝えておきますね」
「頼むね、莉亜ちゃん。患者は検査入院しているから、時間が空いたらいつでも呼んで。それじゃあ俺は内科に戻るわ」
瑠衣子ちゃんが待ってるから! と、神宮先生は内科に戻っていきました。時計を確認すると、確かに良い時間です。受付から待合室をのぞくと、すでに数名の患者さんが雑談しながら待たれています。
まだ新見先生と古川原先生は話をされているようです。二人の診察を邪魔するわけにはいきません。
あぁ、せっかく今日は先生を探さなくてすむと思っていたのに……。
診察開始は少し遅れます、と患者さんに頭を下げるために深呼吸を一つして待合に出て行きました。
***
「ふぅん、確かに面白そうな話だね」
引き留めたのですが、古川原先生は「奥様との約束がある」とのことで新見先生の診察を終えると足早に帰ってしまいました。
午前中の診察を終えて、カルテ庫の整理をしようとしていた先生に神宮先生からの依頼を話すと、先生はうれしそうに患者さんのカルテを開きます。
「一つ目小僧かぁ……、香住くんはどう思う?」
「私もカルテを見せてもらったんですけど、確かに眼の色が片目だけかなり黄色くなってますね。でも、黒目の色ではなくて白目の色なので、以前出会ったEKCとか、そういう種類の眼疾患じゃないでしょうか」
「鋭いねぇ。その通り。眼には黒目と白目があるからね。一言に『眼の色が変わった』といっても、どちらの色が変わったかによって随分危険度は変わってくるのさ、黒目の色が変わったのならかなり注意が必要だけど、白目は結構、周囲の影響を受けやすいからね」
「ですが……一つ目小僧に狙われているっていうのがよく分かりません」
「まだ子供だし、思いこみもあるのかもしれないよ。これ以上は実際に診察してみないとわからないさ。早速、呼んでくれる?」
「今ですか?」
「検査入院しているんでしょ? 早い方が良い」
昼休みも返上するほどあやかしあばきが好きなのか……と思いつつ、最近は瑠衣子との昼食の予定もないので、私も昼休み返上で病棟へ繋がる番号をプッシュしました。
「すぐ来られるそうです」
「ありがとう。……香住くん、神宮は何か余計なこと言っていなかったかい?」
「いいえ? 特には……」
特別に伝えるべきようなことはなかったように思います。
ただ、ひとつあるとすれば……。
「先生、おもはゆい、ってどんな意味か知ってますか?」
「おもはゆい?」
「面に映えると書いて、そう読むみたいです。神宮先生が私たちのことをそう言っていました。すいません、勉強不足で意味がよく分からなくて……」
「面映ゆいって言うのは、相手と顔を合わせたときにまぶしく感じるってことだね」
「どうしてまぶしく感じられるんですか?」
「そりゃあ、相手のことが好き……だか、ら……」
辞典をひくように、スラスラと答えていた先生の口調が急に細くなってしまいました。
「先生?」
カルテに眼を落としたまま、動きをピタリと止めてしまった先生を心配してお顔をのぞき込みます。
「………」
先生、お顔が耳まで真っ赤です。
俯いているせいで茶色の髪が深く下りて表情の全ては見えませんが、どう見ても赤いです。
普段、飄々としている童顔の先生がこんなにも分かりやすく動揺して顔色を変えるなんて……なんだか、見ていると私まで頬に熱が集まってきそうです。
一瞬、これもあやかしのせいかと思いましたが、新見先生は私の視線を振り切るように顔を背けて、早口で言いました。
「……けっ、結構古い言葉なのに、神宮もよく知ってたよねっ!」
「えっ……。そ、そうですね……はい」
道理で、耳馴染みのない言葉だったはずです。
「そうだ、よく考えたらもうお昼の時間じゃないか。患者さんの対応は僕一人でやっておくから、香住くんはお昼ご飯食べてきてもらってもいいよ」
「いえ、そんなわけにはいきません」
「残業代、たぶん出ないけど」
「構いません。私は先生の助手ですから」
私に出来ることはお手伝いぐらいですが、看護師として役に立てるのなら本望です。
そりゃ、お給金が出るならそれに越したことはないですけどね。
顔を背けていた先生ですが、次に振り向いた時にはいつもの先生の顔色でした。
……耳だけは、まだ赤かったのですが。
そんなに、神宮先生の使った言葉には威力があったのでしょうか。
それとも、何か別の理由があるのでしょうか。
例えば、私と同じような……。
「すいません、お待たせしました」
自分のことに向きそうだった意識が、病棟の看護師からの声で一気に現実に引き戻されました。
やってきた患者さんは両親と離れて入院しているのが心細いのか、不安そうに辺りを見渡しています。足取りはしっかりしていますが、やはり手足に震えが出ていました。
そして、右目は遠目でも分かるほど白目が黄色くなっています。
「来てくれてありがとう。福吉くんかな?」
「そうれす……」
少年の姿を見た新見先生は、すでに診察モードになっていました。
率先して前屈みになって尋ねますが、お得意の外面スマイルをもってしても福吉くんは固い表情のままです。
「一つ目小僧、怖いよね」
ですが、先生が『一つ目小僧』の話をした途端、福吉くんはパァっと顔を明るくさせました。
「そう、そうなんれす! このままだと、僕の右目は持っていひゃれてしまうのに、誰も信じてくれにゃくて……」
「うん、うん、怖いよね。ところで、それはいつから狙われるようになったの?」
「えっと……いつだったかな……昨日ひゃな? それとも先月かな……」
まだ子供だから、という理由にしてはどうにも曖昧です。それに、なんだか呂律が回っていないようにも感じます。
「一つ目小僧はどこからついて来た?」
「家族でお化け屋敷に行っへ、それきゃら僕について来た!」
「そっかぁ、そりゃあ怖い。よし、じゃあ早速調べよう。おいで」
「うん!」
福吉くんを連れてきた看護師さんは、彼の変わりように驚いています。新見先生と福吉くんは二人で診察室へと消えていきました。
「あの、診察が終わったらまた連絡します」
「は、はい……分かりました。新見先生、患者さんの扱いがお上手ですね」
「福吉くんですか?」
「病棟だと、いつも様子がおかしいんですよ。たまに年相応の子供らしくなるんですが、なんだかちょっと気味が悪くて……」
病棟の看護師さんは言ってしまってから失言に気がついたのか、あ、と口元を手で覆います。
私はそれに気がつかないフリをして、新見先生譲りの外面スマイルをしてみました。
うまく真似できたかどうかは分かりませんが、その場はうまく収まったのでヨシとします。
***
「カイザー・フライシャー輪?」
また耳慣れない言葉です。
時間外診察をした為にお昼ご飯を食べそびれてしまった私たちは、売店で買ったサンドイッチを裏庭の白いベンチに座って食べています。
新見先生が、猫と遊ぶためにいつも来ている裏庭です。
私から誘いました。
瑠衣子が言うように食堂に誘うことはできませんでしたが、一緒に食べていることに代わりはないのでいいでしょう。
今日の勤務が終わったら、瑠衣子に会いに行こうと思います。
こんな私を、心配してくれて、ありがとうって。
「そう。非常に稀な病気だからね。知らないのも無理はないよ。角膜に現れる、特徴的な銅代謝異常のことさ。黒目の周りに銅が付着して、青緑や黒緑褐色にみえるんだ。はっきり見えるのは思春期すぎの頃だから、あの子はまだ分かりにくかったけど……まぁ間違いないと思うよ」
新見先生は、福吉くんの診察をした後すぐに内科の神宮先生へ連絡しました。そして血液中のセスロプラスミンを測定するように依頼し、福吉くんはウィルソン病であるということが分かったのです。
「ウィルソン病はね、身体の中の銅の代謝がうまくいかずに体内のあちこちに銅が蓄積される病気なんだ。銅が蓄積される場所は肝臓・脳・腎臓・関節などだね。肝臓に銅が溜まると肝障害を起こしてしまう。それが肝不全になって白目に黄疸として現れたってこと。そのほかにも手足が震えたり、呂律が回らなくなったり……後は統合失調症の症状を示すこともあったりね」
それなら、福吉くんの妖しい訴えにも納得がいきます。
「適切な治療と食事療法で日常生活はちゃんと送れるよ。でも、放っておくと平均して30歳ぐらいで死んでしまうから……早く見つかって良かったね」
気を張って疲れたのか、新見先生の手元にあった買ったばかりの卵サンドはもうほとんど残っていません。
今日はお財布を忘れなかったのか、私の分のハムサンドのお金も払っていただきました。ありがたいことです。
「ウィルソン病はね、患者の22パーセントは発症から三年経っても確定診断されずに治療開始が遅れているんだ」
「どうしてそんなに初動が遅いんですか?」
「三万人に一人の確率で発症する病気だからね。どうしても研究が後手後手にまわってしまうのさ。眼症状が確定診断の一因を担っているから、責任重大さ」
「全身疾患が眼症状として現れることって、多いんですね」
「そういうこと。まぁ、どの科にとっても言えることだよ」
フと、神宮先生の言葉が蘇りました。
『早く、新見の病名当ててやってな』
先生とのゆるやかな時間を壊したくはありません。
ですが、知りたいという気持ちが勝っているのも事実です。
これは下世話な好奇心などではなく、先生のことを純粋に知りたいという気持ちからだと思います。
「先生の、病気は……どれぐらいの割合で起きるんですか?」
「僕? 僕の病気はね、大体3000〜4000人に一人ぐらいかな。原因も100以上あると言われていて、未だ特定できていないんだ」
「そうですか……」
「気になるなら、さっさと検索したらいいのに」
「まだもう少し、自力で頑張ります」
サンドイッチを食べ終えた先生は、一緒に買っていたコーヒー牛乳にストローを刺して啜ります。
「あれ? コーヒーじゃないんですね」
「だって、コーヒーなら香住くんがあとで淹れてくれるだろう?」
「適当なインスタントコーヒーですけど」
「その適当さ加減がいいのさ」
「先生も味音痴なんですか?」
「失敬な。そんなことはないよ」
先生の病名について、これまでに分かったこと。
遺伝性で進行性。
3000〜4000人に一人。
視野が徐々に狭くなっていく。
暗いところが怖くなる。
これぐらいでしょうか。今度の休みに、図書館に行って調べてみましょう。確か、医学書のコーナーにあったはずです。
「そうだ、今日、古川原先生に検査してもらったんだけどね」
「結果はどうでした?」
「あんまり、半年前と変わらなかったなぁ。僕の病気は進行具合に個人差が激しいから」
なるほど、新しい情報です。
「視野の検査をしたんだ。まだそのままにしてるから、この後で香住くんも検査してあげるよ」
「私がですか?」
「前に言ったでしょ。香住くん、視野が狭いって」
「だから、健康診断では大丈夫でしたって」
「視野は健康診断で測らないでしょ。簡単だよ、すぐ終わるから。暗い部屋で一点を見つめて、明かりが見えたらボタンを押すんだ。正常なら10分くらいで終わるかな」
「……それぐらいなら」
これは一度検査しておかないと、納得してくれなさそうです。
私は少し急いでハムサンドを飲み込むと、先に立ち上がりました。
「あいたっ」
「……香住くん。だから、なんでそんな見える場所にある葉っぱに引っかかるのかな」
「ちょっとした間違いですよ」
「まぁ、これから検査すればわかることだからね」
「よろしくお願いします」
せっかくなので、検査してもらいましょう。
それが済んだら午後の診察をして、終わったら瑠衣子に会いに行って、休日には図書館に行って。
そして近いうちに新見先生の病名を当てるのです。
その時に、お顔を赤くしていた理由も聞いてみたいです。
やりたいことが、たくさんあります。
そんな風に思ったのは、兄を喪ってから初めてでした。
兄の『お前は毎日、楽しく笑って過ごせ』という遺言を忠実に守って生きてきたつもりでしたが、ひょっとしてその言葉の真意は、単純に何も考えずに毎日笑っているだけではないのかもしれません。
今を楽しく、笑って、そして未来に希望をもって生きること。
そして、私の生きる道に、誰かが一緒に寄り添ってくれたら。
誰かの生きる道に、私が一緒に寄り添うことができたらなら。
それが出来たら、兄は今よりもっと喜んでくれるでしょうか。
でも、私はそんな考えが非常に甘いものであると、検査を終えて思い知ることになるのです。
『明日』が来ることは、奇跡に近いということなんて、家族を喪い続けた私はイヤと言うほど知っているはずだったのに。
どうして、自分のことになると忘れてしまうんでしょうね。
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