第1診 幽霊自動車の怪

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第1診 幽霊自動車の怪

「先生! せんせーい! どこですか〜」  青ヶ森総合病院。  外科、脳神経外科、心臓血管外科、呼吸器外科、整形外科、内科、循環内科、神経内科、麻酔科、小児科、放射線科、リハビリテーション科など併せて15の科があり、私が看護師として勤務している眼科もその一つです。  どこにでもある田舎の総合病院で、地域のみなさまに愛されて早十数年。  近くに眼科クリニックが多いせいか、眼科は病院設立当初から眼科医と看護師が一人ずつで切り盛りしています。 「新見先生! またこんなところにいたんですね!」  もうすぐ昼休みも終わるというのに未だ診察室に姿を見せない眼科医・新見三太郎先生を探して、病院の裏庭に来てみればそこには呑気に野良猫と戯れる先生の姿がありました。  ちょっと色素の薄い茶色っぽいボサボサ頭。  白いシャツにラクダ色のダボダボカーディガン。  いつも眠たそうに伏せていますが、実は男性にしては大きな瞳。  童顔なのに細身で長身なので、なんだかどこかアンバランスな印象を受けます。  そして足下には、普段は警戒心マックスで私の姿を見るなり飛び上がって逃げ出す野良の三毛猫が、とんでもなく無防備にお腹を差し出して大きなあくびをしています。白くてふくふくの毛が、午後の日差しを受けてきらきらと透明に輝いてまぶしく見えました。 「え? いま何時?」  億劫そうに目を細めて振り返った新見先生は、前任の古川原先生が高齢による体調不良で診察が困難になった為に他の病院から呼ばれた新しい眼科医の先生です。 「十四時五十五分です! もう十五時からの診察、はじまっちゃいますよ!」 「そっか、ごめんごめん」  よいしょ、というかけ声と共に立ち上がった新見先生は、野良猫のお腹を名残惜しそうに撫でてから歩き出しました。 「先生? 病棟は反対方向ですけど?」 「ああ、そうだったか……」  先生はよく言えばマイペース、悪く言えば空気が読めないと言うか……。 「ほら、はやく行きましょう」 「ん〜……」 「なに渋っているんですか」  仕事に取りかかりたくなさそうな先生の進行方向を、なんとか診察室方向に向けます。さっきまで先生の足下に転がっていた三毛猫は、いつの間にか姿を消しました。 「香住くん、いま待っている患者さんは再診の人たちかい?」 「え? えっと、そうですね……。でも、見慣れないお顔もありましたから、初診の患者さんも何人かいると思いますよ」 「そっかぁ、初診かぁ……」  新見先生は細くて長いため息を吐き出して、ポツリと一言。 「誰か妖しい話、してくれるかなぁ?」 「なんですか? 妖しい話って」 「ドッペルゲンガーが迫ってくるとか、犬神様に祟られているとか、背後霊を殺しちゃったとか……そういうアヤカシの話だよ」  先生は眼科医として非常に優秀なのですが、何故か一風変わった訴えが大好きなのです。 「そんな変な訴え、毎日は無理ですよ」 「そうかな? この青ヶ森総合病院は、なんだかんだ毎日一人はそんな患者さんが来るじゃないか。前に大学病院に勤めていた時よりも良い成績だよ」 「成績って……。もぅ、そんな問題じゃないでしょう」  新見先生とはじめて出会った時のことは、よく覚えています。  ずっと一緒に働いていた古川原先生と離れることになったのはとてもさみしかったし、新任の先生は難関大学卒の厳しい人らしいと聞いていたのでちょっとドキドキでした。  ですが、実際に顔を合わせてみると、初対面の新見先生は前評判とは裏腹に満面の笑みで「はじめまして。よろしくお願いします」と言ってくれたので、エリートの先生が青ヶ森みたいな田舎の病院にわざわざどうして? 問題児なのでは? なんて変な噂なんてすっかり吹き飛んでしまいました。  ……まぁ、その後一緒に仕事をするようになって、問題児なのでは? という噂は正しかったのだということに身を持って気づくわけですが……。  ちょっとマイペースすぎたり空気が読めない時が大半を占めている新見先生。  でも、根っこのところはさっき野良猫を撫でていたときに見せていたような穏やかな表情の持ち主だということを、私は知っています。  もっと、先生の良さを私だけじゃなくてみんなが分かってくれればいいのに 「どうしたの? 僕の顔に何かついてる?」 「いえ、なにも。それより急ぎましょう。本当にギリギリです。また投書されますよ」 「やぁ、それは大変だ」  話しているうちに、とうとう診察開始時間が来てしまったようです。  病院内に鳴り響くチャイムの音を聞きながら、私は新見先生をせっつきました。 「あいたっ」 「香住くん? なんでそんなわかりやすい場所にある葉っぱに気がつかないの?」  私は先生と違ってチビだから視界が違うんですよ、という台詞をなんとか引っ込めました。先生は良いところもたくさんあるけれど、時々ムカつくのです。 ***  時間にルーズなのは改めてほしいところではありますが、ひとたび白衣に袖を通して医師の顔になると、新見先生はスイッチが入ったように頼もしくなります。 「先生、俺、車の幽霊が見えるんです」  そんなことを診察室で言い出したのは、鎖骨が浮いて見えるほど痩せた五十代の男性でした。午後の診察時間終了間際に現れた、予約外の初診さんです。一番嫌われるやつです。しかし、私たちはそんなことはおくびにも出しません。  ニッコリと笑顔で、先生の後ろについてカルテの記入を手伝います。  右も左も分からないような私に、前任の古川原先生はとても良くしてくださりました。そんな日々で私が感じたのは、眼科には新見先生の好物である一風変わった患者さんや医師が多いということです。  眼は大体の人にとって『見えているのが当たり前』な上に内蔵の疾患と違って些細な変化も如実に現れますから、放っておけば良くなるような症状でも飛んでくる方がたくさんいます。  もちろん、中には重篤な症状の患者さんもいますし、眼は血管が集まったとても繊細で重要な部分です。命に関わる病気の前兆だという場合もあります。なので、診察は常に真剣に行わないといけません。 「はい、そうですか。いつからですか?」 「ゆ、幽霊ですよ!?」  幽霊。  そんな台詞を日常で聞いたなら、もっと目を丸くするでしょう。でも先生はいたって冷静です。  大体こういう初診の問診は、「急に眼が痛くなって」とか「昨日から目やにが止まらなくて」とか、そういう文言から始まるものなのに。  今日の朝から病院巡りをしているが、どこも相手にしてくれないとその男性は憤っていました。おそらく、『幽霊』だなんて言い方をするから心療内科や精神科行きをすすめられたのでしょう。 「どんな幽霊ですか?」  荒唐無稽な訴えに、新見先生の目が輝きます。  先生は、何故かこういう変わった訴えが大好きなのです。  まだ赴任してきて半年なのに六人部屋に潜む七人目の亡霊や、異世界に繋がる霊安室、手術室の透明人間など病院内の怪事件を眼科知識でいくつも解決してきました。  普段はマイペースで気の向いた時にしか他人と関わろうとしないくせに、そういう時だけバリバリと動くから余計に変人扱いされてしまっているのですが、本人にその自覚はないようです。  私はその度に助手のようなことをしているので、今回も先駆けて患者さんのカルテを遡りました。  なにか、手がかりがあるかもしれません。  最終受診日は二ヶ月前で、既往は特になし。何度かドライアイやアレルギーによる眼のかゆみで受診しているだけ。 「車を運転していると、目の前の車両が二つに見えるんです」 「どんなふうに見えるんですか?」 「地面を走っている車とまったくソックリな車が、ちょうど真上に見えるんですよ」 「それは、ずっと見えていますか?」 「まばたきをしたり、目を強くこすれば一時的に消えますがしばらくするとまた見えます」 「ニセモノの車は、ホンモノの車と同じ動きをしますか?」 「ええ! まるで鏡写しのように、まったく同じ動きをしています」 「運転中以外は、感じませんか?」 「えっ、どうでしょう……運転中以外はあんまり意識しないからわからないです」 「では、その幽霊は以前から見えていましたか? たとえばお若い頃……二十代の頃とか」 「いいえ! そんなことはありません! むしろ若い頃は視力の良さだけが自慢でした。眼科なんて、来たこともないです」 「学校の検査でひっかかったことも?」 「ないです、もちろん」 「ご家族の中で、似た症状がでている方は居ますか?」 「いいえ、聞いたこともありません」 「そうですか」 「……先生、俺、自動車の整備会社を経営しているんです」 「へぇ、すごいですね」 「仕事は順調なんですが……整備のために。その……型落ちの車から新しいパーツだけを抜き取ったり、儲けのでなくなった車をまだ走れるのにプレスにかけたりしていたんです」 「まあ、それが業務内容ですよね」 「もしかして、それが……自動車の恨みをかってしまったのでは……」  そんなわけないじゃん。  と、いいたい気持ちを真面目な顔の下で必死に飲み込みます。  診察は常に真剣に。  ……ですが、適度に息を抜かないと倒れてしまうのも医療の難しいところです。 「それも一因かもしれませんが、とりあえず検査をしましょう」  新見先生は患者さんを連れて検査室に行きました。  視力や目の位置を測る、APCTやHESSと呼ばれる検査です。  慣れた手つきでチャッチャとすませた先生は、また診察室に戻ってきました。 「あなたは上下斜視ですね」    検査を終えた先生が言いました。  上下斜視とは、普通に前を向いているつもりでも、両眼の筋肉のバランスの関係で片方の黒目が上を向いてもう片方が下を向いている状態です。  上下斜視のほかにも、黒目が外側にズレる現象を外斜視、内側にズレる現象を内斜視と呼びます。 「じょ、上下斜視?」  私たちにとっては当たり前の単語でも、患者さんにとっては聞き慣れない言葉です。頭にの上に疑問符が浮かんでいるのがみえました。 「人の眼はそもそも、頭蓋骨の関係でまっすぐには入っていません。少しだけ外側を向いています。若いうちは『エイヤッ』と力を入れてまっすぐにしてものを見ているのですが、残念ながらその力は年齢と共に徐々に失われていってしまうのです。筋力だって、年をとれば衰えるのと同じですね。そして、人によっては生まれつき上下にずれて目玉が入った状態で生まれてくる人もいます。それがあなたです」 「そ、そんなこと今まで言われたことがないですよ!」  いきなりの病名宣告に、男性は戸惑っている様子です。 「若いうちは自分の『エイヤッ』っという力でどうにかまっすぐできていたけれど、年齢を重ねて筋力が弱くなって、目玉の上下のズレをまっすぐにできなくなってしまったのでしょう。右の眼と左の眼、両方の眼で見ている位置が違うから、頭の中で情報が混乱して同じモノが二つ見えてしまう現象がおきたのです。この筋力は大体40歳ごろから衰えだして60歳でほとんどゼロになるのですが、あなたは元々のズレが大きかったので、50代で限界がきたのだと思います」 「は、はぁ……」  新見先生はイマイチついていけていない患者さんを尻目に、スラスラとその後の対策を話します。 「本当は運転中以外にも上下にずれて見える現象がおきていたはずですが『車の幽霊』という印象が強すぎて、認識できなかったのでしょう。今後の対策としては、手術して眼の筋肉の切断・縫合を行いズレている目の位置を元に戻すか、メガネに膜プリズムと呼ばれる補助レンズを張って失った筋肉の足しにするか……」 「……治らないんですか?」 「治る・治らないの問題ではないですね。医療は老いを止めるものではないので」  患者さんは相変わらず納得がいっていないようでしたが、その後は目の模型を使って詳しく説明をしたところ、なんとか理解してくれました。 「老いは止められませんが、共に歩むことはできます。決心がついたのなら、手術の申し込みか補助レンズの検査を受けて下さい」  診察の締めくくりに、新見先生はそう言ってニッコリ笑いました。  最初に出会ったとき、私を安心させてくれた笑みです。  最初、童顔で若い見た目の先生を見たときに「新人かよ」イヤそうにとボソッと呟いた患者さんはそのことをスッカリ忘れたのか、ペコペコお辞儀をしながら去っていきました。 「おつかれさまでした」  診察終了の札をかけて、労いのコーヒーを入れます。  コーヒーと言っても、インスタントの粉にお湯を入れただけの簡単なものですが。 「ありがとう」 「最後の患者さん、先生が好きそうなタイプでしたね」 「医療知識のある僕たちから見ればありきたりのことでも、何も知らない患者さんの目線から見たらまるで怪談話に聞こえるって、面白いと思わないかい? 幽霊の、正体見たり、眼科学……ってね」 「その俳句はゴロが悪いですが、お話は興味深いと思います。本当、そういう不思議な訴えが好きですよね」 「そうだね……。最初に勤めた大学病院でね、ずっとヘンな訴えをしている患者さんがいたんだ。写真家だったんだけど、ある時から急に世界の彩度が落ちたって」 「さいど?」 「鮮やかさのことだね。いつもの景色より一段階、くすんで見えるって訴えさ。視覚に対して自信を持っていた方だったから、昨日より今日、今日より明日とどんどん世界が暗くなっていくとかなり不安になっていたんだ。次第に幽霊の仕業じゃないかとか、妖怪に取り憑かれているんじゃないかとか騒ぎ出してね。でも、検査しても特に異常はなくて。どういうことかと色々調べていたら……」  先生は私がテーブルに置いたコーヒーに一旦手をつけて、すぐに引っ込めました。まだ冷めていなかったのでしょう。温めに入れたつもりでしたが、先生は猫舌なのです。 「白血病性網膜症の所見がみつかった。つまり、白血病であるということが分かったんだ」 「白血病、ですか……」 「そう。主に繰り返す感染症や慢性的な疲労感、過度な出血や消えないアザなどが症状として現れるんだけど、人によっては眼からやられるケースもあるんだ。かなり初期の白血病だったから、すぐに他科に紹介して治療を開始してもらったよ。白血病は早期の診断と治療が不可欠だからね。だから僕は、些細な違和感や不思議な訴えこそ、しっかり耳を貸そうと思ったのさ。眼には全身症状の変化が忠実に現れるから」 「へぇ……すごいですね。確か、学校で習ったような気もしますが……」  必死に専門学校時代の記憶を辿りますが、細部は曖昧です。 「看護師さんは学生時代、眼だけじゃなくて全身の全てを勉強するでしょ? 眼科なんて分厚い教科書のうちの一割にも満たないんだから、知らないのも無理はないよ。その分、僕たち専門医がいるわけだし」 「いや、でも今は私も眼科の専属ですから。覚えておきます。えっと……」 「ロート斑って言うんだ。アール、オー、ティー、エイチと斑模様の斑って書くよ。白血病だけに現れるものじゃないけど、まぁ覚えておくといいかもね。いやぁ、誰かにものを教えるなんて、学生の頃を思い出すよ」 「懐かしいですか?」 「そうだね、あのころの僕は若かった」 「今だって、ずいぶんお若いですけど」 「うーん、そうかもしれないけど、あのころは独身だったし」 「あっ、ご結婚されているんですね」 「うん。結婚していた」  していた、という語尾をやたらと強調していたから、その言葉の真意は察することができました。  と、言いますか看護師同士の噂の連絡網で、新見先生がバツイチであることは実は知っていたのですが、ここは何も知らないフリをします。 「僕、バツイチなんだよ。まあ子供もいなかったし、円満離婚って感じ? この病院にきたのも、前の奥さんと離婚がきっかけのひとつ」  新見先生はそう言って一息ついた後、ようやく湯気が出なくなったぬるそうなコーヒーに口を付けます。その表情は一見していつも通りでしたが、どこか寂しそうな面影がありました。 「これ、恥ずかしいからあんまり言わないでね」  残念ながら、そういう恥ずかしいことこそ一気に知れ渡るのが病院というものです。特に、女性が多い職場では避けられません。童顔で幼い印象の先生も、しっかり私より年上でしかもバツイチだと知ったときはかなり驚きました。 「わかりました。任せて下さい。私、これでも口は固いので」  でもまぁ、せめて私から拡散することは止しておきましょう。 「別に恥ずかしいことなんかじゃないと思いますけど」 「だけど、結婚って自分たちだけでするものじゃないからさぁ」 「ああ、相手のご家族の気持ちもありますもんね」 「自分の家族もそうだよ。円満に済んだ方だけど、もう離婚の時は揉めた揉めた……」  苦笑いしながら、先生はコーヒーの最後の一滴を喉に押し込みました。なんだか、先生の口からそんな世知辛い台詞を聞くと変な感じです。  そっか、自分の家族か……。 「どうしたの? ボーッとしちゃって」 「いえ、あの、私には自分の家族がいないので、そういう煩わしさはないんだなぁ、と思って」 「へ? いないの?」 「はい。元々短命の家系みたいで、両親も兄もパタパタと。まぁ私もたぶん長生きはしないでしょうし、結婚なんて考えたこともなかったです」  両親を早いうちに亡くした私は、十歳違いの兄に育てられました。早く自立して手に職をつけたいと看護師になったものの、兄はそんな私の姿を見る前に亡くなってしまったわけですが……。  私にとっては生まれた時からそれが当たり前なので、他人が思うほど暗く受け止めていないのですが、重く受け止められがちなのであまり他人に身の上話はしません。  でも何故か、新見先生の前だとポロリと零れてしまいました。 「そっか……香住くんが歳の割に落ち着いてみえるのは、そういう理由があったんだね」 「先生には言われたくないですね」 「それは僕が童顔だって言いたいのかな? ん?」 「いえいえ、そんなことは……」  先生は、大体この話題の時にみんなが口にするお決まりの慰めを言いませんでした。いつもと変わらない調子に、どこかホッとします。 「じゃあついでに、もうひとつ秘密を教えようかな」 「なんでしょう?」  本当は、他人の秘密なんて重荷はあんまり背負いたくないんですが、ついつい好奇心に負けて軽々しくそんなことを言ってしまいました。  私も、新見先生に似てきてしまったのかな? 「僕ね、いつか、目が見えなくなるんだ」  今日のご飯は何がいいかなあ、と同じリズムで出てきたその言葉に、私は耳を疑います。 「……全く、ですか?」 「そう、全く。全盲ってこと」 「な、なんで……」 「そういう、病気なのさ」 「ち、治療法は?」 「ないね。遠い未来には開発されるかもしれないけど、僕が生きているうちは絶望的だよ」  何の病気か、わかる?と言って先生は診察用の白衣を脱いで立ち上がりました。くしゃくしゃと丸めて、ポンと椅子に引っかけます。 「い、いえ……」  いきなりのカミングアウトに、どうやって返せばいいのか分かりません。 「じゃあ、いつか当ててみてよ」 「私が、ですか?」 「他に誰がいるのさ。あ、当てずっぽうじゃダメだよ。ちゃんと理由も添えてね。香住くんって、確か短命の家系なんだよね? それじゃあ、僕が見えなくなるのが先か香住くんが死ぬのが先か、競争しようよ」 「……とても医療従事者、それも医師とは思えない発言ですね」 「気を悪くした? 悪気は、ないんだけど……」  あんまりな言葉に、思わず冷たい目で先生を見上げたら、先生は長身の肩を窄めてみるみるうちに小さくなってしまいました。 「分かってますよ。大丈夫です」 「本当?」 「先生と半年も働けば、貴方がどんな人間かってことぐらい分かりますから」  きっと、これが先生なりの慰め方なのでしょう。  ……全然、慰めにはなっていませんが。 「香住くん……!」 「診察中の先生は、とっても頼もしいしカッコいいです」  わざと『の』を強めに発音してみます。 「診察中、の!? ……それ以外はどう思ってるの!?」 「………」 「香住くん?」 「………」 「香住くーん!? ねぇ、笑ってないで答えてよ!」  新見先生の視線をかわしつつ、私は診察室の片づけをはじめます。  前任の古川原先生と新見先生はまるでタイプが違いますが、まだ眼科の看護師を続けられるような気がしました。  死んでしまうまでの短い間、元気で笑って過ごすことが、兄との最後の約束ですから。兄には何もしてあげられませんでした。だからそれぐらい、守りたいと思うのです。  これは、私と先生が遭遇したちょっと不思議で妖しい、だけどなんでもない診察の記録です。
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