第2診 呪いの車椅子

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第2診 呪いの車椅子

 病院と車椅子は、切っても切れない関係です。  これは、何度でも同じ場所に戻ってきてしまう不思議な黒い車椅子のお話。 ***  病院の朝は早いです。   早いと言うより、眠らないというか。  朝も夜も昼もないというか。  眼科勤務の私に夜勤はないけれど、手術の関係で朝早く行かなければならない時があります。  早起きはキライではないので、まだ朝日も昇りきらないうちに自宅を出て、澄んだ空気で肺をいっぱいにしながらの出勤は、楽しみですらあります。  仕事場へと向かう途中に出会うのは夜勤明けの同僚ばかり。これも見慣れた光景です。  「……ん?」  エレベーターのすぐ隣にある眼科の検査室の前に、一台の車椅子が置いてありました。  ポツン、とさみしそうにひとつだけ取り残されたその車椅子は真っ黒で、背もたれのところに金色の文字で『寄贈』と書かれています。  黒。  その色だけ、少し引っかかります。  青ヶ森総合病院では、車椅子は緑色で統一されているからです。 「こんな車椅子、あったかな……」  そんな独り言が漏れてしまいます。  車椅子。  車椅子について、少し考えます。  他科と比べると車椅子を使う頻度は少ないと思いますが(眼科では自分で歩くことができる患者さんが多いため、手術の後ぐらいしかお世話になることはないので)、最初は扱い慣れなかった車椅子も、今ではすっかりおなじみになりました。  乗っている患者さんが感じる体感速度は以外と早いから、ゆっくりしすぎるぐらいがちょうど良いとか、曲がるときは一言右か左かどちらに曲がるか言った方が良いとか……。そういうこまごましたこともわかります。  もしかしたら、他科では黒を使っているのかもしれない……と頭の中をぐるぐる探って黒い車椅子の存在を探ってみますが……やっぱり思い出せません。  だけど、『寄贈』の意味は分かりました。  ……でも確か、患者さんや他の病院から贈られたものには『寄贈』の後ろに『誰々様より』とか、『何々病院様より』とか、そんな文字が書かれてたハズです。   まあ中にはきっと謙虚な方もいて、匿名で贈ってくれたのかもしれません。  私はそんなふうに結論づけて、とりあえず玄関近くの車椅子置き場までそれを戻すことにしました。  いつも少し早めに来ているので、それぐらいのタイムロスは大したことではないのです。 「使ったら、戻しておいてほしいなぁ」  言うべき相手を見失った私の言葉は、誰もいない玄関ホールにひっそりと溶けました。 *** 「へぇ、そんなことがあったんだね」  午後の診察が一息ついたところで、今日の診察は一件も妖しい訴えがなかった……と新見先生がぶすくれていたので今朝の出来事を話しました。 「先生は、送り主の書いていない寄贈品って、どういう意味かわかりますか?」 「そうだね、まず考えられるのは……」  先生はコップを傾けましたが、そこからコーヒーがこぼれ落ちることはありません。 「淹れてきます」 「ありがとう」  いつものように適当な配分でコーヒーを作って、先生に手渡します。  受け取った先生は、黒い水面を見つめながらぽつぽつと話し始めました。 「お金持ちの娯楽か、謙虚な寄付者か、この病院の関係者か……あとは」 「あとは?」  飲まないままのコーヒーを机に置いて、先生はガシガシと柔らかい髪の毛をかきむしります。 「……もう使わなくなった人からの贈り物……かな」 「ああ、退院した人からですか」 「それなら、名前を明かすでしょ」  先生は少しだけ言いにくそうにした後、小さな声で言いました。 「つまり、故人からの贈り物ってことだよ」 「………」  故人。  その意味は、私にも分かります。 「人によっては、生前使っていたモノはなんでもそっくりそのまま残しておきたいって人もいるだろうけど、車椅子って大体がロクな思い出がないみたいで、廃棄にするか寄付にするか……ってね」 「あ、でも……その黒い車椅子は、すごく綺麗でまるで新品みたいでしたけど」 「それなら、余計にタチが悪いなぁ」  好みの温度にぬるくなったコーヒーを先生は一口、啜ります。 「車椅子を使う暇もないぐらい、すぐにお迎えがきてしまったんだろうから」  幼い顔立ちをしているとはいえ、先生は三十過ぎの男性です。  大きな瞳をキュッと細めてぼんやりと遠くを見ながらそんな台詞を言われると、普段とのギャップでちょっと背筋が凍りました。 「……とはいえ、実際は」 「え?」 「そんなオカルト話、あるわけがないから……きっとなにか、理由があるはずだよ」 「理由……ですか」 「そう。考えてもみてよ。勝手に動き出す車椅子なんて、その動力はどこからくるのさ。完全に物理法則を無視しているよね。その黒い車椅子は香住くんがその手で玄関ホールに戻したのと同じように、誰かの手でこの眼科の前まで運ばれたんだ」 「誰かって……誰、ですか?」 「それは今から考える。だけど、僕にはちょっと心当たりがあるんだけどね」 「心当たり?」 「黒い車椅子のウワサ、僕が以前勤めていた病院でも流行ったことがあるんだ。大体どこの病院でも語られてね。その原因は、実際にどこかの病院で車椅子の整備不良が原因で事故が起きかけたってだけの話なんだけど……いつからか、送り主不明の寄贈車椅子は故人からのもので、よからぬ呪いがかけられている……なーんて尾鰭がついて泳ぎまくり」 「そんなウワサがあったんですか……」 「送り主のない寄贈車椅子が悪いんじゃないよ? 病院によって考え方は違うから。寄贈品の全てに送り主を記載していないところもあれば、希望によって変えているところもある。香住くんが怖がっている黒い車椅子だって、故人からと決まっているわけじゃない」 「わ、私は別に……怖がってなんか。ただ、不思議に思っているだけです」 「そぉ? じゃあ、明日もその車椅子を見つけてもいいんだね?」  先生はニヤリと意地悪そうに笑います。  同じ笑みでも、患者さんに対する時とはえらく違います。  普段は表情筋の動かし方も知りませんといった風情なのに、こういう時だけ使い分けるのは本当にズルいと思いました。 *** 黒い車椅子に遭遇するようになってから、一週間が経ちました。  それは大体、出勤時に現れます。時々は、昼休みに少し目を離した隙に。  朝の少しだけ陰鬱な気分の時に、真っ黒の車椅子が眼にはいるとガクッと気分が落ちてしまいます。  仕事が始まれば、もちろんそんなことも言ってられないですし患者さんのジャマになるので、せっせとこれを玄関ホールに持って行くのが私の日課になっていました。  その黒い車椅子が怖がられるきっかけになった怪談を私は知らないので、触れることに関してはあまり抵抗がないのですが、他の看護部の看護師からは気味悪がられてしまいました。  ちょっと納得いかないんですけど。 「こんにちは」  答えのでない謎に頭を悩ませていたら、病棟に結核で入院している佐伯さんに声をかけられました。  いつの間にか午後の診察時間が間近に迫っていたようです。  受付まで出て行って対応します。 「ごめんなさい、まだ早いとは思ったんですけど……」  申し訳なさそうに小首を傾げる佐伯さんは四十代の女性です。  結核治療のために使われているエタンブトールという薬が視力を低下させるという副作用をもっているので、定期的に検査に来ているのです。 「大丈夫ですよ。でも、病棟で待っていてくれれば担当看護師が迎えに行きましたのに」 「でも、入院中って暇で暇で……」  今や結核は治る病気として知られていますが、診断が遅れれば未だ命に関わる重篤な病気です。佐伯さんは母子家庭で、頑張って働いていたために発見がかなり遅れました。免疫状態が悪いので体力の消耗が激しく、移動には車椅子を使っています。 「ようやくこの車椅子の扱いにも慣れてきたので、ついついね」 「療養のために入院しているんだから、もっと安静にしていてくださいよ」 「だって……」  まぁ、ここまで元気そうならおそらく退院の日も近いでしょう。  フと気になって佐伯さんの車椅子の色を確認しました。 「やっぱり緑か……」 「えっ? なんのこと?」 「いえいえ、こちらの話です……。佐伯さん、もう少し待っていてくださいね」  受付での対応をすませて診察室に戻ると、新見先生がちょうど白衣を羽織ったところでした。 「先生、今日は時間通りに戻ってきてくれたんですね」 「僕だって、時計ぐらいわかるよ。それに、ここ1〜2週間は忙しくなるはずだから気合い入れないと。学校検診の結果がでる頃だし、最近になって復活したあの検査のおかげで、受診者も増えるだろうから」 「あの検査って、なんですか?」 「香住くん、知らないの? ああ、きっと香住くんの世代には、その検査すらなかったかもね。ホラ、途中でなくなった学校検診、なにか覚えてない?」 「座高検査ですか?」 「それ、眼科と関係ないでしょ。色覚検査さ」  色覚。  人間の目は赤・緑・青を感じる能力があります。  その三つの光の刺激をうまく組み合わせて、様々な色を関知することができるのです。  ですが、全員がその能力の全てを持っているわけではありません。  赤を感じる力のない人や、緑を感じる力のない人や、青の感じる力のない人や、または、その全てを持たない人や。  様々なパターンが考えられますが、大まかに分けるとこういうことだったように思います。  現状、確実な治療法のない状態では、看護師の私が知っていることなんてそれぐらいなのです。それは分厚い教科書の片隅に、ひっそりと佇んでいたように記憶しています。 「昔は、その検査があったんですか?」 「まぁね」 「じゃあ、何故なくなってしまったんでしょう?」   新見先生はちょっとだけ視線を空中に逃がして、それから柔らかいボサボサ頭をひとかきして私に言いました。 「色覚異常者はね、その昔、進学や就職でずいぶんと差別されてきたんだ」 「差別?」  聞き慣れない言葉に、すこし動揺します。 「そう。たとえば、仕事の面。有名なところでは、公務員系のある職種では信号の色を識別できないという理由で弾かれるよね。一般企業でも、伝票管理で緑と赤が分からないと著しく処理能力が落ちるという理由で弾かれたりさ。でもね、採用する方も悪いと思わないかい? 特に某公務員なんてさ、筆記試験で通しておいて、次の健康診断で色覚異常が分かった途端に問答無用でハイさようならなんだから。それなら、募集要項にデカデカと書いておけばいいのに。ま、それをしないのは、いわゆる臭いものに蓋の原理なんだろうね。そんなことをしたら、差別主義者みたいに見えるから。でも、それは必要なことなんだけどね〜。実際問題、咄嗟に色が識別できないと勤まらない職業もあるだろう。だけど目先の感情論にとらわれて、大事な募集要項を小さい文字で記載するのはどうかと思うよ」  どうやら、先生の変なスイッチが入ってしまったようです。  喋りが止まりません。 「そういうことされるとさ、困るのはこっちなんだよね。意気揚々と憧れの職業を目指している若者を、絶望の淵へたたき落とさないといけないんだから。しかも、これは遺伝性なんだ。必ずしも遺伝するというわけでもないけれど……診察室で両親を呼んで話をした時、お決まりの『どっちの血が悪いのか悪い論争』にはもう、うんざりだよ。子供が男の子ならその論争に意味はあるのかも知れないけれど、女の子ならそんな論争まるで意味がないよね。どっちの責任でもあるんだから。あんまり、この件に関して『責任』なんて単語は使いたくないけれど。そんなもの、どっちが悪いとかいう、そんな問題ではないんだから。当事者である自分の子供にどれだけ寄り添えるか。それが、親の技量であり真に果たすべき役割だと思わないかい? 僕が習った時代では、男性の5パーセント、女性の0.4パーセントが色覚異常と教えられたけど……実際のところは、もっといるかもしれないね。軽度だったり、色覚に関係のない仕事につけば一生自覚のないままの場合もあるから。だから学校検診では暴くべきではないって廃止されたんだ。で、そのしわ寄せが眼科医にくる……と。別に、面倒くさがっているわけではないんだけれど……まあ、お互い時間の消費だよね。叶わない夢を追い続けるなんて、何ともかなしい話じゃないか」  新見先生は一息でそこまで主張した後、話に入れないでいた私に「わかった?」と小さく聞きました。 「あっ、はい……」 「ほんと?」 「先生って……意外とお喋りなんですね」 「専門分野のことになるとどうしてもね。色覚の話、眼科で働くなら知っておいて損はないと思うよ。なにか、画期的な解決方法でもあればいいんだけどねぇ。濃い色のついた眼鏡を使えばある程度は識別できるけど、それも万人に使える方法じゃないし」  先生はブツブツ言いながら、眼科で定期購読している『眼科スポット』と呼ばれる医療従事者向けの雑誌を手渡してくれました。  ちょうど、見出しに『色覚検査のイロハ』とあったので興味をそそられます。 「休憩時間にでも、読んでみたらいいよ」  前任の古川原先生は、こういうときはこう、とか実践系のフィーリングを主に教えていただいたので、こうして文献として色覚について学ぶのは初めてです。  午後の診察開始までのわずかな時間、パラパラとページをめくります。 「これ……」  そこには、ここ最近の謎のヒントがありました。  今までバラバラだったピースが、ひとつに繋がったようです。  なんだ、こんなことだったのか。 *** 「新見先生」  先生の読み通り、午後からの患者さんはいつもより多かったです。  波が落ち着いた頃、私はいつもの適当な配合のコーヒーを机の上に置いて言いました。 「わかりましたよ」 「何が?」 「黒い車椅子の正体です」  私は論より証拠、とばかりに『眼科スポット』の中の色覚異常のページを机に広げました。 「きっと、黒い車椅子を使っている人は黒と緑の区別がつきにくいんだと思います」 「第二色覚異常だね」 「だ、だいに……?」 「そういうふうに表現するんだよ。うん、僕も同じことを思っていた」  新見先生は頷きながら、壁に掛けている予定を書くことだけに特化したひどくシンプルなカレンダーを指でなぞります。 「香住くんが、黒い車椅子に気がついてから、少し時間が経った。今日ぐらい、現れるんじゃないかな」 「なにがですか?」 「ご所望の人物だよ」  予想が当たったことは単純にうれしいのですが、そこから一歩も二歩も先を新見先生が歩いているから、なんだかおもしろくありません。 「ほら、音が聞こえる」  そう言われて耳をすますと、人の少なくなった夕暮れ時の廊下に、コロコロと車椅子を転がす音が聞こえます。  ビクリと肩を震わせて固まりましたが、先生がまるで当たり前のように私の横をするりとすり抜けて出て行ってしまうので、慌てて後を追いました。 「やあ、こんにちは」  黒い車椅子を押している人物に、先生は気さく声をかけます。  その人は……いいえ、その子は男子高校生でした。  派手な色のパーカーの上に真っ黒の学ランを来て、肩からは大きなスポーツバック。  急に眼科医から声をかけられたことに目を丸くしながらも、律儀にペコリと頭を下げます。 「そろそろお母さん、退院かな?」 「えっ? 母を、知っているんですか?」 「うん。お母さんに投与されている薬が、視力に関する副作用があってね。何度か眼科で診ていたんだ」 「大丈夫でしたか?」 「全然、大丈夫」  そんな世間話をしていると、チン!と音がして眼科のすぐ横にあるエレベーターが開きました。  その中には、手すりにつかまりながらなんとか立っている佐伯さんと、その女性のものであろう荷物をもった看護師。 「ヒロシ、迎えに来てくれたの?」 「うん。約束してたから」  短い会話でしたが、それだけで二人の間で交わすべき言葉は全てでした。 「ありがとう」  女性は『呪いの』車椅子に安心しきった様子で座り、その様子を付き添いの看護師がぎょっとした目で見ていますが、二人はそんなことを気にとめてもいません。 「その車椅子、お気に入りかな?」  新見先生が聞きます。 「えっ?」 「いつも、エレベーターの前に置いていくから」 「そうなんですよ、先生。『この車椅子が一番綺麗だから』ってね。たくさんある緑色の中からいつもこれだけうまく見つけるんです」 「全部緑色なのに、よく分かりますね」 「ええ。毎朝、学校に行く前にコレに乗せて散歩に連れて行ってくれて……」 「だって母さん、暇だ暇だって言うから……そうするしかないじゃないか」 「学校が休みの日は、お昼も連れ出してくれるんですよ。まあ、がんばったら歩けますし、病室に行くまでは徒歩の方が行きやすいから毎回、病室に戻る前にここのエレベーターの前に置いていくんですけど……」 「母さんに付き添って病室まで行った後、いつも帰りにこの車椅子を片づけようと思っているんですが……何故か決まって、消えているんです」  それは私が片づけているからですよ、男子高校生くん。 「不思議だねぇ、っていつも言っていて」 「不思議な車椅子よねぇ」 「そ……」  それは皆から避けられているから使用頻度が低い故に綺麗なのであり、不思議のカラクリは目の前にいるこの私ですよとそこまで直球を投げようとは思っていませんでしたが、それに近いことを言おうと開いた口元を先生に塞がれます。 「もが」 「それは、不思議ですねぇ。でも、病院ではよくあることです」  親子はその現象に特別思い入れを持っていなかったのか、『不思議』の一言でそれを片づけてしまいました。それよりも、退院するというその一点がたまらなくうれしいようです。 「先生、お世話になりました」 「僕は、なにも。他の科の先生に、同じ言葉をかけてあげてください。なにか違和感があったら、すぐにまた来てくださいね」 「母さんにはもうあんまり、来てほしくないけど」 「そうね、ありがとう」  そんな、お決まりの別れでした。  息子さんは件の黒い車椅子を押して、ゆっくりと出口へ向かいます。 *** 「結局先生は、最初からわかっていたんですね」 「まぁね。香住くんから聞いた話と、自分が他科から受けていた依頼と、あとは患者さんからの話を聞いたらすぐにつながったよ」  カタカタと電子カルテを操作して、先ほどの佐伯さんのカルテを開くとびっしりとした書き込みの真ん中辺りに、赤字で『息子さんが車椅子で散歩に連れて行ってくれる』と書いていました。そして『自身・息子に色覚異常の既往』とも。 「一見してどうでもいいことでも、俯瞰で見ればつながっているってこと、あるよね」 「まあ……今回はちょっと偶然が重なっただけのような気がしますけど」 「偶然も、結果的には必然になるのさ。無駄なことなんてないんだから。……ねえ、香住くん」 「はい」 「あの親子のこと、かわいそうだと思うかい? 黒と緑を見分けることのできない、色覚異常の親子でさ」 「……どんな障害であれ、それをつかまえて『かわいそう』だなんて感情を抱くのは、医療従事者として失格だと思います」 「失格とは、なかなかはげしいね」 「本心ですから」  私はきっぱりとそう言い放ちます。  他がどれだけブレても、これだけは私の曲げられないところだからです。 「そう。……それなら、これからも安心して一緒に仕事ができるよ。特に色覚異常はパッとみてソレとわかる症状じゃないから、なにも知らなければきっと彼らはこれからもこれまでも『フツーの』人間として生きていけるし、周囲もそう扱うだろう。でも、ひとたび『障害』というものを付加されてしまったら、全てがこれまで通りとはいかない。選択次第では人生において『障害』ではない『障害』をわざわざ暴くような色覚検査を廃止した過去は、間違いじゃあないのさ。ただ、間違いじゃないってことはつまり正解でもない。その結果が、検討はずれの努力になってしまうんだから。今回、色覚検査が復活したけれど、それが過去の二の舞にならないようにきちんとした教育がされることを祈るよ」  先生は空っぽになったカップを差し出して、コーヒーのおかわりを無言で私に要求します。 「色覚異常は『障害』なんかじゃなく『個性』だと、そんなふうに皆が思えるようになってくれたらいいね」  だから私も、無言でその要求を受けました。 「香住くん? ストップストップ!!」 「え?」 「危ないな〜。もうちょっとでこぼすところだよ」  気を利かせてポットごとコーヒーを持ってきて淹れようとしたつもりが、目測を誤って机に飲ませるところでした。  咄嗟の機転でカップをずらした先生のおかげで、なんとかコーヒーは零れずにすみました。 「あれ……おかしいですね」  確かに、カップに注いだはずだったのに。 「大丈夫? 香住くんこそ診察受けた方がいいんじゃない?」 「検診なら毎年受けてますけど、どれもA判定ですよ」 「家族歴とか、わかる?」 「ちょっとわかんないですね。そういうことを話す前に亡くなってしまったので」 「死因は何だったの?」 「なんか、先生かなりグイグイきますね……」  今まで、ちょっと私を知っている人なら家族の話題になると皆一様に避けてくれました。それこそ過剰なほどに。  私としては、そんなに気にしなくてもいいのになぁと思っていたので別に構わないんですが。 「えっ? あ、ごめんごめん……なんかまだ、あやかしあばきモードだったのかもしれない」 「あやかしあばき?」  聞いたことがない言葉です。  眼科用語とは思えないですし、先生の造語でしょうか。 「今みたいな、妖しい事件を解決するときにそうやって呼んだ人がいたんだ」 「ふぅん……そうでしょうね。先生が名付け親ならもっと語呂が悪いでしょうし」 「香住くん、怒らないでしょ。謝るからさ」 「別に怒ってないですよ。みんな、ガンです。悪性新生物といった方が医療関係者っぽいでしょうか」 「さすが日本の死因第一位だねぇ」 「こうも身近にあると、さすがにテストで間違いませんでしたね」  やっぱり先生は、ちょっと変わっています。  少しだけピントのずれた会話を楽しみながら、そんなことを思いました。 「今度さ、香住くんの眼を見せてよ」 「何故ですか?」 「眼の奥を見ると、脳腫瘍があるかどうかわかる場合があるんだ」 「イヤですけど」 「なんで!?」  診察中の全知全能みたいな先生と、外を歩く時の無愛想の塊みたいな先生と、私の言葉で一喜一憂する子供みたいな先生。  どれも同じ人間だなんて、なんだか少し面白いです。  私は自分の生い立ちが同情される物だとわかっていたから、必要以上に家族のことを他人には話しませんでした。でも、ひょっとすると誰かに聞いて欲しかったのかもしれません。  一緒に退院していった佐伯さんと息子さんを見て、私も兄の退院を出迎えてあげたかったな、という気分になりました。久しぶりに、思い出しました。  悲しいことがあっても毎日の仕事は待ってくれないので、葬儀の後はできるだけ思い出さないようにしていたことでした。 「冗談です。いつでも診てください」 「ほんと? 詳しくみようと思うと時間がかかるから、また診察が早く終わりそうな時に頼むよ」 「はい」  机への落下を防ぐために中途半端に入ってしまったコーヒーを飲み干したので、そろそろ先生との雑談もおしまいの合図です。私は検査機械たちに埃除けのカバーをかけてまわりました。 「……どんな障害であれ、それをつかまえて『かわいそう』だなんて感情を抱くのは、医療従事者として失格、か……」 「私がさっき言った言葉ですね。それがどうかしたんですか?」  新見先生は、コーヒーがカラになったのにも関わらず診察室の椅子に座ったまま私の動きを眼で追っています。もしかして、まだコーヒーが欲しいのでしょうか。 「いい加減、コーヒーはもう止めておいた方がいいですよ」 「コーヒーじゃないよ。香住くんがそういう心づもりなら、僕の病気を知ってもたぶん『かわいそう』とか言ってくれないんだろうなぁって思って」 「言って欲しいんですか?」 「いいや」 「何の病気か、教えてくれるんですか?」 「いいや」 「じゃあ、せめてどういう疾患かヒントをください」 「え〜……やだ」  なんだこの人。  やっぱり、お医者さんってどこか頭の螺子が外れている人が多いですね。  バカと天才は紙一重、か……。  医師としての新見先生のことは尊敬していますが、プライべートではまだまだ知らないところがたくさんありそうです。  たった二人だけの眼科ですし、ちょっとずつでも知っていけたらいいと思います。  と、いうかちょっとずつじゃないと、私が消化不良を起こしそうです。 「……そうやって、他人の言葉を一瞬で一言一句間違えずに覚えるところを見ると、本当に先生って頭が良いんだなって思います」 「えっ? 褒めてる?」 「もちろん」  本音半分、嫌み半分でそんなことを言ってみたら、先生はまんざらでもない様子でうれしそうな顔をしていました。  素敵な表情だから、ずっとその顔で居ればいいのに。  もったいない人ですね。
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