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第3診 大鏡のノッペラボウ
【鏡の中のノッペラボウに話しかけられても、答えてはいけない。帰れなくなるから】
この、色々突っ込みどころのある警告は、この病院に伝わるいくつかの怪談のうちのひとつです。
ノッペラボウなんて、病院のどこで出会うというのでしょう?
そもそも、どこの鏡?
もし出会ったとしても、そんな危険人物は即・通報です。
でも怪談というものは、そういうものなのかもしれません。
コレコレこういう理由で、だからこうなりましたっていう怪談は、実は本当に起きた事件なのかもしれませんね。ノンフィクションとするとあまりにも生々しすぎるから、あえて嘘を織り交ぜるのです。
本当のところはわかりませんが、遭遇してしまったのでお話することにします。
***
その日は、新見先生の手術が長引いていました。
もともと厄介そうな患者さんで、手術室に入る前から先生に「長引くかもしれない」という言葉はいただいていましたが、あと三時間ほどで今日という日が終わろうとしています。
手術助手は手術担当の看護師が担うのですが、手術後のケアは私の仕事です。
なんとか欠伸をかみ殺して外来で待っていると、内科の看護師友達が私を訪ねてきました。
「莉亜!」
下の名前で呼ばれるのは久しぶりだったので、一瞬、反応が遅れます。
彼女は山之内瑠衣子といって、専門学校からの友人です。長いポニーテイルがよく似合う彼女ですが、仕事中は邪魔になるのでネットの中にくるくるとまとめられています。
「どうしたの? こんな時間に」
日勤ならばもうとっくに帰宅している時間帯です。何か用事があるのなら、あらかじめ携帯電話に連絡のひとつでもいれるでしょう。
「ちょっと、仕事が長引いてね。エレベーターに乗って帰ろうと思ったら、眼科の明かりがついていたから。莉亜がいるかと思って」
眼科はエレベーターのすぐ隣にあるので、こういうことがよくおきます。
内科と眼科、ふたつはさほど共通点がないように思えますが、眼は血管の集まりなので血圧などの内科的変化は案外、瞳と直結しているのです。
「まだかかりそう?」
「うん、たぶんね」
「新しい先生とうまくやってる? アタシ、何度か内科を受診しにきた患者さんを眼科にまわしたんだけど、みてくれた?」
「うん。糖尿病の患者さんと、バセドウ病の患者さんでしょ? 糖尿病の方は出血してたからレーザーして、バセドウの方は甲状腺眼症状で眼が飛び出してたから……」
「あー、ストップストップ。一気に言われても分かんないわ。また教科書片手に聞きにくるから、まずは新見先生のこと教えてよ」
瑠衣子は学生時代から、無類の噂話好きです。
そのうえ恋の話が大好き。初対面では彼女とあまり接点がないように思いましたが、意外と気があって今でも友人関係が続いています。
「先生については、うーん……そうだなぁ……。おもしろい先生だよ」
「へぇ、どんなふうに?」
「どんなって改めて言われると……難しいんだけど。ええと、そうだね……あ、病院ってさ、不思議っぽいことよく起こるじゃない?」
「うん、まあ大体、全然不思議じゃないけど。病院って存在そのものが、きっと人を不安にさせるのね」
「でも、これまでは『そういうものか』と思って、その不思議は放っておいたの」
「まあ、普通は無視するわね。そんなことより、仕事があるもの」
「そうそう。幽霊かな?って思うことはあるけどさ、死んでいる人間に構う暇なんてないって思ってた。仕事の邪魔だって」
「病院勤めの子はみんな、そんな感じよね。よくドラマで看護師がキャー!って怯えているけど、現実はキの字も言わないわよ。叫んでいる暇あったら、安全確認に走るわ」
「頼もしいね」
「莉亜も、外来じゃなくて病棟勤務になったらそうなるわよ。……それで、その新見先生は『そういうもの』をどう処理してるの?」
「それがね、ちょっと話を聞いただけで、それがどういうことなのかズバリ当ててくれるの」
「なにそれ。名探偵じゃん。あ、もしかして……最近、六人部屋にでる七人目の亡霊の噂や、手術室の透明人間の謎を解決したのって新見先生だったの!?」
合点がいったとでも言うように瑠衣子はポンと手を叩きました。
「そうだよ。瑠衣子、知らなかったの?」
「噂は聞いてたけどさぁ。最近仕事が忙しくて、ロクに収集できなかったんだよね。あのさ、アタシのところの神宮先生って知ってる?」
「うん、内科の先生だよね」
「その神宮先生、なんと新見先生の幼なじみなんだって!」
「えっ!? そうなんだ……」
「新見先生って、変な時期に赴任してきたでしょ? てっきり、前任の古川原先生の体調の関係だと思ってたけど、どうやら違うみたい」
「どういうこと?」
「新宮先生も詳しくは教えてくれなかったんだけどね。キミに話すとすぐ広まるからって。失礼しちゃうわ」
いや、それは神宮先生が正しい……と言う代わりに頷きながら微笑みます。彼女は悪い人ではないのですが、話す内容を選ばないといけません。
「新見先生は、神宮先生の紹介でこの病院に来たのは確かみたいね。それで、色々神宮先生から話を聞いてたら、最近の怪事件を解決しているのは多分新見だろうって言うからさ。そんな先生なら、こんな話も解いてくれるかなぁ?って」
「どんな話?」
「大鏡のノッペラボウ」
「【鏡の中のノッペラボウに話しかけられても、答えてはいけない。帰れなくなるから】ってやつ?」
「そうそう。その話を聞いたとき、どこの鏡のこと?って思わなかった?」
「うん、思った」
「あれね、エレベーターの鏡のことみたいね。病院のエレベーターには大きな鏡がついているでしょ? あの鏡は、本来車椅子の方が後ろを確認して自力で降りやすいようにするためのものなんだけど……夜、ひとりでエレベーターに乗っていると鏡の中にノッペラボウがいて、話しかけてくるんだって」
「それ、どのエレベーターか決まっているの?」
「さぁ? どれでもいいんじゃないの? きっと、どのエレベーターか……よりも夜に・一人でっていう条件の方が重要なんだと思うわ」
「ふぅん。でもそれって、ただのウワサでしょ? 新見先生が解決してくれるのはそういう眉唾なオカルト話じゃなくて、ちゃんと現実に起きたことなんだけど……」
「それが、現実に起きたのよ」
「え?」
ニヤリ、と瑠衣子は口元を歪ませます。
「知り合いの事務さんがね、残業して帰るときに……出会ったんだって」
「……ホント?」
「ホントか嘘かは、証明できないけど。事務員さんを信じるなら本当ね。鏡の中から真っ白い顔のノッペラボウが見つめていて、そして何かを語りかけてきたって……」
「ちょっとまって、ノッペラボウなんだよね?」
「そうよ」
「ノッペラボウっていえば目も鼻も口もないはずだけど、どうやって喋ってるの?」
「それは知らないよ。有名な『それは、こんな顔かい?』って脅かしてくる元祖のノッペラボウの方だって、どこから発声しているのか明かしていないんだから、そこはいいんじゃない? ……それで、その事務さんは例の警告を思い出して、絶対返事をしちゃダメだ! って思ってすぐにエレベーターを降りたって言っていたわ」
「返事をしなかったから、無事に降りられたってこと?」
「そういうこと。まあ、それだけの話なんだけどね。実際に見たってヒトがいるってことはなにか仕掛けがあると思うんだけど……ねえ、まだ新見先生は帰ってこない?」
「無理だと思う」
「そっかあ……」
「ねぇ、いいの? 瑠衣子」
「なにが?」
「だって瑠衣子、今からそこのエレベーターに乗って更衣室に行くんでしょ?」
私は眼科のすぐ隣にあるエレベーターを指さします。
「こんな話をして、よく怖くならないね」
「まぁ、看護師だし」
看護師の全てにオカルト耐性がついているわけでもないと思うのですが。
「じゃあ、そろそろ行くわ。新見先生にも伝えておいて。もし分かったら教えてよ」
「うん、おつかれさま」
「そっちもね」
そう言い残して、瑠衣子はエレベーターへ姿を消しました。
その後……彼女の姿を見た者は誰も……と言いたいところですが、瑠衣子は普通に次の日も出勤していました。
大変だったのは、私です。
そろそろ日付も変わろうかという頃にやっと手術の終わった患者さんと先生を労って、一通りの処置をした後にさて帰ろうかとエレベーターに乗ったところ……いたのです。
鏡の中に、ノッペラボウが。
話に聞いてイメージしていたものとは少し違っていて、車いすに乗っていましたが確かにノッペラボウでした。
「あの……」
耳に届いたのは、地を這うような地獄のデスボイスでもなければ消え入りそうな掠れ声でもありませんでした。
どちらかというとしっかりした、女性の声です。
彼女は入院着に身を包み、そして車椅子に乗っていました。
最初、エレベーターに乗り込んだときに先客がいるなぁとは思っていました。
こちらに背を向けた状態ということは、自分で車椅子を押して乗り込み、そして降りるときには鏡を見ながら動かすのでしょう。
私は彼女の邪魔にならないようにそっと出口近くに身を寄せます。
その時、エレベーターの降りる階を示すランプがどれも灯っていないことに少しだけ違和感を覚えましたが、私は自分が降りるべき更衣室のある階を選択しました。
エレベーターが上昇する中、ふと視線を感じて鏡に目を向けると、そこには顔のパーツがなにも見あたらない女性がいたのです。
一瞬、ギョッとして全ての思考が止まります。
さっきまで瑠衣子と話していた怪談の内容そのままで、仕事中にお喋りをしたことを激しく後悔しました。
確か、ノッペラボウと会話を交わしてしまうともう降りられなくなってしまうんだとか。
まさか、そんな。
大体、降りられなくなったのならその人はどこに消えるというのでしょう? 全く、非現実な作り話です。そんなありきたりな怪談話なんて……と笑っていたのですが、実際目の前にしてみると「頼むから話しかけてこないでくれ」という願いで頭の中がいっぱいになります。
「看護師さん」
私は看護師です。
それは、身を包んでいる白い制服を見れば分かります。
もちろん病院には看護師以外の職員もたくさんいますから、職業によってその服装は細分化されていますが患者さんにとって「制服っぽい服を着た」、「女性」は全て「看護師」なのです。
患者さんが病院で看護師に声をかけるとき。
それは、困っているときです。
同じエレベーターという空間にいるノッペラボウが果たして患者なのかどうかはわかりませんが……。
誰もいないのに、いきなり鏡の中からノッペラボウに話しかけられたら、流石の私も一目散に逃げ出します。
でも、彼女はおそらく、生身の人間です。
実体のない恐怖から凝視することを避けていましたが、思い切ってゆっくりと振り返り、薄目で鏡に目を向けました。
見れば見るほど顔にあるべきパーツが見あたりませんが、それでも口にあたるであろう部分をもごもごと震わせて、さらにノッペラボウは続けます。
「ちょっと、お聞きしたいんですが」
えぇい、これでホンモノの幽霊だったら承知しないぞ!
病院で看護師が患者さん(らしき人)に話しかけられては無視ができないという習性につけ込むなんて、なんて卑怯な幽霊なんだ! そんなんだから、幽霊になるんだからな! なんて、的外れな悪態を心の中でつきながら表面上は朗らかな笑顔で応えました。
だってもしも、これがホンモノの患者さんだったら一大事です。
私たち、死んでいる人間には厳しいですが生きている人間にはやさしいのです。
だって、そういうお仕事ですから。
きっと彼女がぐちゃぐちゃのドロドロで頭もないようなザ・幽霊みたいな状態で私の目に見えていたら、たぶん見なかったことにしていたでしょう。
じゃあノッペラボウならいいのか? と聞かれるとその線引きは非常に曖昧ですが……きっと、本当に困っていそうなら私たちは足を止めてしまうと思います。
それが、生きている人間のSOSである可能性があるのなら。
「ど……どうされましたか?」
少々ひきつった顔でそういうと、ノッペラボウも私を振り返りました。
一瞬で全身の毛穴が開き、そして閉じていきます。
ノッペラボウは口元に手をやり、そうしてずるりと皮をずらして、明瞭な発音で言いました。
「B病棟って、どこですか?」
***
「それで、病棟まで案内してきたの?」
「はい」
次の日、寝不足の目を擦りながら出勤した私は、診察時間終了後のコーヒータイムに一連の出来事を話しました。
結局、私が昨夜出会ったノッペラボウは……。
バセドウ病による甲状腺眼症の手術痕のために大きなガーゼを両瞼につけて、マスクをした色白の患者さんだったのです。
手術後、眠れなくてこっそり車椅子で散歩をしていたら帰り道がわからなくなった、昨日も同じようなことがあった……と言っていたので、きっと瑠衣子の話の正体もこの人でしょう。
若い女性だったので、すっぴんをさらすのはちょっとね……という理由でマスクを深くつけていました。
消灯後の勝手な一人歩きは控えていただきたいのですが、健康な人間にとって「安静にしていろ」というのは却って過酷を強いる場合もあるので、あまり強くは言えません。
ここで強く注意した方が看護師らしいのかも知れませんが……人には色々な事情があるので、そこまで厳しくなれないのです。
私は正体を知ったことで安心し、彼女の車椅子を押してお目当ての場所まで案内しました。
その結果、帰宅時間がさらに遅れてしまったので怪談の中の忠告は当たらずとも遠からず……といったところでしょうか。
まあ、患者さんのために帰宅時間が遅くなるのならばそれは本望なので、別に私は構いません。
「その患者さん、前に内科から紹介されてきた方だよね?」
「そうです。甲状腺眼症で……」
私と同じく、昨日は夜遅くまで手術室に入っていた先生も大きなあくびをしながらカルテ庫のカルテの背表紙を指でなぞりました。
「お名前、分かるんですか?」
「自分が手術した患者さんぐらい、わかるよ」
私も一緒にカルテを探します。
「香住くん」
新見先生は、私が探していた場所のすぐとなりを指さして言いました。
「そこだよ。そこ」
「え? あっ、そうだこの方ですね。ハイどうぞ」
「ありがとう。ねぇ、もしかして香住くんってしっかり者にみえてうっかりさんなの?」
「どうしてですか?」
「しょっちゅう物にぶつかったり、すぐ隣にあるものが見えなかったりするじゃない」
「そうですね。誰かさんが真面目に仕事をしてくれれば、心労が減って仕事に集中できるかもしれません。今日だって、また猫を追って……」
「あー、そうだそうだ、バセドウ病の患者さんだったね」
小言が始まりそうな気配を察知してか、新見先生はわかりやすく話を逸らしました。
「バセドウ病は自己免疫疾患なんだけどね、患者全員に眼の症状がでるというわけではないんだよ。バセドウ病全体の30パーセントに眼症状が出て、顕著に眼にくるのが大体10パーセントってとこかな」
「なんでしたっけ、眼が飛び出る……眼球突出っていう状態になるんでしたっけ」
「飛び出た眼は治療が進むと自然治癒する場合もあるし、しない時もある。基本はステロイドやボツリヌスで治療するんだけど、それでも症状が強い場合はオペになるんだ。飛び出た眼を引っ込めるために眼の中の圧力を下げたり、腫れたまぶたの脂肪を切除したり」
「結構、甲状腺ってお顔に出ますよね……」
「若い女性には、つらいだろうね。だから今回オペになったんだ」
手術前の患者さんの写真は、片方の眼が大きく見開いて、反対側の瞼が下がって見えています。別にコレは瞼が下がっているわけではなく片方の眼の瞼が突眼により後退してるのです。
「後退した瞼を下げるオペをしたんだけど……僕は眼科医であって整形外科医じゃないからね。特に女性だし、本当に気を使ったよ〜」
先生は手術を思い出したのか、目頭を押さえる仕草をしました。
「あとね、これはでる人とでない人がいるんだけど……『周期性四肢麻痺』といって周期的に手足が動かなくなる症状も現れるんだ。黄色人種、つまり僕たちに出やすい。だから、車椅子に乗っていたんだと思うよ」
新見先生はカルテの内容を読みながらノッペラボウの謎を次々解き明かしていきます。
「バセドウ病は、レントゲンにも映らないし普通の血液検査でも分からないんだ。甲状腺ホルモンの値は、通常調べないからね。ただ原因不明のだるさが続いて、内科に行っても点滴か筋肉注射しておしまい、ってのがよくある。そうして病気が見過ごされて、重症化してやっと……とならないように、僕たちも眼を光らせていたいね。眼症状に出れば、かなり顕著に分かるから」
「眼はいろんな病気のバロメーターなんですね」
「眼に限った話じゃないよ? 舌も爪も耳も鼻も歯も皮膚も、全身が体内構造の精密なバロメーターなんだ。それを忘れちゃいけない。目印をきちんと受け取らないから、不安な気持ちが『あやかし』を呼び寄せてしまうんだ」
読み終えたカルテを手渡されたので、元の場所へと戻します。
「身体はさ、いつだって持ち主にエスオーエスを出しているっていうのに、どうして僕たちはそれに気がついてあげられないんだろうね」
なかなか哲学的な問いかけです。
医療の限界、とでも言うのでしょうか。看護師も医師も、患者さんから見ればみんな同じなのかもしれません。ですが蓋を開けてみれば出身学校や経歴によってその知識はピンキリなのです。自分を卑下するわけではありませんが、専門学校卒の私と看護大学卒の看護師とでは、知識で及ばない部分もあるでしょう。
でも、それを言い訳にはしたくありません。
限りある命でも、いや、限りある命だからこそ。
いつだって勉強して知識を増やして、人のために役立てたいものです。
私は自分の家族を救えなかったので、余計にそう思います。
「……ま、人間ってマヌケだからさぁ〜」
結構真剣に考えて、言葉にしようとした瞬間出鼻を挫かれてしまいました。
「気づかなかったら、もう仕方ないよね」
「し、仕方ない……ですか?」
「うん。別に誤診を正当化するつもりじゃないけど、ある程度症状が進まないと分からない病変もあるし、見つかったところで治療法が分からないものもあるし……」
中身が半分以上残っているコーヒーカップを、先生は手の中でクルクル回します。いつ中身が飛び出て白衣に飛び散るかハラハラしていましたが、先生はすぐに飽きたのかソッとカップをソーサーに戻しました。
「全員を救う事なんて無理なのさ。医師は魔法使いじゃないんだから。だから僕は、自分の手の届く範囲にきた患者さんには全力で手を伸ばしたいと思っているよ」
ちょっと変人で空気が読めないところもありますが、やっぱり先生は医師として尊敬できると思います。
「……素敵ですね」
「そぉ?」
「私の家族も、先生に診てもらいたかったです」
「………」
先生の顔がスッと真顔になりました。
色素の薄い、茶色で大きな目が私を射抜きます。
言葉の真意を探られているようです。
いつもの調子で言ったつもりだったのに、妙に湿っぽくなってしまったのでしょうか。思いがけず流れた沈黙に戸惑っていたら、救いの声がかかりました。
「莉亜! おつかれさま〜」
瑠衣子です。その後ろには神宮先生もいます。
神宮先生は背が高くて身体もガッチリしていて、不衛生ではない程度にうっすら髭を生やしたダンディな方です。ずいぶん大人に見えます。……つまりフケ顔、ということなんですけど。
受付前に来ていた二人の元へ駆けつけると、早速身を乗り出すように瑠衣子が言いました。
「莉亜、新見先生にノッペラボウのこと聞いてくれた?」
「うん、正体も分かったみたい」
「新見! 俺もいるぞ!」
神宮先生の姿を認めると、モソモソと緩慢な動きで新見先生もこちらにやってきました。心なしか、少しイヤそうな顔をしています。幼なじみで同じ職場に勤めるぐらいだから、てっきり仲が良いのかと思っていたのに。
「お前、この病院でもあやかしあばきやってんのか」
「あやかしあばきって?」
「瑠衣子ちゃんが好きそうな、噂話の種明かしをするお節介のことだよ」
「そんな言い方はないだろう、神宮」
「だって本当のことだし」
ガハハ、と屈託なく笑う神宮先生を横目に新見先生は「デリカシーのない奴……」と呟きます。
いつも眠たそうにしている半分閉じた眼が、今にもくっつきそうです。
いや、新見先生も大概ですけどね。類は友を呼ぶって諺が、頭に浮かびました。
「あっ、はじめまして新見先生! ご挨拶遅れてすいません。アタシは山之内瑠衣子です! 神宮先生の看護師です! よろしくお願いします!」
「はい、よろしくね」
一瞬にして、私と最初に出会ったときのような完璧な笑みに早変わりしました。まったく、外面だけは良いんだから。
「ホントにお若く見えますね! 神宮先生と同い年だなんて信じられない!」
「えっ!?」
失礼ながら驚いてしまいました。
だって神宮先生はどう見ても四十代です。確か三十代のはずの新見先生と同い年なんて……。
「莉亜ちゃんまでそんな顔するのか……これだから新見といるのはイヤなんだ」
「それはこっちの台詞なんだけど」
向かい合って苦い顔をしている二人は、どう見ても先輩と後輩と言うか、兄と弟というか……そんな印象です。
「ねぇ、新見先生! ノッペラボウの話、聞かせて下さい!」
「いいよ、おいで」
よく見ると、瑠衣子は参考書の数々を抱えていました。
噂話が好きで好奇心が強く、そして勤勉なのは瑠衣子の良いところです。
さっき直したばかりのカルテをまた出してきて、机の上に広げます。
患者さんの名前を見て、神宮先生が「あっ」と声を上げました。
「なんだ。ノッペラボウって、俺が送ったバセドウの患者さんだったんだな」
「もう少し経過見ても良かったんだけどね。まぁまぁ症状も落ち着いてたし、手術適応の時期でもあったから。あとは本人の希望が強くて。術後は内科でフォローするんだろ? なにかあったらすぐに教えてくれよ」
「了解」
新見先生が友人に見せる顔が新鮮です。やっぱり私に対してはちょっと気を使ってくれているんだなぁ。
物わかりの良い瑠衣子に説明している様子を後ろで見ていたら、神宮先生に肩を叩かれました。
「莉亜ちゃん、ちょっといい?」
「はい?」
そのまま、勉強しているしている二人を残して診察室の外に連れ出されます。
「どうしたんですか?」
神宮先生とはあまり話したことがありません。
前任の古川原先生越しに何度かお会いしたことはありますが、二人きりはたぶんはじめてです。
新見先生より背が高いので、見上げないといけなくて首が少し痛いです。
「三ちゃん……いや、新見のことどう思う?」
「どう、って……。ええと、尊敬すべき先生だと思いますが」
「そういう建前抜きでは?」
「……童顔・マイペース・さぼり癖、ですかね」
神宮先生の気迫に負けて、先生相手には言わないようなことを言ってしまいました。あわてて口元を覆いますが、時すでに遅し。
でも神宮先生は、ホッとしたように顎髭を撫でました。
「だよな。いや、よかったよ。莉亜ちゃんが担当で」
「どういうことですか?」
「俺とアイツは幼なじみなんだけど、まぁ昔から変わった奴だからさぁ……」
「それは……ちょっと分かります」
「前の病院で、ちょっと色々あって。それで、俺が強引にコッチに引き抜いたようなもんだから心配でさ」
離婚だけが原因ではないのでしょうか。
もしかして、新見先生がかかっている病気の影響でもあったのでしょうか?
……色々邪推してしまいますが、ここは抑えます。
「アイツの病名聞いた? アイツは発症が遅くて、30歳超えるまで明らかにならなかったんだけど、病気だと分かったとたんに別れるって騒ぐ奥さんも奥さんだよなぁ。まぁ新見も病気を受け入れるまで結構荒れてたみたいだから、それで病院に居づらくなったんだよ」
せっかく抑えたのに、これで水疱に帰してしまいました。
「あの、新見先生の病名は私に言わないでください」
「なんで?」
「いま、私が生きているうちに先生の病名を当てられるかどうか競っているんです」
「なにそれ。莉亜ちゃん、変なゲームに付き合わされてるね」
神宮先生は撫でていた顎髭が2・3本抜けそうな勢いで吹き出します。
「私もそう思います……」
「なに賭けてるの?」
「賭け……?」
「ゲームには報酬が必要だろう?」
そんなこと、考えてもいませんでした。
「……ってか、生きているうちにってどういうこと? 莉亜ちゃん、もうすぐ死ぬアテでもあるの?」
神宮先生としっかり話すのははじめてですが、こんな調子ならきっと瑠衣子と気が合うことでしょう。
「そんなアテはないですけど。まぁ、単に短命の家系なので、それだけです」
「家族が短命でも、自分がそうとは限らないじゃん? 莉亜ちゃん若いんだし、もっとやりたいことをやるといいよ」
やりたいこと、か……。
ただ、親代わりだった兄を安心させたかった。兄が亡くなってそれが叶わなくなった今、私の望みは元気で笑って過ごすことだけです。兄がそう望んだから。
看護師の仕事は好きです。それを日々こなすことができれば、私は満足です。
結婚も出産も、私には縁のないことだと思っています。
だってそんな縁を結んだところで、大事な人を作ったところで、先に逝ってしまうのは私だから。残された人間がどれだけ辛いか、私はよく知っています。
「ところで、新見がなんの病気かっていうのは検討がついた?」
「さっぱりです」
「だよなぁ。普通に暮らしているぶんにはわかんないだろうし……」
なるほど、見た目で分かるようなものではないんですね。
「進行性の病気だけど、急変するものでもないし。アイツのじいちゃんも同じ病気だったらしいんだけど、かなり進行するまで気がつかなかったし……」
なるほど、慢性的で進行的で遺伝性の病気なんですね。
「でも、俺からヒントをだすわけにはいかないもんな!」
「はい、そうですね」
わざとかな? と思うぐらい白々しくてわかりやすいヒントの出し方でしたが、ありがたく受け取っておきます。
「新見の主治医がさ、古川原先生なんだよ。ずっと莉亜ちゃんと一緒に仕事をしてた」
「でも、古川原先生はもう引退されて……」
「身体は辛そうだけど、頭はしっかりしているだろ? 診察ぐらいはできるさ。近いうち、ここにも新見の診察に来るみたいだから、どうしても分からなかったら聞いてみるといいよ」
「ありがとうございます。なんだか……随分協力してくれるんですね」
「そりゃあそうさ。新見の秘密を共有してくれる人間が増えたら、アイツも自分の病気をもっと受け入れられるかもしれないだろ?」
ちょっとタバコの臭いのする白衣をバサリと翻して、神宮先生は窓の外へ視線を逃がします。
その横顔は、さっきまでのおちゃらけた様子からは考えられないほど友達想いの一面が見えました。
いつか全盲になる病。
新見先生がいつもと変わらず淡々とした様子で言うものだから、あまり深刻にとらえてはいませんでしたが、確かにその心中は察するに余りあります。
特に先生は眼科医ですから、治療法がないという事実が普通の患者さんよりも深く突き刺さったことでしょう。
「神宮先生は、お優しいんですね」
「優しいって言うか……幼なじみだからさ。昔から一緒だし。アイツが同級生と結婚したって聞いたときにはもう俺の役目は終わったなぁって思ってたんだけどなぁ〜」
「……もしかして、新見先生がバツイチだって噂の出所は……」
「俺だけど? そういうことはハッキリさせておいたほうがいいだろ! 次の出会いがあるかもしれないし!」
「そ、そうですか……」
やっぱり新見先生とは類友のようですね。
でも、全く悪びれずに軽快に笑う姿を見ているとなんだか憎めません。だから、新見先生とも縁が続いているのでしょう。
「だから莉亜ちゃんも、遠慮しなくていいからな!」
「何をですか?」
「アイツ、前の奥さんのことけっこう引きずってたけど、もうだいぶ吹っ切れたみたいだから!」
「……ハァ?」
「ああみえてマメだし優しいし、変人っぷりも慣れれば面白いぞ! ま、『あやかしあばき』はアイツの趣味みたいなもんだから、多めに見てやってくれ!」
ちょっとよく意味が分かりません。
どうやって処理をしようか考えていたら、話し終えたのかガラッと診察室の扉が開いて新見先生が顔をのぞかせます。
「オイ、神宮。余計なこと言ってないか?」
「まさか。お前のこと、よろしくお願いしていただけだよ」
訝しむような顔で神宮先生をにらむ新見先生は、年相応……ではなくまるで拗ねた子供のように見えました。
「……なんで笑っているのかな? 香住くん?」
「え? あ、えっと……新見先生に、良いお友達がいて良かったなぁって」
「そうだろう、そうだろう! 莉亜ちゃんはよく分かってるな!」
神宮先生はまた例のガハハ笑いをしながら私たちの肩をまとめて叩きました。内科医にしては不釣り合いな筋肉をもっている神宮先生に、加減しているとはいえ叩かれると一瞬息が詰まります。
でも、同じようにせき込んでいる新見先生を見ていたら、なんだか笑えてきました。
「あっ! ずるーい! アタシだけ仲間外れ!」
新見先生から借りた参考書を大事そうに抱えた瑠衣子が、騒がしくしていた私たちをみてプゥと頬を膨らませました。
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