第4診 わたしのだいじなカメレオン男

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第4診 わたしのだいじなカメレオン男

 子供のいる方は、我が子の言うことをどこまで信じるのでしょうか。   また、親である自分の言うことを、どこまで聞いてほしいのでしょうか。  『聞き分けの良いヨイコ』で居続けるだけでは、きっとこの世は生きにくいということぐらい知っているはずなのに、どうして自分の子供だけはソレで大丈夫だと思うのでしょう。  『お母さんの言うとおり』に毎日を過ごした、二人の子供を紹介します。 *** 「カメレオン男?」 「そう。最近ね、子供たちの間で流行っているんだって」    お昼休憩が一緒になった瑠衣子と食堂に向かい合って昼食をとっていたら、「そういえばさ……」といつもの噂話がはじまりました。 「ふぅん……。でも、そんなブームみたいに言わないほうがいいんじゃない? 変質者ってことでしょ?」  青ヶ森総合病院の食堂はそれほど広くありません、ランチもAかBかの二択しかないし、その上あまり美味しくないらしいのです。ご飯はパサパサ、卵はぐちゃぐちゃ、味噌汁はぬるい……と。  だから、職員の大半はお弁当を持参して持ち場か病院の売店で食べたりしています。  私は美味しいと思うんですけどね。安いし。瑠衣子にはよく味音痴だと罵られます。ひどいなぁ。 「うーん。それが、そうでもないと思うんだけどね。別に、子供に危害を加えるわけでもないし……ただ、過剰に子供や保護者が反応しているだけっていうか」  「カメレオン男っていうぐらいだから、身体の色でも変わるの?」 「そこじゃなくて。えーと……見た目がカメレオンみたい、ってことみたい。ホラ、これ」  どこで手に入れたのか、瑠衣子が学校で配られているらしい注意喚起のプリントをポケットから取り出して読み上げました。 「大柄な成人男性で……目がぎょろりと出ていて……。ん? これ、何かの病気じゃないの? 前に、バセドウ病で眼球突出していた患者さんがいたじゃん? 莉亜、心当たりない?」 「うーん……ないなぁ。瑠衣子こそ、内科でバセドウ病の治療をしている人の中で当てはまる人いないの?」 「ないない。そんなに特徴的な人なら記憶に残ってるって。あとの特徴はね、黒目が外側を向いていて……あっ、あはは!」  瑠衣子はイヤそうにパスタを巻いていたフォークを手放して、笑いだしました。 「どうしたの?」 「カメレオン要素あったわ。七色のパーカーを着ているって」 「それ、本人も分かってて着ているのかなぁ」 「いやあ、これは流石に趣味じゃないの? で、この人物は児童の下校時刻に通学路に出没し、不特定の児童に向かって襲いかかるような動作を……」 「ちょっと待って。危害、加えているじゃん」 「それがねえ、聞いた話だと、襲おうというよりもよろけてつまづいた先に子供が居たって感じみたい」 「誰から聞いたの?」 「神宮先生のお子さんだよ」  神宮先生は、瑠衣子が勤める内科の先生です。新見先生とは同い年の幼なじみらしいですが、まさか子供がいたとは……。 「あれ。知らなかった? 莉亜は古川原先生にべったりだったからねぇ。他科のことには興味ないかぁ」  そっか、新見先生はもう子供が居てもおかしくない年齢なんだな……。見た目が若々しいから、つい忘れてしまっていました。そういえば、私と同い年の友達も続々と出産しはじめています。私には、縁のない話ですけど。 「ハイこれ、あげる。また新見先生に『あやかしあばき』お願いしといて」 「ちょっと……!」  拒む間もなく、カメレオン男に関するプリントをポケットにねじ込まれてしまいました。 「もぅ、先生は眼科医だよ? 眼の病気が関係していないと解決できないよ。なんでも屋じゃあるまいし。それにこれは神宮先生のでしょ」 「神宮先生はゴミ箱に捨ててたからね」 「あっそ……」  ゴミ箱に捨てられていた物を拾ってくるのもどうかと思いますが。 「最近、古川原先生は元気?」  古川原先生は、新見先生が赴任するまでずっと眼科を担当していた医師です。  かなりの高齢で、もう診察を続けるのが困難だという理由で新見先生とバトンタッチしました。  私は看護師になってからずっと古川原先生だけについていて、そして古川原先生はとても博識で真面目だったので、大好きでした。  私は家族を早くに亡くしてしまっているので、写真でしか見たことのない祖父への憧れもあったのだと思います。  看護師になる直前に唯一の肉親だった兄を亡くしてしまっていたのですが、笑顔で乗り切ることができたのは古川原先生のおかげです。 「お元気そうだよ。たまに絵はがきが届くから」 「絵はがき! 古風だねぇ」 「それも、手書きの」 「あははは! おじいちゃん先生らしいや」  今日のA定食はなかなか当たりでした。  マツタケを模した椎茸や、カニにみえるだけが取り柄の蒲鉾を餡と絡めながら、レンゲでチャーハンをいただきます。  私はもう少しで食べ終わりそうですが、瑠衣子が頼んだB定食のパスタは半分以上残ったままお皿の上で干からびています。もう食べる気がないのでしょう。  私が最後の一口を食べ終わると、席を立つ流れになりました。 「ところで、新見先生はいつもどこでお昼食べてるの?」  学生時代からの付き合いなので、興味の向くままにポンポン話題を変える瑠衣子の癖にもだいぶ慣れたものです。  眼科と内科は近いので、途中まで一緒に廊下を歩きます。  一応、午前診午後診と区切ってはいるものの病院に休みはありません。看護師は常に交代で休憩に入って人を絶やすことはありませんし、先生も常にポケベルやPHSをポケットに入れていつ呼び出されてもいいような体制ですが、一応昼休憩という概念はあります。 「さぁ? 午前診の後はいつもカルテ整理をされているから、私は先に食堂に来てるけど……」 「手伝わなくていいの?」 「一人の方が捗るんだって」 「ふぅん……じゃあさ、今度食堂に誘ってみようよ!」 「話、聞いてた? 時間が合わないんだってば」 「でも、カルテ整理なんて毎日やるもんでもないでしょ? 患者さんが少ないときとかさ、莉亜から誘ってみたらどう?」  でも食堂のご飯は不味いと評判なんだけどなぁ。私は美味しいと思うけど、先生に不味いものを食べさせるのはちょっと気が引けます。どう答えようか迷っていたら、内科への分かれ道に来てしまいました。 「あーあ、午後診イヤだなぁ」 「瑠衣子まで新見先生みたいなこと言わないでよ。神宮先生はサボったりしないでしょ」 「先生は良いんだけど、内科っていろんな疾患の可能性を持っている人が集まるから、ちゃんと導いてあげないとって思うと気疲れするんだよね。患者さんをさばくのは先生だけど、やっぱりちゃんとサポートしたいからさぁ」  噂話好きでおしゃべりという一点をのぞけば、瑠衣子は本当に真面目でいい子です。  以前、新見先生に勉強を教わりに来た時に持ってきていた瑠衣子の教科書は付箋だらけでボロボロでした。  学生時代はわりと軽い感じだったと思うのですが、働き出して変わったのでしょうか。 「えらいねぇ、瑠衣子は」 「莉亜もえらいじゃん」 「そんなこと、あるわけないよ」  自分の人生を振り返ってみても、褒められるようなことは思い当たりません。ただ普通に生きて、普通に迷惑かけて、普通に笑って生きてきただけです。 「だって、利亜は……」 「え?」  瑠衣子が歩く度に揺れていたポニーテイルがピタリと止まりました。見知った友達でも、じっと顔を見られると戸惑ってしまいます。 「私が、なに?」 「いいや! なんでもない! 午後からも頑張ろうね〜」  思わせぶりな態度を残して、瑠衣子は足早に自分の持ち場へと戻っていきました。  ……なんでしょう。  ま、瑠衣子のことだから、多分どうでもいいことだと思います。 「……あれ?」  眼科の前で新見先生が患者さんとなにかを喋っています。まだ診察時間前のはずですが……。  仕事用の白衣を着ていないので、きっとフラフラしているところを捕まってしまったのでしょう。  外面の良さを発揮していまいますが、厄介な患者さんなのかしどろもどになっているのが遠目でも分かります。 「申し訳ありません、まだ午後の診察時間ではないので……」  極めて事務的に、患者さんと新見先生の間に入り込みました。  先生は見知った私の姿を見て、あからさまにホッとした表情をしています。  話していたのは四十代半ばぐらいの女性でした。  肩までの髪の毛先をキレイに外側にカールさせて、お化粧もバッチリです。どの角度から見ても死角がありません。根本から立ち上げられた前髪のおかげで、形のいいおでこがしっかりと見えました。 「ああ、ごめんなさい。私、多忙の身なもので。お医者様をお見かけしたので、つい声をかけてしまいましたの」  口元を隠しつつ笑う女性は、やけに丁寧な口調で続けます。  白衣を着ていない新見先生を見て医師だと思うなんて、なかなか見る目がある人なのかもしれません。 「小学校の定期検診で、まったくもって不可解な検査結果をいただきましてね。いえ、学校側の不手際を疑っているわけではありませんのよ? 私たちは善良な市民ですから、誰かに疑惑の目を向けるなどそんなことはいたしません。ただ、私の一人娘、もうすぐ誕生日を迎えますこの子の視力を大幅に低く申告されてしまって、困っておりますの。こんなに遠くのモノがよく見えるのに、0.05のD判定だなんて、おかしなことを言いますわ。前回の結果ではきちんとA判定をいただきましたのに。私の大事な一人娘は、これまでもこれからも、そして何事もA判定でいなければいけませんのに」  彼女の後ろには、小学生ぐらいのかわいらしい女の子が隠れていました。  子供特有の細くて長い髪を、芸術的な編み込みにして綺麗に頭の後ろで束ねています。  私は不器用で、ろくに髪型のアレンジもできないのでその見事な仕上がりに惚れ惚れしてしまいます。きっと、お母さんの手によるものでしょう。  毎朝、子供の髪を梳かしてあげてながらお喋りをする……いいですね。  素敵な光景だと思います。  ドラマの中だけの光景だと思っていましたが、現実にもあるのだと知りました。 「どうせ大したことではないのですから、お医者さまの大事な診察時間を煩わせることもないかと思っております。どうぞこの紙切れにA判定、と書いてくださいまし。学校に提出しなければいけませんの」  さぁさぁ、と迫ってくる患者さんに気圧されている新見先生をかばうように前に立つと、患者さんに負けず劣らずの丁寧な口調でもって診察時間前に待機する総合受付まで案内しました。 「いやぁ、参ったよ」  お母さんの姿が小さくなっていくのを目視してから、ふぅ、と細くため息をついて先生は私に小声で話します。 「お昼休憩中にさぁ、呼びかけられたもんだからうっかり返事しちゃって。てっきり、道にでも迷っているのかと思ったら学校検診の紙切れを出してきて『コレに記入してくださらない?』ってさ。いきなり言われても、なんのことだかさっぱり。話を聞こうにも馬鹿丁寧な口調で中身のない内容ばっかり話すし、もぅホトホト困っていたんだよ」 「よく、呼びかけに応じましたね」  先生、サボるの大好きなのに。  どうせ今日も時間ギリギリまで野良猫と戯れているんだとばかり思っていました。 「まあ、僕も道案内ぐらいならできるかと思ってさ。それに、名指しで呼ばれてしまったら振り返らないわけにはいかないだろう?」 「じゃあ、見た目で医師だと分かってくれたわけじゃないんですね」 「……そういうことだろうね。『ちょっといいかしら? 新見先生という方はいらっしゃる?』なんて聞かれたら『僕です』って言うじゃない? そしたらあのマシンガントークだよ」  へたくそな物真似をしつつ状況を説明してくれる先生に思わず吹き出しそうになったら、どこからか注がれる視線に気がつきました。 「あ」 「え?」  振り返ると、そこにはさっきのお母さんの娘さんが一人で佇んでいました。  なんともきまりが悪そうに、身体の前で両手を組んでじっとこちらを見ています。 「えっと……お母さんと、一緒に行かなかったの?」  さっきまでの先生との会話、絶対聞かれていたよなぁ……とおそるおそる声をかけてみると、その子は重い口を開きました。 「おかあさんに」  そして、うつろな瞳で言います。 「ついて行っても良いって……、言われなかった、から」  その言い方があまりにも平坦で、おおよそ小学生らしくなかったので私は先生と顔を見合わせました。  仕事柄、たくさんの子供と接する機会があります。  視力は、子供のうちに治療をしておかないと後から取り戻せないからです。  大人になってから(もちろん例外はありますが)身長が伸びないのと同じように、視力も成長期を逃すと発達しないのです。  そのために、学校検診という制度があるのですが……それをただの面倒な行事、としかとらえていない保護者の方は一定数、います。  それがこの子の親御さんなのかどうかは分かりませんが、このくらいの年齢の子供にしては生気のない表情に少々面食らっていると、先生が動きました。   「待っていれば、すぐ戻ってくるさ」  先生は意外と子供好きらしく、長身の膝を折って視線を合わせて微笑みます。  お得意の外面スマイルのおかげで、不安そうだった女の子の表情も少し緩みました。 「ねぇ、お名前教えてくれる?」 「ミライ」 「かわいい名前だね」  私も話に加わろうと動いたら、さっきポケットに突っ込んだプリントが落ちていったので慌てて追いかけます。 「あ、ごめんね」  私が拾うよりも早く、ミライちゃんはプリントに手を伸ばしました。 「これ、わたしも、もらった」  ここは田舎ですから、学区と年齢が近ければすべからく皆同じ学校になるのです。神宮先生のお子さんと、お友達だったりするのでしょうか。 「わたし、この人知ってる」 「えっ?」  プリントに記された奇妙な出で立ちの怪人物を愛おしそうに見つめながら、ミライちゃんはやっと年相応に笑いながら言います。 「いつもいっしょに、あそんでくれるの」  これはどういうことでしょう。  速やかに、しかるべきところに電話をした方がいいのでしょうか。 「わたしも、いつかカメレオンにしてくれるって」  言葉の意味を掴みかねて黙ったままでいると、ミライちゃんは『まだ自分が話しても良い』と受け取ったらしく、少しだけ早口になって言いました。 「そっ、そしたらもう……わたし、おかあさんと一緒にいなくても、いいよね」  確かにミライちゃんのお母さんは少々癖が強そうな印象を受けましたが、いったい何をすれば実の子供にここまで嫌われてしまうのでしょう。  きっとなにか、理由があるはずです。  隣に立っていた私より頭一つ背の高い新見先生の顔色をソッとうかがうと、先生は今まで私だって見たことがないような外面スマイルじゃない満面の笑みでミライちゃんに言いました。 「そうだね、ミライちゃん。おめでとう」  え?  その台詞はあまりにも場違いじゃないですか?   新見先生? *** 「例の女の子、結局来なかったねぇ」  点滴で使用した使用済みの針を片づけて、血液の付着した捨てるべきモノを廃棄ボックスにまとめていたら先生の声が聞こえました。  あの後、総合受付で初診だと長く待つことになると聞いたお母さんは「また後日」と帰ってしまったのです。 「……また来ると思う?」 「どうでしょうね。ああいうタイプは……もう来ないかもしれません。他の、待ち時間が短い眼科クリニックに行くと思います」  古川原先生と二人きりで仕事をしていた時も、こんなことは良くありました。  いっそ、身体の重篤な問題ならばみなさん這ってでも病院に来てくれるのですが、眼のことになるとどうにも意識が低い場合があるようです。  子供の目は、早期に訓練しないと一生視力が出なくなるのに。 「でも検査したら結局こっちに紹介されるんじゃないかなぁ。典型的な心因性視力障害の例だもん」  廃棄処理用のゴム手袋をくるくるとまるめて捨てて、しっかり手を洗った後にいつものコーヒーの支度をします。 「シンインセイ視力障害って……よくあることなんですか?」 「よくあるというか……その前に、それがどういう症状か覚えているかな?」 「はい。ええと……子供に起こる症状で、その……なにも異常がないのに異常があるようにみえること……でしたっけ」 「そうそう。理由は知っている?」 「えっ、理由? えっと……教科書的に言うと、精神的葛藤・欲求不満・心理的ストレスなどによって引き起こされるもの、でしたっけ」  古川原先生に教えていただいたことと、最近勉強したことを総動員して答えます。 「発症年齢は9歳がピークで、女児は男児の二倍、発症しやすいんですよね」  先生の机にコーヒーカップを置きました。適当なインスタントの香りが鼻をくすぐります。 「うん、正解。でも教科書の丸暗記だね」  完璧にキメたつもりでしたが、バレていましたか……。  そんな気持ちが伝わったのが、先生にクスクスと笑われてしまいました。 「すいません。……どうして、そんなに性別差があるんですか?」 「僕からはなんともいえないけど、きっと女の子の方が色々思い悩むことが多いからじゃない? どう? 女の子代表として、なにか思い当たることはない?」 「思い当たると言えば……思い当たりますけど。でも、私はそこまで悩まなかったですね」  そのあたりは、きっと個人差なのでしょう。 「ま、分かりやすく言うと原因は日常生活のストレスだよ。引っ越しが多かったり、両親が不仲だったり、過剰な期待を背負いすぎていたりすると誰にでも発症するんだ。『我慢強い良い子』が一番かかりやすいって言われているよ」  『我慢強い良い子』  まさに、ミライちゃんを表していると思いました。 「ミライちゃん、また来てくれるといいですね」 「その時は、僕たちで出来る限りのことをしよう」  先生のカップから立ち上る白い湯気を眺めていたら、フと思い出しました。 「カメレオン……」 「え? なに?」  今日の患者さんもまっとうな訴えばかりだったので、私が漏らした単語に新見先生は飛びつきました。 「確か、ミライちゃんもそんなこと言ってたよね」 「そうなんです。えっと……」  私はポケットを探って、瑠衣子からもらったプリントを差し出しました。 「カメレオン男、かぁ……。なかなか良いネーミングだね」 「そうでしょうか。まぁ、新見先生のセンスと比べると良いかもしれません」 「……香住くんって、本当に診察終わると僕に遠慮がなくなるなぁ……」 「気のせいですよ、きっと」  私はわざとあまり聞こえなかったフリをして話を続けます。 「どう思いますか? 瑠衣子が、また『あやかしあばき』して下さいって。でも、こんな眼科が関係なさそうな事件じゃ新見先生の出る幕も……」 「ん〜……どうかなぁ。確かに、専門外のことにあまり深く口出しはできないけど、物事は全部繋がっているからね」  新見先生は椅子に座ったままクルリと移動して、カルテ庫の背表紙を辿りました。 「紐解けば、必ずどこかが僕に繋がっているさ」  お目当てのカルテはなかなか見つからないらしく、新見先生の指は行ったり来たりしています。細いけれど、ゴツゴツと骨ばった男の人の指でした。ちょっと、亡くなった兄に似ているかもしれません。 「私も探しましょうか?」 「うん、助かるよ。鎌井戸さんっていうんだけど……」 「か、ですね。わかりました」 「……香住くん? それ、分かっててやってる?」 「え?」 「キミの指のすぐ隣に鎌井戸さんのカルテがあるじゃないか」  本当です。  全く気がつきませんでした。 「ねぇ、本当に早く検査受けた方が良いよ。視野狭くなってるって」  新見先生は立ち上がって、私のすぐ側にあったカルテを抜き取ります。新見先生の白衣からは、神宮先生のようなタバコの匂いではなくお日さまと野良猫の匂いがしました。これは……また今日も猫と戯れてきましたね。 「まぁ、近いうちに」 「いや、早い方が良いって。今日にでも検査しよう? 僕がやってあげるからさぁ」  そんなことを言われても、別に日常生活に困っていないのに検査してもらうなんて気が引けます。でもこのままでは、検査の流れになるな……と思っていたら胸元の電話が鳴りました。 「はい。眼科の香住です」 「あっ、内科の山之内です。瑠衣子、お疲れさま。今から一人、患者さんを紹介しても良い?」 「ちょっと待って。先生すいません、診察時間外なんですが、受けてもいいですか?」 「もちろん」 「大丈夫みたい」 「よかったー。甲状腺の患者さんなんだけど……」  私は内科の方から伝えられた情報を、手元のメモにまとめます。  他科からの電話というモノは、いつまで経っても慣れません。  ひどく重要なことを言っているはずなのに、病院内はいつもノイズがひどいのです。早いうちに支給品のこの電話を買い換えてほしいものです。 「どうだった?」  私はさっき瑠衣子から伝え聞いたことをそのまま話しました。  すると先生はピクリと眉を動かして、棚の中にある参考書を漁り出します。 「先生?」  お目当てのものを見つけたらしい先生はそのページに印をつけて、さっき出した鎌井戸さんのカルテを開けて、電子カルテも開きました。 「香住くん、よかったね」 「え?」 「心配していたミライちゃんじゃないけど、カメレオン男くんはちゃんと受診していたみたいだよ」 *** 「どうも。時間外にすいません」 「こ、こんにちは……こちらへどうぞ」       数分後に訪れてた患者さんは、まさに『カメレオン男』でした。  両目が大きく飛び出して、黒目は外側に向いています。  見た目のことはさておき、目に痛いぐらいの原色レインボーのパーカーに一瞬だけひいてしまいましたが、その後は普通に接しましたし患者さんも普通の方でした。  先生と何か言葉を交わした後、経過観察のための写真と点眼の処方をされてまた内科の病棟へ戻っていく姿を見送った後。 「香住くん」  先生に呼ばれて、診察室へ戻ります。 「さっきの人、ダルリンプル徴候が結構あったねぇ」 「だ、ダルリン……?」 「英語の綴りを言おうか? ディー、エー……」 「あっ、ちょっと待って下さい。メモするので」 「聞いたことはない?」 「試験勉強したときに、見た……かもしれません」 「ダルリンプル徴候はね、甲状腺の機能の異常で起きる。甲状腺は、喉にあるよね。そこの機能に異常が生じて、上瞼が後ろに下がってしまう状態のことを言うんだ。上眼瞼後退……と僕たちは表現するけどね。その他にも、瞬きが減ってしまうステルワーグ徴候とか、うまく寄り目ができなくなるメビウス徴候とかあるよ。……上瞼が後ろに下がるってことは、つまりどういうことだと思う?」 「ええと、うまく目を閉じれなくなるから……目が、飛び出ているように見えますね」 「そう。甲状腺の病気が続くと、目の後ろの組織が腫れたりして物理的に眼球が外に押し出されるように見えることがあるけれど……あのヒトはまだ、そこまでいってないね。うん、初期段階だ。神宮はいいタイミングで紹介してくれたね」  ちょっと瞼が後ろに下がっているだけで、他人に与える印象がこうも違うのか……と思いました。患者さん本人は、普通の人なのに。 「でも、あのヒトの本当の問題は甲状腺じゃなかったよ」 「えっ、どうしてですか?」 「僕は、彼の見た目を整えてあげることはできるけど……根本治療は難しいかもね」 「ノッペラボウの患者さんの時みたいに、手術じゃ治らないんですか?」 「あの人は両眼性じゃなくて片眼性だったし、それに他に眼の疾患はなかったからうまくいったんだ」  先生は、さきほど診察室で撮影した患者さんの写真を指さして言います。 「これ。瞼が上がっているからよく分かると思うんだけど……黒目の位置がズレていると思わないかい?」  写真は二枚ありましたが、右目がまっすぐ向いているときは左目が外を向いて、左目がまっすぐ向いているときは右目が外を向いていました。 「これは……以前、話していただいた幽霊自動車の方の状態に似てますね。あの時は上下のズレでしたけど」 「上下のずれがあるなら、左右のズレだってあるだろう? でもさっきの男性はね、子供頃に適切な処置をうけなかったんだ。メガネをかけるべきだったのに、親の方針でメガネをかけなかった。メガネをかけることを『かわいそう』って形容する大人も、まだまだ多いからねぇ」 「わかります」  古川原先生も、それによく手を焼いていました。『将来就く仕事が限られますよ』とか『モノが立体的に見えないと、遊園地の3Dアトラクションも楽しめませんよ』とか『今、メガネをかけるという頑張りが今後の人生に関わるのです』とか……。手を変え品を変え、脅したりなだめたりすかしたり……。 「ほんと、どう伝えたらいいんだろうね。……で、幼少期の訓練をサボったせいで筋肉の衰えが早くなって、自分でまっすぐにできなくなってしまったんだ。それが今、甲状腺によるダルリンプル徴候のせいで目立ってしまっている……といったところだね」 「メガネをかけないと、目が外れるんですか?」 「う〜ん。それは、難しい質問だね。簡単に言うと、外れるヒトもいるし、外れないヒトもいるってかんじ」 「よくわかりません……」 「ホラ、若いウチってさ、力があるでしょ? それは、 目も同じなんだよ。だから、少々視力がよくなくても目の本来持っている力でググッと見えてしまうんだ。でも、ヒトは必ず老いるよね? 筋肉は衰える。その時、ググッと酷使していた目が『もう、だめだー』って見ることをやめてしまうんだ。ソレを防ぐために、そうだね……『もう、だめだー』って目が訴える前に、メガネを使ってがんばらなくても見える状態をつくってあげる。『もう、だめだー』って目の筋肉が根を上げる前に『そんなにがんばらなくてもいいよー、休憩しなよー』って言ってあげるのが、メガネなんだけ、ど……ちょっと? なんで香住くん笑ってるの?」  ごめんなさい、限界です。 「だ、だって先生……ッ、っふ、ふふっ……『もう、だめだー』って言うときに声、高くしすぎですよ……目の声に気持ち入りすぎで……あは、あははっ」 「……モウダメダー」 「ふふっ! 分かってて、真顔で言うのやめて下さい……っ」 「心外だなぁ。僕は少しでも香住くんに分かりやすく説明しようとしてがんばっているだけなのに……」 「いや、それはよく分かります。本当にありがとうございます。でも以前、幽霊自動車のお話をして下さった時の『エイヤッ』ってかけ声も、相当笑いそうだったんですから……っ」 「エイヤッ」 「……んんっ!」  普段の淡々とした単調な声色からは想像もできないほどの剽軽な台詞にまた吹き出しそうになるのを、太股を強く捻ることでなんとかごまかします。 「おもしろいなら、笑っていいのに」 「……いえ、すいません。ごめんなさい。せっかく説明して下さっているのに、水をさしてしまって悪かったです」  こみ上げてくる目元の涙を小指で拭って、なんとかいつも通りを取り戻した私は改めて聞きました。 「……こほん。では、本来ならば幼少期に治療すべきだった目のずれが、甲状腺の病気によって強調された結果、カメレオン男なんて呼ばれるようになってしまったんですね」 「そう。あと、彼の趣味だね」 「趣味?」 「彼ね、学校の先生を目指す美大生なんだ。子供が好きで、絵が上手くて、そしてカラフルなものが好き。だから、つい一人で寂しそうにしている子供に声をかけてしまうんだって。それに、片目しか正面を向いていない状態だと遠近感覚が掴みにくいから、よろけやすいのもそのせいだろうね」 「……治らないんですか?」 「残念ながらね」 「どうしてもですか?」 「うん。まあ、彼にとってはもうそうやって目の位置がずれている状態の方が正常だから……別に不自由はないんじゃない? 親の言うとおりに過ごしてきた結果の現状を、彼はあっさり受け入れていたよ。あとは、周りがどう思うかだ」 「あ……」  瑠衣子から渡されたプリントを思い出します。  そこにはまるで、カメレオン男がとんでもない不審者のように書かれていました。 「毎度毎度、そうやってプリント刷られちゃたまんないよね。そういうヒトに一から説明するのもいいけどさ、まあ一番手っ取り早いのは、手術だよ。長い説明よりも、分かりやすく見た目に示した方が良い。彼にとって手術してもしなくても自覚が変わらないとしても、周りがそれで分かってくれるならきっとその方がいいんだ。ホラ、僕がレーシックの危険性をうだうだ説明するよりも伊達メガネをかけて『本当に安心安全なら眼科医はメガネなんてしませんよ』と言うのと同じようにね」 「わかりやすさって、そんなに大事ですかね……」  真剣な先生を笑ってしまったお詫びとして、新見先生にとっての適温を通り越して完璧に冷めてしまったコーヒーの代わりを淹れるために一度診察室を出て支度をしていると、診察室から先生の声が追いかけてきました。 「人生は、短いんだもの。しょうがないよ」 「じゃあ、さっきは手術についての相談をしていたんですか?」  コトン、と机の上に出来立てのコーヒーを置きます。  先生も、仕事モードを解除したいのか白衣を脱いで椅子にひっかけました。 「いいや。今はまだ、甲状腺を治すのが先決だからね。手術はその後、甲状腺が治まったら追々していくさ。甲状腺の治癒速度はヒトそれぞれだからね。今日は、ミライちゃん……だったっけ? その子について話をしていたんだ」 「ミライちゃん?」 「そう。あの子が言う『カメレオンさん』って言うのは諸々の条件から言って、彼のことだろうから」 「確かに……彼はどう見てもカメレオンですね」 「ミライちゃんとは、公園で出会ったんだって。習い事をサボってぼんやりしてるから、気になって声をかけたら話が合って、ミライちゃんが好きな絵を教えていたみたいだよ」 「それだけ聞くと、なんだか良い話ですね」 「だろう? それでね、ミライちゃんが言ったんだ。『わたしもいつか、カメレオンさんみたいになりたい』って。それを彼は、『大人になればなんでもできるよ』って意味を込めて『なれるよ』って言ったんだ。ミライちゃんはそんな行間なんてわからないから、そのまま『カメレオンさん』になれるって思ったんだろうね」 「なるほど……会話のすれ違いですね」 「ま、かわいいもんだよ」 「……あ。それじゃあ、先生がミライちゃんに言ったおめでとうって、どういう意味だったんですか?」 「ん?」  コーヒーが冷めるのを待つ間、手持ちぶさたにボサボサの細い髪をいじりながら先生は言いました。 「初対面の僕たちに母親の不満を言えるのならば、彼女が母親の呪縛から解放されるのもそう遠くない未来だと思ったからさ」 ***  数日後。  ミライちゃんは、お母さんと一緒に来院しました。  どうやら、違う眼科に行ったもののウチへ紹介されたようです。  二人の様子に特に変わった様子はありませんでしたが、すこしだけミライちゃんの目に光があったように思います。  視力検査をすると、ありえないぐらいの低い数値が出ましたが(1メートル先のテレビの字幕が読めるのに、手元の輪っかがどっちを向いているのか分からないと言ったり)、それも想定内です。    「あのね、お母さん」と先生がゆっくり話し始める声が診察室から聞こえます。  あの妙な気合いの入った『エイヤッ』さえでなければきっと、あのキャラの濃いお母さんにも伝わることと思います。  もし伝わらなかったとしても、何度だって伝えるだけです。  それが、私たちのお仕事ですから。
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