声にならない

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声にならない

 時は流れ、合格発表の日が近づいてきたころ、オーナーから直接話がしたいと連絡があった。彼女とカウンセリングを始めてからオーナーと話す回数が減っていたので少し驚いたが、快く返事した。ただ少し不思議だと思ったのは話し合う場所が駅の近くの喫茶店だったということだ。  店に着くとオーナーはコーヒーのおかわりを頼んでいたところだった。紙製のコースターのしわを見るに結構な時間がたっていそうだった。彼は少し厚ぼったい封筒を差し出して、こう切り出した。  「もう娘と会うのはやめてもらいたい。君には感謝している。本当に、だが私は君が恐ろしい。覚えているかい?常連のいつもカウンターの端に座っているあの方を。あの方はね、心理学の教授らしいんだよ。それで君のでたらめを教えてくれたんだ。教授も君のカウンセリングが成功していたから、このことを話すか相当悩んだらしいんだけどね。」 「わかりました。」 そう答えた後は、なにも言い出せない気がした。虚栄心から出たでまかせは、真実の前では無力だった。全身に汗がしみ出して、ペタリと下着が張り付いた。目の前に置かれた封筒に目が行く、少し透けてお札が見える。手切れ金ということか。後悔などない、悲しみなどない、心が芯から冷えていくように、何か大事な扉が閉まるような感覚があった。しまっていく感覚が。俺はつまらない男だった。でまかせを貫く勇気、あるいは逆上する覚悟さえ持ち合わせていなかった。ただただ、情けなくうつむいた。 「わかりました。ただ、このことは僕から言わせてください。」  あの横断歩道が見える中庭で静かに二人、ベンチに腰を下ろしていた。 ただ淡々と真実を告げた俺に、彼女は口をつぐんだままだった。今日まで15回も頭で彼女に伝える方法をシミュレートした。彼女が泣くのが5回。怒るのが0回。黙っているのが9回。残る1回は、隕石が地球に落ちてきてそれどころじゃなくなって、二人は一緒に地球を救おうとする現実逃避だった。 彼女がポツリと口を開いた。 「どうして…なんかついたの。…つき。…つき。どうしてよ。真さん。なんでよ。私はね、私は。」 呼吸のペースが乱れていた。息継ぎのうまくいかない彼女は右の一指し指を噛んで、こらえるように震えていた。俺には彼女を抱きしめる権利などなかったし、彼女が話すことのできない言葉が容易に分かった。彼女が言い出せない特定の名詞は”赤”だった。彼女が言いたかったのは、”ウソ”。真っ赤な”ウソ”。 「私にとっては、あなたが見返りなく助けてくれたのが嬉しかった。あなたの優しさで、私は大学に受かったのに!それを伝えたかったのに。ねえ、なんで、なんでパパにもう会わないって約束したの?…ついたっていいじゃない。過去に何があろうと、きっと私たちの気持ちが大事でしょ?」 悲痛な叫びが響いた。 「私ね、あなたに…されてると思った。家族以外の人に初めて…されているんだって。それでね、私こんなに仲良くなった男の人なんかいなかったからね、どうなのかわかんないけど、カッコつけた言い方になるけど、私ね、あなたのこと…してました。今でも私はあなたを…してます。」  そう言うと彼女は去っていった。彼女は不幸だ。言葉が足かせになっている。でもそれはきっと、思いを伝えられないというわけではない。まっすぐな強さを持った、むず痒くなるような言葉に突き動かされるように俺は本当のメッセージというものを感じた。俺が今、彼女を追いかけて…を伝えなければ、彼女は一生…なのかもしれなかった。
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