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 彼女にとって言語とはただの足かせだった。幼いころは活発で、よくしゃべりよく笑い、よく食べ、常に動きまわっていた。寝ている間でさえ、寝返りを打ち、可愛らしいいびきをかき、たまにベタな寝言で親を笑わせたのだったが、性格がずいぶん変わったのだった。  そんな彼女がまともに言葉を話していたのは、小学校の林間学校の時までだったと彼女の同級生だった新田さんが教えてくれた。行きか帰りか、はたまた遊び場へのちょっとした移動中か、完全には覚えていないそうだが、どうも 彼女の思いつめたような表情が目に焼き付いたらしく、今になってもその一景だけは心に残っているらしい。  「ダンっ。」 文字にしてしまえばあっけないものだが、その時の衝撃は小学生の乗せて田舎道を走るバスをパニックに陥らせるには十分だった。 「危ない。」   すでに接触してから、危ないと叫んでも意味はないのだが、とにかくバスの運転手にとっては冷静でいるためにはそうするほかなかったのだと思う。こどもたちを乗せている手前、「よくあることですから。」なんて言えなかった。もしかしたら、その正義感が災いしたのかもしれない。  運転手は急ブレーキをかけ、車体は大きくつんのめるように止まった。何とか道路内で無事止まることができたらしい。ハンドルを切ったのか、切って一度戻したのか、ずるずると横に滑るような衝撃がバスを襲った。進行方向に体の左を向けて、座席に横を向いて座り、生徒を気にかけていた先生が、バランスを崩して床に頭を打ち付けた。 打ち付けてもなお、「みんな大丈夫?」と生徒を気遣った先生は、しばらく痛みのため動けずにいたらしい。生徒たちはお行儀よく座って、シートベルトをしていたらしくけが人は出ていないようだったが、事故の衝撃と前の座席にぶつかった痛みと怖さに、震える生徒、泣く生徒、「怖かったよ」と言い抱きしめあう生徒とまさにパニック状態だった。  状態を抑えようと、運転手が 「もう大丈夫だよ。止まったからねー。」 と、何度も何度も叫び、鳴れない大声ですぐに喉がかれ、声も裏返っていた。クラスの人気者の男子は、 「先生、大丈夫?みんなは?もう止まったから!」 と、事態の収拾の手助けをしていた。彼は父親がレスキュー隊員らしかった。  そんな中、彼女は、つまり僕が恋している彼女は、バスの右の窓側に座っていて、車窓から右前方の何かの塊を見ていた。それはバスに衝撃を与えた、こどもの鹿だった。周りの生徒が泣き叫んだり恐怖に震えたりする中で、彼女は事故の衝撃で心の感覚がずれてしまったのか、無表情より冷たい顔で「…が流れる」と言ったっきり、口を開かなかった。  それ以来、彼女は笑顔を見せる回数が減り、活発さも失せ、暗い性格になり、特定の名詞を言うことを極端に避けるようになった。彼女が幸運だったのは両親がとてもできた方で、事故のショック状態の彼女をしっかりと支え病院に通わせながら大学に入れるまで育て上げてもらえたことだった。もちろん、彼女の努力はよくわかっているし、尊敬できる部分だと思っている。そして時折見せる笑顔に心奪われたのである。
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