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水は低きに流れる
オーナーからずいぶん信頼してくれたらしく、娘に例の小学生の時の林間学校でできたトラウマを事細かに教えてくれた。いろいろな医者に見せ、言語的にも彼女はずいぶん回復したというが、しかしながらある事柄の言葉だけは、声にならないという。精神的には全く負い目も感じていないし、むしろ向き合っていこうとする覚悟と強さが彼女にはあるらしい。だが、それでも無意識下で何かが…。本来はお客に話す内容でもないが、大分回復を諦めていたらしく、愚痴のように俺に語っていた。
「”無意識過程”という言葉がありましてね。」
また、付け焼刃のでまかせだった。
「苦痛をともなう記憶や願望は、知らないうちに我々の医師に反映されているということなんです。これは確か、フロイトが言っていたんですがね。」
思わせぶりにコーヒーを音を立てて飲むと、オーナーが替えのアイスコーヒーを注いでくれた。
「少し話させてもらえませんか?その、娘さんと。もしかしたら、何かの助けになるかも。」
いつしか雨が降り出していた。
それから、何度か彼女と話し、コーヒーやピザと引き換えにカウンセリングするようになった。行くたびに何個か新しい専門用語を仕入れ、適度に真実味を持たせながら話に盛り込んでいった。もちろんマジシャンから政治家、TEDなどで講演や演説の様子を観察し、仕草も真似ていった。ある時は身振りを大きく、ある時は眼鏡などの小道具を使って…、とにかく彼女と話せるのが楽しかった。心理学の話をしながら、彼女の身の上話を聞きながら、彼女に夢中になっていった。
ある時、帰り際にオーナーから「実は娘が夢ができたって聞いたんだ。君と同じ大学で勉強したいって、君のおかげだと思う。今後ともよろしくね。」と言われた。彼女は中学をほとんど通わずにいた後、高校に通わずに2年がたっていた。通っていれば高校3年になる今年、高卒認定試験を受けようとしていたものの、目標が定まらず困っていたところに俺がやる気に火をつけてくれたと、えらく感謝された。そうして、また俺の虚栄心に火が付き始めていた。
平日の祝日は、店内が空くためカウンセリングにもってこいだった。そして今回は、ちょっとしたサプライズがあった。
「あれ、真さん、今日は荷物が多くないですか?」
彼女が言う。
「そうだね、ちょっとプレゼントがあって。」
ドサッと音を立てたボストンバッグの中身は、俺が去年まで使っていた受験用の教材だった。
「実は、受験するって君のお父さんから聞いてさ。何か役に立てることがあればと思って。これは俺のお古なんだけど。」
「いいんですか?」
彼女は白い肌を際立たせる派手に赤いリップが塗られた口元を両手で隠すと、声にならない笑いを、吐息を漏らして、可憐な笑みを浮かべていた。あの虹の日の様な少しまぶしい笑顔を。
「ありがとうございます。私、今年は無理でも絶対、真さんと同じとこはいります。絶対!」
そう大見得を切ると、ペラペラ教材をめくり、次々に本を開いた。何の脈絡もなく色々な強化の本を開くのだが、どうもすぐに読みやめてしまった。
「正直、ちょっとだけうちの大学頭いいからさ、わからないことがあったらいつでも聞いてよ。勉強も見てあげるしさ。」
「いいんですか?でも、たぶん私、勉強できないから。」
「ううん。力になりたいんだよ俺が。」
かぶりを振ってこたえた。
彼女は頬を赤らめながらこっちを見つめ、パクパクっと口を動かして、少し間を置いた後、静かに下を向いた。一抹の落胆の表情だったと思えた。
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