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朱里街
朱里街とよばれる赤線地区がある。その名の通り、江戸末期から続く朱塗りの廓が軒を連ねる場所だ。僕は、カフェとなったその廓の一つに売り飛ばされた。
僕の値段は馬鈴薯一個。僕を買った茜さんは、この廓の娼婦だ。
法律上はカフェの女給さんで、自由恋愛という枠組みの中で男の人たちと関係を持つらしいけれど。そんな僕はというと、この朱里街に連れてこられてから、すっかりお腹の減ることがなくなった。
茜さんが、僕に三食美味しいものを食べさせてくれるからだ。鶏の卵が食卓に出たときには、それはもう驚いたのなんのって。
その代わり、僕は赤い服を着る。真っ赤な、女の子が着るワンピースだ。もちろん、男の僕がお客である男性たちと自由恋愛を楽しむことはない。もっぱら僕は給仕をして、茜さんのお客の話し相手になるのが仕事だった。
茜さんが他のお客を相手にしているあいだ、僕はお客さんの話し相手になる。不機嫌なお客さんを宥めてすかして、最後には、茜さんに教わった踊りを踊るのだ。
赤いワンピースを翻して、僕は踊る。茜さんと同じ踊りを。
ゆったりとしたステップで歩み、裾の先から見える筋張った足をゆらしながら、僕は男たちに流し目を送るのだ。
ごりくと、男たちが唾を飲み込む音が聴こえることすらある。でも、だれもそんな僕に手を出したりはしない。
男たちは、茜さんを見ているのだ。僕を通じて、この朱里街で一番の娼婦と言われる茜さんに熱い眼差しを向けるのだ。
「ごめんね、こんなことさせちゃって……」
仕事の終わる朝になる。茜さんはそう言って僕を抱きしめてきた。僕の長くのばした髪を優しく梳いて、茜さんは笑うのだ。
そんな茜さんの頬が、ほんのりと赤く染まっていることに僕は気がつく。また、気難しいお客に殴られたのだろうか。そのお客が許せなくて、僕は唇を噛んでいた。
「ちょっとね、お客さんと喧嘩しちゃた。別に、お客さんが悪い訳じゃないのよ。私が、悪いの……」
そういって、茜さんは胸元に吊るしたロケットを手にする。そこには、彼女の大切な人の写真が収められているのだ。
戦争でその人は行方知れずなのだと茜さんは言った。もう日本は負けて進駐軍がこの国を占領しているというのに、いまだに奪われた日本の領土で戦争を続けている人たちがいるのだ。日本は負けを認めたのに、一向に海の向こうから帰ることが出来ない人々もいる。
茜さんの旦那さんも、そうやって帰ってこない一人なのだという。けれどと彼女は告げる。
「きっといつか、義彦さんは帰ってきてくれる。私のもとへ。だからそれまで、私は汚い商売をしてでも、あの人の家を守らなくっちゃいけないの……」
そういう茜さんの眼は真摯な光を帯びている。その眼の光が僕は好きだ。人を導くかがり火のように、茜さんのという光は僕を導いてくれるから。
「それまで僕が、義彦さんの代わりに茜さんの旦那さんになるよ。それじゃダメ?」
「お前は、側にいてくれるの?」
茜さんが笑ってくれる。そんな彼女の背中に手を回し、僕は茜さんを抱きしめ返していた。この人のためだったら、なんだってしよう。たとえ、それが人殺しであっても。
「茜さんは、僕が守るよ」
そっと彼女に微笑み、僕は茜さんを強く強く抱きしめる。ありがとうという彼女の体からは、かすかにおしろいの香りがした。
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