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炎の逢瀬
それは本当に、事故としか言いようがなかったのかもしれない。その出来事を僕が垣間見たのは、明け方のことだ。
他の娼婦の人たちも眠りにつき、坂井さんも奥の部屋で休んでいるときだ。突然、母屋の方からすさまじい物音がしたのだ。
人が何かを言い争っている音だった。茜さんの仏間から聴こえるその声で、僕は眼を覚ましたのだ。それから、焦げ臭い匂いがあたりに立ち込める。
「茜さんっ!」
嫌な予感がして、思わず僕は叫びながら布団から跳び起きていた。階段を降りて、奥の部屋の仏間へと急ぐ。そこに広がる光景に、僕はあっと眼を見開いたのだ。
男が燃える火の中で死んでいた。死んでいたと分かったのは、大黒柱に頭を凭れさせる男の後頭部から、大量の地が流れていたからだ。その血が赤い炎に照らされて、赤黒い輝きを放っている。
横たわる男の横には、唖然と眼を見開いて震える茜さんの姿がある。死んでいる男に茜さんは呼びかけるが、その男が動く気配はない。
男は、僕を殴っていたおじさんだった。どうやら茜さんの旦那さんが亡くなったことを聴きつけて、伯父さんは茜さんを訪ねてきたらしい。二人の間に何があったかは知らないけれど、おじさんが茜さんに何かをしようとしたのは僕の眼にも明らかだった。
恐らく、茜さんはおじさんと揉み合うか何かして、彼を押し倒してしまったのだろう。打ち所が悪く、おじさんは死んでしまったに違いない。
「茜さんっ!」
「来ないでっ! 来ちゃ駄目っ!」
泣き叫ぶ茜さんに、僕は声をかけていた。だが、茜さんはそんな僕に来るなと叫ぶ。そのあいだにも炎の勢いは増し、茜さんを包み込んでいくのだ。僕は目の前に立ちはだかる炎の壁に怯むことなく跳び込んでいた。
不思議と、炎は熱くなかった。その炎の壁の中心には茜さんがいる。その茜さんを、優しく抱き寄せる人影があった。
真っ赤に燃える人影が。
僕は一瞬目を疑った。燃える人影が、涙を流す茜さんを優しく抱きしめている。その人影は茜さんに何かを囁きかけているようだった。茜さんの涙がやみ、彼女は眼を見開いて燃える人影へと顔を向ける。
嬉しそうに眼に笑みを浮かべ、彼女はぎゅっと燃える人影を抱きしめたのだ。
「やっと、来てくれたのね……」
その言葉で、僕はすべてを悟っていた。人影は茜さんの旦那さんだ。その旦那さんが、茜さんを迎えに来た。
「茜さん……」
そっと僕は茜さんを呼ぶ。茜さんは大きく眼を見開いて、僕を見つめてきた。その眼に悲しげな光が宿る。
「ごめんなさい……」
そう彼女は僕に言って、そっと眼を瞑ったのだ。そんな彼女の顔を、赤い炎が覆う。
ごうごうと燃える炎の中で、僕は茜さんと人影がそっと唇を交わすのを見つめていた。
そのあとの記憶は、とてつもなくおぼろげだ。ただ、赤線地区を真っ赤な業火が襲ったことだけは覚えている。燃え滾る木造の古い廓を取り囲むように、黒い煙があたりに渦巻き逃げ惑う僕らの視界を覆っていた。
僕は、坂井さんに手を引かれ、火の手から逃れるために走らされていたらしい。らしいというのは、後からすべて坂井さんに聴いた話だからだ。
僕らの廓から発せられた炎は瞬くまに古い家屋を蹂躙し、華やかな花街を焼き尽くした。不思議なことに、この火災で亡くなったのは、茜さんとあのおじさんだけったそうだ。
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