スケーターズ・ワルツ

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「スケーターズ・ワルツ」    湖のほとりにはスケーターズ・ワルツが流れていた。  蓄音機でかけた古いレコードの音だ。  時々、ジッジッと雑音が入る。  盤の溝をレコード針がすべっていく。  凍った湖面をスケート靴がすべっていく。  この町では毎年冬になると、森の湖面がスケートリンクになり賑わいをみせる。  雪の傘をかぶった針葉樹の枝には色とりどりの三角形の旗がドレープ状に括り付けられ、ホットドックや温かいスープ、キャンディにドーナッツ、ホットアップルワインの出店が並ぶ。    ジルとベンは銀盤の中央にいた。  ベンは尻餅をついて、それをジルが両手で引っ張り起こそうというところだった。  「また転んだ」ジルはおかしそうに笑った。  ベンはムッとする。  「仕方ないじゃないか。君はずっとこの町に住んでいて、子供の時からスケートをしているかもしれないけれど、僕はまだ越してきたばかりなんだから」  「そう怒らないで。早く立ち上がらないと、お尻がしもやけになっちゃうわよ」  ベンは慎重に氷上につま先のエッジを突き立てた。  ジルはベンが立ち上がるタイミングに合わせて、繋いだ手を引き上げベンを助けた。  ようやく立ち上がったベンは、腰に手を当ててため息をつく。  ジルはそんなベンの周りを、巧みな足さばきで円を描くようにすべった。  「さあ、きて」  彼女がベンに向かって手を広げる。  ベンはロボットのように両手を前に突き出して、ヨチヨチと歩き出す。  「ベン、氷を蹴るのよ。氷を蹴って、すべるの」  ベンはつま先のエッジを立てて、ほんの少し氷を蹴ってみた。  そして、バランスを崩し、また転んだ。  もう何十回と同じことを繰り返している。  「さあ、起きて」ジルが優しく手を差し伸べる。  「もう嫌だ。また転ぶぐらいなら、このままお尻にしもやけができた方がましだ」  「ベン」今度はジルがため息をつく番だった。「ねえ、お願いよ。立って、練習して。あなたにとってはくだらないことかもしれないけど、この街ではスケートがすべれることは重要なの。仕事でも社交の場でも必ずスケートの話がつきまとうわ」  「何だってこの町の湖は凍ったりするんだ」彼は不機嫌に鼻を鳴らす。  「そんな憎まれ口をきかないで。私のことを愛してるんでしょう?」  ベンは渋々と立ち上がった。  しばらくするとまた尻餅をついたが、ベンは無言で立ち上がり練習を続けた。    数年が経ち、ベンは大人の男になった。  この町の風習通りに立派なヒゲを蓄え、無口で、もちろんスケートが上手い男になったのだ。  約束通り、ベンはジルと結婚した。  湖のほとりで行われた結婚パーティでは、氷上で華麗なダンスを披露した。  曲はもちろん、スケーターズ・ワルツ。  ベンとジルは美しい二羽の白鳥のように、手を取り合い優雅に踊った。  その姿を誰もがうっとりと見守り、そして二人を夫婦として認めた。  町の名士であったジルの父親もこのよそ者を認めないわけにはいかなかった。    やがて二人の間に子供が生まれると、ベンはまだ子供が小さいうちから熱心にスケートを教え始めた。  ジルはその様子を微笑ましく見守っていた。  仕事も家庭も順調だった。  すべてはスケートが上手にすべれるおかげだ。  この町ではスケートがすべれることが重要なのだ。  ベンは根気よく教えてくれたジルに感謝していた。  子供たちは大きくなると、家族の家から巣立っていった。  男の子と女の子が一人ずついたが、どちらの子供もこの町には残らなかった。  そして、ベンが熱心に教えたにも関わらず、子供たちのスケートはあまり上達しなかった。  いつの間にか、町の恒例行事だった森の湖面のスケートリンクも開催されなくなってしまった。  時代は変わったのだ。  今時、極寒の冬の湖に足を向ける物好きはわかさぎの釣り人ぐらいだ。    ベンとジルもずいぶんと古びていた。  スケート靴を履かなくともよろけて尻餅をつくほどに。  二人はしっかりと腕を絡め合い、しがみつくようにしながら慎重に歩みを進めた。  一歩踏み出すと6センチ進んだ。  外から見ると二人はまるで絡み合ったゼンマイ仕掛けの人形みたいだった。  ジルは年のせいで記憶のほとんどを失っていた。  ベンが誰なのかわからなかったが、自分にとって大切な人間であることはわかっているようだった。  ベンはそんなジルを献身的に支えていた。    二人は森の湖に向かっていた。  ジルが何か思い出すかもしれないと思ったからだ。  最近のジルといったら、元気がなかった。  1日のほとんどは眠っているし、起きていても暗い瞳を空に向けぼんやりしているばかりだった。  もう、何年も彼女の笑顔を見ていない。  きっともう別れも近いのだ。  そのことを考えるとベンは悲しくなる。  それでベンは出かける決心をした。  ベンはジルに何枚もセーターを着せ、スカートを重ねて履かせた。  もちろん、タイツも何重にも履かせて、雪用のショートブーツの爪先にはカイロも忍ばせた。  ちょっとしたカラフルな雪だるまが出来上がると、二人は毛糸の帽子と手袋を付けて家を出た。  一面、雪景色だったが、天気はそう悪くなかった。  湖までは二人の歩く速度で4時間という長旅だった。  彼らは黙々と歩き続けた。  やがて風が吹いて雪が巻き上げられ、二人の視界を阻んだ。  分かれ道に立ったが、ベンはどちらに進めばいいかわからなくなった。  「ジル、どっちにいけばいいんだい?」ベンはジルを見つめた。  ジルは何も答えなかった。  ベンは手袋を片方脱ぐと、道の分岐点で空中に放り投げ、落ちた位置で道を決めた。  「こっちだ」  彼らは再び歩き出した。  ベンが転ぶとジルも転んだ。  湖に向かう道のりはまるで二人の人生をさかのぼるようにベンに色々なことを思い出させた。  浮気もした。  ジルに浮気がバレたのはこの手袋が原因だった。  手袋は世界に2つとない、ジル手編みの手袋だった。  町の女たちは皆、家族のために手編みのセーターや手袋を作った。  町の女性にとって、男がスケートが上手にすべれることぐらい、編み物ができることは重要なのだ。  朝、手にはめていった手袋は、数日後、女性の差出人で送り返されてきた。  封筒の中には浮気相手からの手紙も入っていた。  ジルはベンを責めることなく、朝まで泣き続けた。  そして朝になると、子供たちに明るい笑顔を見せた。  そして、それきりその話が出ることはなかった。  ベンはジルを深く傷つけたことを反省した。  「あの時はごめんよ、ジル」ベンはジルに囁いた。  ジルはベンの人生を審判するように、猛禽類のような鋭い目でただ一点を見つめているだけだった。    破綻の危機もあった。  ベンは基本的に商才があったが、人の話を聞かないところが悪い癖だった。  ジルはいつもそのことを気にかけていた。  特にこの町で生きていくには、年寄りの話は聞くべきだったのだ。  ある要人を怒らせたとき、潮が引いたように仕事はなくなっていった。  町の人々はベンによそ者にするような目を向けた。  ジルはすぐに要人に謝りに行くよう言った。  しかし、ベンは町を出て、新しい土地で、新しい商売をすることを提案した。  ベンはこの町の古臭さが初めから嫌いだったのだ。  わずかな間、ベンの家族は町を出た。  そして、商売に失敗しボロボロになって戻ってきたとき、最終的に夫婦を救ってくれたのはジルの父親だった。  町の人たちとの修復が済んで、再びこの町で生活ができるようになったとき、ベンは涙を流して、ジルとジルの父親に感謝した。  「気にするな。私にも同じ経験がある。男だったら一度はこの古臭い町から出てみたいと思うものさ」  ジルの父親はそう言って、ベンに酒を注いでくれた。    晩年、夫婦はつましい生活を送った。  子供たちが家を出る頃には、町の人口は減り、商店は潰れ、代わりにスーパーマーケットができた。  アイススケートのフェスティバルもなくなってしまった。  思えば、ジルには苦労ばかりかけてしまった。  でも、長い人生を振り返ってみると、やっぱり幸せだったのだ。  ベンはジルとそのことを共有できないことが寂しかった。  でも、ジルにとっては思い出したくない思い出ばかりなのかもしれない。  ベンは年のせいかときどき卑屈になる。  湖は雪をかぶった針葉樹の木々に囲まれていた。  奇跡的にも夫婦は湖畔にたどり着いた。  ベンの選択した道は間違えていなかったのだ。  凍った湖面には人の姿はなかった。  とりあえずベンは、積もった雪をどかしてジルをベンチに座らせた。  ベンもその隣に座った。  寒さが足元から這い上がってきた。  ベンはすぐにここに来たことを後悔した。  4時間かけて何とかたどり着いたが、同じ道をジルを連れて戻るには疲れすぎていた。  かと言って、ベンは死ぬためにここに来たわけではない。  ベンは途方に暮れた。  ジルが寒さにガチガチと歯を鳴らし始めた。  ベンは魔法瓶に用意してきたホットワインをジルに飲ませた。  まだ昼間だったが、森は鬱蒼として薄暗く静かすぎて、それがまたベンの恐怖心を煽った。  風もさっきより強くなっているようだ。  降り積もった雪が、白い靄となって氷上を走った。  「ごめんよ、ジル」  ベンは自分の浅はかさを謝った。  彼の考えはいつも片道キップだ。  ジルは渡された魔法瓶のカップを唇に当てたまま、相変わらずの無表情で氷上を見つめていた。  ベンはジルを抱きしめた。  その時だった。  どこからかスケーターズ・ワルツの曲が流れてきた。  ジッジッと雑音の混ざる、蓄音機でかけた古いレコードの音だ。  氷上ではいつの間にかたくさんの人たちがスケートを楽しんでいる。  その中に若かりし頃のベンとジルの姿もあった。  二人は銀盤の中央に立ち、仲良くもつれ合っている。   ジルの笑い声が聞こえる。  ベンはへっぴり腰でヨチヨチと氷上を歩いている。  「ベン、エッジを立ててはダメよ。歩くんじゃなくて、すべるのよ。氷を蹴ってすべるのよ」  ジルは巧みな足さばきでベンの周りを円を描くようにすべっている。  「1、2、3。1、2、3。ほら曲のリズムに合わせて、足を前に出して」  ジルはベンに両手を差しのべる。  ベンにはスケーターズ・ワルツの曲なんて耳に入っていない。ジルの手に必死にすがりつく。  「ダメよ、ベン。怖がらないで。自分の力で立って。そんなにしがみつかれたら私まで、、」  ベンはバランスを崩して派手に尻餅をつく。  ジルも引きづられて尻餅をつく。  「もう。ひどいわ、ベン。まるで私までスケートが下手になってしまったみたい」  ジルは笑っている。  ベンは立ち上がろうとするジルを引き寄せて、尻餅をついたまま彼女を抱きしめる。  そしてキスをした。  「私たち、結婚するのね」  「そうさ」  ジルの瞳がまっすぐにベンを見つめる。  「ねえ、ベン。私たち、年をとったらあなたが氷の上でしているみたいに、ヨチヨチと歩くようになるの?」  「そうかもしれないね」ベンは言った。   ジルは立ち上がるとスカートについた雪を払って、再びベンに手を差しのべた。  「ねえ、私には信じられないの。私たちも年をとったら、ダブダブの皮袋を着て、入れ歯をして、しがみつき合って歩くようになるの?私のおじいさんやおばあさんみたいに?あなたは私がちょんと指先で押しただけで、バランスを崩して転んでしまうのかしら?こんなふうに」  ジルはやっと立ち上がったベンの背中を押してみせた。  ベンは両手をバタバタさせながら、氷上をすべっていく。  ジルは再びベンの背中を押すと、楽しそうにベンの周りをすべる。  「そんなのって不思議。冗談みたい。ベン、私たち、一緒に年をとっていくのね。素敵ね」  ジルはスカートの裾を広げてクルクルと回る。  「ねえ、ベン。私、すごく楽しいことを思い出したわ」  ベンチに座ったジルが、ベンに微笑んだ。  その瞳はとてもまっすぐで澄んでいた。
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