明日、世界よ終われ!

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「明日で世界は終わりだから」  あまりに唐突な啓示だった。  情けなくも返す言葉を失った私は、ただポカンと相手の顔を見たまま、その場に立ち尽くしていた。  二〇一九年七月三十日。  世間の学生はそろそろ夏休みか。情報番組で特集されていた『十代に人気の観光地ベストテン』を観るともなく眺めて、そんなことをぼんやり考えていた朝のことだった。 「未来なんて来ない。今日限りで、みんな終わりだ」  目の前の少年は大真面目な表情で繰り返した。馬鹿な大人をからかってやろうとか、だましてやろうなんて魂胆は、少なくともその顔からは読み取れない。 「だから何もかも──全部、無駄なんだ」  少なくとも彼の中では、その言葉は真実だった。  事の発端は数分前にさかのぼる。  私はいつも会社への通勤にバスを使う。今朝も普段通りに用意をして、化粧をして、普段通りにバス停に着いた。  空からセミの声が大音量で降ってくる。今日も暑くなりそうだ。バス停のわずかな日陰に人がぎゅっと集まっているのを見て、そう思った。  毎日同じバスを利用していると、自然とバス停にいる人とも顔なじみになるもので。ああ今日も同じような面子だなとそれとなく確認して、そしてその時に一つだけ (あれ)  珍しいなと思ったのが、その中に見慣れぬ少年の姿を見つけたことだった。  高校生だろうか。付近の学校は軒並み夏季休暇期間に入っているはずだが、彼はきっちりと制服を着込んでいた。学校で補講でもあるのだろうか。 (学生も大変だ)  少年は、バスを待つ列の最後尾にいた。自分の学生時代を軽く思い返しながら、彼の後ろに並ぶ。  スマホや本、手帳などに目を落とす人が多い中、少年は特に何も見ていなかった。ぼんやりと、焦点の合わない目で遠くを見ている。 (眠いのかな)  そう想像したのは多分、自分自身が眠かったからだ。バスに乗ったら寝てしまいそうな予感が立ち込めている。 (いけないいけない。寝てしまわないうちに)  手帳を開いて今日の予定を確認する。午前中は来月主催するセミナーを準備するための打ち合わせ、午後からは来週やってくるクライアントを迎え入れる会議が入っている。夜は、秋にある資格試験のための講習会だ。 (今日も結構忙しいな)  自然とため息が出た。  ぺらぺらと手帳をめくってみる。色々と書き込んではあるものの、ああ、ちっとも面白くない予定ばかりだこと。嫌になって、開いたページをそっと閉じた。 (今日だけのことだったら)  なんてこともない。適当に流して終わらせてしまっていいのなら、どれほど心が軽くなるだろう。  だが今日以降──未来のことを考えると、途端に気と足と頭が重くなる。今日やっておかなかったら明日どうなるか。そのプレッシャーが私を突き動かすのだ。 (備えないと、だよね。やっぱり)  何も別に、できるだけいい未来にするために、なんて大層なことを考えているわけじゃない。  ただ、大きな失敗をしたくないだけ。取り返しのつかない事態に陥るのが怖いだけだ。 (いつまで続くんだろう、これ)  ふとそんな疑問が浮かんで、めまいがした。  あれ? もしかしてこれ、終わらないのでは? 『資産運用は花咲銀行。未来に確かな安心を残しましょう』  バスの車体にでかでかと書かれた文字が、目の前を滑っていく。 「未来、か」  ──どこまで行ったら『未来』なんだろうね。  あくまで心の中でぼやいたつもりだった。だって実際に問いかけたところで、答えの出ない疑問だってわかっていたつもりだったから。 「えっ」  だから、隣でぼーっとしていたはずの少年が不意に振り返って驚いた。ぎょっとしたような表情で、目を丸くしている。  あれ。今もしかして私、 「声、出ていました?」  目を見開いてこちらを見ていた彼は、答える代わりにふぅと重い空気を吐いて視線を落とした。 「未来なんて」  ごにょごにょと何やら呟く。 「はい?」  やや大げさに首を横に傾げ聞き返す。少年は意を決した様子で顔を上げた。 「来ないよ、未来なんて」  だって。 「世界は明日で終わりだから」  そう。あまりに唐突すぎる啓示だった。  唐突すぎて私は、残念ながらその時の私は、絶句するばかりで気の利いたことは何も言えず。ただただ酸欠の魚のように、馬鹿みたいに口をぱくぱくさせていた。  だって、世界が終わるなんてそんな大それた不吉な予言を、こんな何の変哲もない晴れた夏の朝に告げられても。そんなの困ってしまう。 「そんな。まさか」  言い返そうとした口が途中でこわばる。  何を突拍子もないことを。からかっているの。それともテレビで変な特集でもやっていたとか。  とっさに頭に浮かんだ返答は、だけど彼の固い表情を目にした途端に消え去った。  違う。この子はそんな理由で言っているんじゃない。多分。勘だけど。 「明日、までなの?」  やっとのことで探し出した次の一言が、これまた阿呆みたいなオウム返しで恥ずかしくなる。  頭上でセミが大合唱しているのがいけないのだ。うるさくてうるさくて、深く考えようとしても気が散ってしまうから。そう決めつけることにした。 「正確には、七月三十一日の深夜零時」  ついと視線をそらせて、けど彼ははっきり言い切った。 「明日になった瞬間、かな」 「明日になった、瞬間」  脳裏に焼き付くその言葉を繰り返しながら、少年が『こんなこと』を言う理由に頭をめぐらせる。  改めて表情をうかがっても、冗談を言ったりからかっている様子は感じ取れない。これで演技をしているのだとしたら、大した役者だ。 (もしかして)  この暑さで頭のネジが少し緩んじゃったりしちゃったのだろうか。たまにあることだというのは聞いたことがある。それでこんな『馬鹿げたこと』を信じ込んでいるのか。  それとも、それとも。 (まさかとは思うけど。万に一つもないとは思うけど)  本物の予言だったとしたら。  一九九九年にあった『あれ』とは比べ物にならない、真実の未来予知。本当に世界は明日で終わりで、何らかの理由で彼がそれを知ったのだとしたら。 『おい知っているか? 世界が終わるって噂』  幼い声が耳の奥でこだまする。  本当は恐ろしいはずの予言を、絶望に満ちていたはずの終末宣言を、まるで祭りでも待つようなわくわくした表情で噂していた子ども達。彼らはどこまで“あの話”を信じていたのだろう。 「あなたは、どうして」  口にしかけた問いを、スマホのバイブレーションが遮った。電話だ。画面を確認する。主任からのようだ。こんな朝早くに珍しい。 「はい。夏木です」  通話ボタンを押し、スマホを耳に押し当てる。いつもまくしたてるような早口で話す主任の声が流れ込んできた。 『ああ夏木君。おはよう、こんな朝早くにすまないね。実は今日予定していたクライアントとの打ち合わせなんだが、急きょ先方が都合が悪いと言い出してね。色々と準備してくれた君には悪いんだが、明後日に延期となったよ』  ……あらら? 「そうですか。それは残念です」  その時私が抱いた感想を一言で表すなら「なんてタイムリー」だった。 「はい。明後日の午前十時からに。わかりました」  身体の半分でとめどなく流れる主任の声に相づちを打ちながら、もう半分でスケジュール帳を見直す。  おやおやおや。すると今日の予定は? 来月のセミナー準備と、あと秋のテスト勉強?  柄にもなくドキンと胸が跳ねた。 (それくらい先のことなら)  一日くらい飛ばしても、先延ばしにしても、それほど実害はないのではないだろうか。  気づいてしまった期待に胃の辺りが熱くなる。 (それに、そもそも)  本当に明日、世界が終わってしまうというのなら。 『だから何もかも──全部、無駄なんだ』  先刻聞いた少年の言葉が耳の奥でわんわんと反響している。  そもそも、世界がなくなってしまった後のために準備をする必要なんて、もうないのではなかろうか。 『じゃあ、詳しいことは出社した後に──』 「しゅ、主任!」  動悸が収まらないうちに急いで口を開いた。  そうだ。そうだ。そうしてしまおう。この突然の思いつき、思い直してしまうのはもったいない。胸の奥がそう叫んでいた。 『うん?』 「あのっ、いただいた電話で申し訳ないんですけれど」 「どうにも体調不良なので今日、休暇をいただいてもよろしいでしょうかっ!」
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