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電話を切ると、隣で少年が目を丸くしていた。
「……嘘つき」
ぽつりとその口からもれたのは悪態ではなく、単なる驚きの表現らしかった。少なくとも私はそう思うことにした。
「別に嘘ってわけじゃ」
言いかけてからつと視線をそらす。
いや、嘘か。少なくともここへはこうして、通勤するためにやってきていたわけだし。
けれど、不思議と後ろめたい気持ちは少なかった。
「だって、世界は今日までなんでしょう」
会社なんて行っている場合じゃないじゃない?
そう返すと、少年はバツが悪そうな顔をした。自分の嘘に他人を巻きこんでしまったという罪悪感に満ちた表情、に見えなくもない、が。
そこはとりあえず意識せず、後でゆっくり吟味することにした。
「と、いうわけで。どこへ行きましょうか」
だって、今ここで正気に戻るのはさすがにタイミングが悪すぎる。
降ってわいた休日。予定はゼロ、にした。たった今そうなったのだから。
「どこに、って?」
彼は完全に途方に暮れた目をしていた。もしここに、私達の会話を途中から耳にした第三者がいたとしたら、私を未成年誘拐の現行犯で通報したかもしれない。だが幸いにも周囲は皆自分の人生に忙しいようで、私の提案に眉根を寄せる人物は一人もいなかった。
セミがうるさいせいかもしれない。呪文のように呟いた。
セミがあまりに大音量で歌っているから、他人の会話なんて意識しないと耳に入ってこないのだ。きっと。
少年の予言を理性的に処理できないのも、唐突に有休をとってしまったのも、全部セミが騒がしいせいだ。
「ううん、他にやりたいことがあるなら、無理に付き合ってもらう必要はないんだけれど」
ちらり、と彼の顔色をうかがいながら手帳をめくる。
面白くない予定を書きこんだカレンダー部分ではなく、その後ろについているフリースペースのページ。そこに私はメモしておいたのだ。今朝、テレビの情報番組でやっていた『十代に人気の観光地ベストテン』を。
(面白そうな場所ばかりだったから、いつか行けたらな、ってくらいの気持ちで。まさかこの夏は、無理だと思っていたんだけど)
勿論、たった一日で遠出はできない。この近くで、そして欲を言うなら複数カ所回れるような場所がいい。
だって世界は、明日までの命らしいのだから。時間を無駄にすることは一切できない。
(それに、)
もう一度ちらり、と少年の方を見る。
『明日で世界は終わりだから』
真意は不明にしろ、初対面の大人に真面目な顔で「世界が終わる」なんて言ってしまえるこの少年を、このまま一人にしてはいけないような気がした。
──確信も根拠もない、ただの勘だけれど。
「もしないんだったら、一緒に来てもらえると嬉しいかも、みたいな?」
ああ。我ながら心の迷いがありありとわかる誘い方だ。自分で言い出しておきながら、つい語尾が疑問形になってしまって笑える。
「なんというか、ちょっと心細い、と言いますか。これ、『十代に』人気の観光地だし。私、一応三十代だし」
なんて。
「ふ、うん」
寝起きの頭で書きこんだ汚いメモを見て、少年は意外にも表情を緩めた。
「わかった」
そう言って立ち上がる。言い出しっぺのはずの私はまたぽかんとして、想像よりも長身だった彼の肩辺りを見つめていた。
「え。本当に?」
驚いて、聞き返してからハッとする。誘ったクセに、断られるとばかり思っていた。
だって、何度も言うけれど初対面だし。もっと言えば少年は制服を着ていて、学校に行く予定があってもおかしくないのだから。
なのに、予想に反して彼は肯定を口にした。
「ここなら近いよ。友達が行った、って自慢していたから知っている。案内しようか」
「いいん、です?」
呆然としたまま問いかけると、少年はやっと無表情を解いてぎこちない笑顔を浮かべた。
「いいですよ。だって、世界は明日で終了なんだし」
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