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まるで、夢から覚めたような心地がした。
「すごい。人が、人が一杯いる……!」
至極当たり前のことに感動している自分がいた。
自分が仕事をしている時は世界中も仕事をしていて、自分が眠っている時は世界中も眠っている。頭ではそうではないと理解しているつもりでも、なんとなく感覚ではそう思い込んでいたようだ。
「夏休みだからね」
はしゃぐ私とは対照的に、少年は冷静だった。
なるほど夏休み。そう言われてみれば周囲の人だかりも、十代と思しき若者達がかなりの割合を占めているようだ。
さすが夏休み。さすが『十代に人気』。自分まで若返ったような気分になる。これはお得だ。
自家製アイスクリームとひまわり畑のお店『ミルキィ・ガーデン』。
バス停から最寄りの駅に移動し、電車に乗って十数分。
メモしてあった観光地のうち、最も近場だったこの店に私達はやってきていた。街中では珍しい、数百本ものひまわりに囲まれたアイスクリーム屋さん。その前には、目をみはるような長蛇の列ができていた。
「そうだ。あなた、名前は?」
長蛇の最後に並んだ時だった。「どこが最後尾かな」「夏木さん、こっち」なんて会話を交わして、そしてハッと思い立った。
そういえば名前、聞いていない。私は電話の流れで名字を明かしてしまったけれど。まさか少年よ、なんて呼びかけるわけにもいかない。
「私、なんて呼べばいい?」
別に本名でなくてもいい、と前置きしてから尋ねた。今日会ったばかりの人間に、名前を知られることの抵抗感もあることだろう。
私はごまかすタイミングを逸してしまったけれど。タイミングがあったところでうまくごまかせたかは不明だけれど。
「んー……」
少年はちょっと困った風な様子を見せて、その後で
「サトシ」
小声でそう名乗ってくれた。
「サトシ君ね。了解です。ありがとう」
どういう字を書くかは訊かなかった。勿論、本名かどうかも確認しなかった。
そんなこと知ったって意味がない。呼びかける名前があればそれでいいのだ。なにせ、世界は明日までなのだし。
「お次でお待ちの方、どうぞぉ」
張りのある店員さんの呼び声で我に返る。
早い。さすが人気店、回転速い。
(しまった。ちゃんと注文決めていなかった)
背後にはいつの間にか、並んだ時と同じくらいの長蛇の列ができている。
あんなに沢山の人が注文を終えたのに。あんなに店員さんが一杯働いたのに。並んでいる人の人数が減っていないという事実に驚いてしまう。あれ、むしろ増えていない?
「え、ええと」
やや焦りながら、カラフルなメニュー表に目を滑らせる。どれもこれも、とてもかわいらしくておいしそうだ。そして、どれがいいのかさっぱりわからない。
「お姉さん、お姉さん」
困っていると、店員さんが声をかけてきた。南国模様のバンダナがよく似合う、色黒で気さくそうなお兄さんだ。
「もし迷っているなら、パワフルレインボーパフェ。おすすめっスよ。当店イチオシ」
「へ、へえ」
「ここだけの話、トッピングは形の違いだけなんで。大きさと味、あとはフィーリングで好きなキャラクター選んでくれれば。ちなみに、一番大きくて全部の味入っているのがパワフルレインボーね。大事なことだからもう一回言うけど、当店イチオシ」
笑いながら、親切に教えてくれた。どうやら、こういう店に慣れていないとばれたらしい。こうなってくるとよくわからなさも相まって、店員さんのおすすめを注文したくなる。
「じゃ、じゃあパワフルレインボーパフェの、ええと水族館二つ」
周囲の喧噪に負けないよう声を張り上げると、隣でサトシ君が「えっ」という顔をした。
「あ、大丈夫。私が支払いますから」
はなからそのつもりだった。私が半ば強引に引き込んで、彼を巻きこんでしまったのだから。パフェくらいはおごってあげないと。
だが、彼は苦笑して首を横に振った。
「ああいや、そうじゃなくて」
そう言って、店員さんが運んできたパフェを指さす。
「食べきれるかな、って」
その指の先には、たっぷり二十センチはありそうな巨大パフェ。が、二つ。
「でかッ!」
思わず大声で叫ぶ。どっと周囲から笑い声があがった。
「まあ、昼食代わりだと思えばこれくらい平気、平気」
『水族館』のトッピングは、クジラとイルカの形をした砂糖菓子。かわいいヒトデのゼリー。そしてコップの縁から顔を出す小さなカエルチャンだった。
「そのカエル、取り外せるらしいよ」
サトシ君にそう教わって、クリームで汚してしまう前にそっとカエルチャンを避難させた。プラスチック製の透き通った瞳が愛らしい。
今日の記念品にしよう。なんだかちょっと嬉しい気持ちで、カエルチャンをカバンのポケットにしまう。世界、明日で終わっちゃうらしいけれど。
「どうせなら、あっちで食べましょう」
巨大パフェを抱えてひまわり畑へ向かう。
辺り一面に咲き誇るひまわりの群れは壮観だった。黄色い。まぶしい。まるで太陽が落ちてきたみたいだ。
スマホで写真を撮った。ひまわりだけで。青空を入れて。パフェを持った手を添えて。
「すごい。映える。とってもきれい」
夏の写真には、生命力も一緒に写りこむんじゃないか。そう疑わせるくらい、画面の中でもひまわりは光り輝いていた。
夢中で何度もシャッターを切った。ここから離れる時も、この愛おしいもの全部ずっと持っていけるようにしたい。なんなら、地球が終わった後でさえも。
「あ、噴水」
「えっ! どこ」
サトシ君が指さした先には、小さな貝殻色の噴水が建っていた。さわさわと、霧吹きのように優しくこまかい水を吹き上げている。その下には、淡く虹が浮かび上がっているのが見えた。
「涼しい」
もちろん噴水も写真に収める。虹がなかなかうまく写せず、苦戦しているとサトシ君がス、と手をさし出してきた。
「撮ろうか」
頷いてスマホを渡す。彼は何やらカチャカチャと設定をいじった後、ぱしゃり、とシャッターボタンを押した。
「ううん」
首を傾げて、カチャカチャして、またぱしゃり。
「どう」
見せられた画面には、水しぶきの下にぼんやりと浮かぶ虹がしっかりと写っていた。
「すごい、ばっちり」
「そう」
スマホを返そうとしたところで、サトシ君は何かに気がついたようなそぶりで動きを止めた。
「夏木さんも、撮ろうか」
風景と自分の手ばかり撮影している私に気づいて、気を回してくれたらしかった。
「ああ! いや。ううん、いいのいいの。ありがとう」
自分の写真は、苦手だから。
へへへと笑って手をひらひらと振る。
「自分が写っていると、後で見返せなくなっちゃうんですよね」
「ふう、ん?」
私の返答に、彼はわかったようなわからないような表情をした。
「あ」
しばらくそうやって遊んだ後だった。
不意に上空を見上げて、サトシ君が声を上げた。
「夏木さん。傘、持っている?」
私にもすぐに、彼がそんなことを尋ねた理由がわかった。
「持っていない」
「そうか」
小さな折りたたみ傘さえ持ってこなかったことを悔やむ。でも、ああそうだった。今日は本当はこんな遠出をするつもりはなかったのだった。
(会社に行くだけなら結局、ほとんどバスに揺られているだけだもの。傘なんてむしろ邪魔になるくらい)
「じゃあ走らないとだ」
「ですね。駅が一番近くて便利かな」
そんな会話を交わして、目標地点を確認して、二人して走り出す。頭上でゴロゴロという不穏な音が鳴ったかと思うと、顔に冷たいものがかかった。
残念ながら、これも夏の風物詩。
いつの間にか、空はどんよりと鈍色に曇っていて。生ぬるい雨が降りだしていた。
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