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駅の構内に駆け込む頃には、雨はすっかり本降りになっていた。
安全な屋根の下から、雨の滴る薄暗い外界を眺めてほっと安堵の息を吐く。頭上から絶えず水を浴びせられずにすむことがこんなに幸せなことだなんて、すっかり忘れてしまっていた。
「そういえば、今日は午後から雨の予報だったっけ」
朝のニュースでそんなことを言っていたような気がする。カサのいらない通勤方法をとっているからって、ちゃんとチェックしていなかったのだ。反省。
「最近の天気予報はよく当たるなあ」
技術の進歩だね。
ため息と一緒に吐き出した。いい予報も悪い予報も、とてもよく当たる。
生ぬるい湿気が世界をすっぽりと包み込んでいた。まるで巨大な水の塊に覆われたような、溺れるんじゃないかと錯覚するほどの湿度。跳ね返った雨しぶきで足がチクチクする。
「困ったな」
しっとりと湿ってしまった手帳を開く。
本当はこの後、あじさいやスイレンの花畑スポットを回りつつ海まで行って、遊覧船に乗るつもりだったのだ。ここからなら徒歩で海に出られる。夜には花火も上がる絶景ポイントらしい。この降ってわいた休日を締めくくるのにふさわしい、非日常的なイベント。だと思ったのに。
(さすがに雨じゃ、ね)
波を切って進む船も、髪を揺らす潮風も魅力半減だ。花火も中止になるだろう。かといって、ここでお開きはもっと悪い。まだお昼を少し過ぎたくらい。時間はたっぷり残っているのに。
他を探さないと。ページを破らないように注意しながら、メモした観光スポットをなぞる。
ここから近くて、雨でも楽しめて、そして。
「いいの?」
不意にサトシ君の声がした。
不思議そうに問いかけるその声にぴくりと肩が跳ねる。
「え……いい、って?」
「いや、最終的に決めるのは夏木さんだからさ、夏木さんがいいならいいんだけど」
せっかくだから、さ。
彼自身も言葉を探しているのか、歯切れ悪く続ける。
「雨はそりゃ、仕方ないけど。あまり余計な選択肢入れないで、なるべく夏木さんが一番行きたい所に行けばいいのに、って思って」
ここから近いとか、雨でも楽しめるとか、あと。
「俺が一緒だってことも、勘定に入れなくていいよ」
彼の声色はあくまで静かで優しく、視線も遠く向こうを見つめたままだったけれど、ずばりと胸に指さされたような衝撃があった。
あれれ。もしかして私、また
「声、出ていました?」
「うん?」
サトシ君はわかったようなわからないような、曖昧な様子で首を傾げた。
この少年は本当に超能力者なのかもしれない。そう思ってしまいそうになる。私の迷いを見透かしてくれている。なんて勝手な想像だと心の隅でなじりながらも。
(せっかくだから、か)
私が今一番行きたいところ。私が今一番やりたいこと。
そういえばいつの間にか、絞り込み条件の中からこの二つが抜け落ちてしまっていたような気がする。
特別なことをしなきゃ、とか。普段できないことをしよう、とか。相手がいるから二人とも楽しく、とか。そういうことばかり考えていた。そうか。そうじゃなくていいんだ。
世界の終わりだけど。世界の終わりだから。
(なかなか『自由』になんて、考えられないものね)
あの時と同じだ。子どもから大人になって、二十年も年月が経ったのに、結局私は変わっていない。
『いよいよ明日だな』
『うんうん。世界最期の日!』
屈託なく言い合う友達の隣で、胸をどきどきさせていた頃。
『そういえば夏木ちゃんお誕生日だよね』
『誕生日が世界終わりの日かよ。すげえな』
そうか。二〇一九年。あれからちょうど二十年になるのか。
「私が行きたいところ……」
もう一度メモをなぞって、それから顔を上げてみた。土砂降りの雷雨にけぶる街並み。もやがかった灰色の世界に、識別できるものなどほとんどない。
──いや、
「あ」
一つの看板が目に飛び込んできた。
全ての輪郭がぼやける雨の中で『それ』が目に入ったのは、飽きるほど見慣れた文字だったからだろうか。それとも。
(こんな所に、あるんだ)
そりゃ確かに、珍しい施設というわけではないけれど。ある程度の大きさがある街なら、あってしかるべきだとは思うけれど。でもこんな、用意されたように目の前に出現するなんて。
(できすぎじゃない?)
おいで、と言われたような気がした。
「じゃあ、サトシ君」
ようこそ、と言われたいような気がした。
「お言葉に甘えて、なんだけれど。もう少し付き合ってくれますか」
「うん」
短い肯定。それに背を押されるようにして、私は大雨の中に飛び出した。
「あ、ちょっと」
コンビニで買ったカサを慌てて広げて、彼が追ってくる。ザアザアと耳に栓をする雨音の中、パシャパシャ軽快な足音を響かせるのがなんだか無性に楽しい。
さっきまであんなに嫌がっていたくせに。
競争するように駆けて、息を弾ませながら私は伸ばした手で目的地に触れた。
タッチセーフ。バリア!
はい私の勝ちです。なんちゃって。
「ここ!」
「ここ?」
同じく息を切らせた彼が追いついて、ホッとした様子でカサをたたむ。
看板をまじまじと見つめて、意外だと言いたげな表情をした。
「……図書館?」
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