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「昔から私、本が大好きで」
ひんやりと冷えた、ひっそり静かな廊下を二人並んで進む。
空調がよく効いているせいか、それとも静けさも相まってか、室内の気温はかなり低く感じられた。コンビニでタオルを買っておかなかったら、気化熱で風邪をひいてしまっていたかもしれない。
「図書館にはよく入り浸っていたの。あ、と言ってもここじゃなくて家の近くの。それに足繁く通っていたのは主に学生の頃の話で、最近はさっぱりご無沙汰なんだけれど」
故郷に返ってきたような高揚感が私の胸を包んでいた。そこここに結構な数の人がいるのに、こんなに静けさを保っていられる。図書館という場所の特殊性なのだろう。本が音を吸い込むのかもしれない。なんて、割と本気で思っていた時期もあった。
「でも、わざわざ人を連れて来る場所ではないですよね」
付き合わせちゃってごめんなさい。
そう断ると、サトシ君は少しいたずらっぽい表情を浮かべた。
「いや、俺らもよく来ますよ。図書館」
「え? 本当に」
「十代は金がないから。それにマンガとか、読みやすい本もあるし。図書館に行くって言えば、嫌な顔をする大人も少ないし」
それから少しすまなさそうに眉を下げた。
「そういう不純な動機だから、夏木さんみたいに『行きたい』って言える場所じゃないし、本好きってわけでもないんだけど」
「ごめんなさい」
「いや、謝るのは俺の方だと思う」
そんな他愛もない会話を、ひそひそ声で交わしながら進む。
少し湿った、独特のにおいが鼻をつく。ホコリのような、カビのような、古い本のにおい。新品の本のにおいも好きだ。真新しい紙とインクのにおい。けれど図書館に置かれた本のにおいは、それとまた違う素晴らしさがある。
(そうだ。『夏休み』のにおいなんだ)
正確に言えば、『夏休みを想起させる思い出のにおい』か。長期休みのたび飽きもせず図書館に通っていた私にとって、古書のにおいは夏休みと結びついた思い出なのだ。
「あ、やった。ここの図書館にもある」
小さな板で仕切られた机を見つけて、私は小さく歓声をあげた。
長方形に並べられた六つの机。省スペースのためぴっちりくっつけて並べられたそこで『個人のスペース』を確保できるよう、申し訳程度に区切られた仕切り板が私は好きだった。隣の人を気にせず読書に没頭できるのはもちろん、何か大きくて強いものに包まれているような心地よさが、大好きだった。
「あれ、本取らないの」
私がそのまま席の一つに腰を下ろしたので、サトシ君は不思議そうだった。
「あ、うん。読書もすごくしたいんだけど」
せっかくだから今は、もっとやりたいことがあって。
カバンからノートとシャープペンシルを取り出す。どちらも会社のイベントでもらった、惜しげもなく使えるものだ。入れっぱなしにしておいてよかった。
それを見て、サトシ君は何かを察したようだった。
「俺、離れていた方がいいね?」
「ええ。ごめんなさい」
「謝りすぎだって。いいよ。あっちでマンガ読んでくる」
「うん。あ、ちょっと待って」
離れていきかける彼を、私は慌てて呼び止めた。
「その前に、『お題』を一つくれない?」
「お題?」
「そうお題。なんでもいいの。何か思い浮かんだ単語……台詞とか、場面でもいいんだけれど」
「そうだなあ」
しばしの沈黙の後、彼はにやっと笑って「そうだ」と言った。
「──世界の終わり、とかは」
夢中でペンを走らせた。
ペンを握る手から自分がドロドロに溶けだし、芯に宿って紙に現れる。そんな気分がした。
実際今、私はそうしているのだ。今の私全部を燃料にして、インクにして、灰にして、表情ある文字列を、存在する虚構を書きつけているのだ、って。
その楽しさを再認識している自分がいた。
カリカリと黒鉛がセルロースをひっかく音。バラバラと雨が窓ガラスを叩く音。そのどれもが集中力を高める方に作用する。汚い自筆の文字が段々と見えなくなって、全く別の世界が見え始める。この時のために雨が降ってきたんじゃないか。なんて、勝手にそう決めた。
ひび割れた地面に、水が染み込むような心地だった。ああ私、ずっとこれがしたかったんだ。後の予定も、消費した時間も、周囲の人間も何も気に病まずに、いつだってこれがしたかったんだ。
『はい。今日の宿題はお手紙です。みんなのお父さんお母さんに宛てて、大きくなったらなりたいものについてお手紙を書きましょう』
耳のどこか奥、どちらかというと脳に近いところで『先生』の声がした。小学校時代の、恩師の声。
ああ、もう二十年も前だ。それなのにまだ、くっきり覚えている。いや、ところどころは自分に都合のいいように改変されているのかもしれないけれど。でも。
『芸人とかマンガ家とか、よく目指す気になれるよね』
テレビを観ながら母がぼやいている。
先生の記憶と母の記憶。同じ日ではなかったような気がする。けれど私の中で、二つの記憶は完全にドッキングしていた。
『その中の大多数は鳴かず飛ばずで終わるのに。うまくいかないってわかってから、他の道に進もうと思っても間に合わないのよ。そのあとの長い人生、どうするつもり?』
それを聞いていた私は、小さな頭を悩ませて『宿題』を書いた。必死に必死に悩んで、書いた。そして、世間知らずな子どもらしい結論に至った。
そうだ。じゃあまず準備をしておこう。いっぱい勉強して、沢山お金を貯めて、困らない未来がやってきてから好きなことをしよう。
なんて。期限も目標もぼんやりさせたまま決めてしまった。
『なあ夏木。知っているか』
ランドセルを背負った男の子が、歯の抜けた顔で笑っている。
不思議な気分だ。頭の前半分で物語を空想している、その後ろで、話の筋とは全く関係ない映像がどんどん切り替わっていく。
『この世ってさ、この夏で終わりらしいぜ』
『本当?』
自分でもどきりとするほど、上ずった声が出た。
『本当かどうかは、まだ誰もわからないけど』
隣にいたクラス一の秀才が大人びた調子で答える。
『けどこの予言者。ノストラダムス、って人、今までに沢山の予言を当てているらしいよ……』
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