明日、世界よ終われ!

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 そうやって、何時間くらい過ごしていただろう。 「できたあ」  ついに私はシャーペンを放り出し、大きくのけぞった。解放感で一杯だったけれど、大声は出さないように気をつけた。だってここ、図書館だし。 「あ、完成?」 「ひゃっ!」  すぐ背後で声が聞こえて、思わず逆側にのけぞる。小さなビニール袋を下げたサトシ君が笑っていた。 「そんなに驚かなくても」 「ずっとそこにいたの?」 「まさか。おとなしくあっちでマンガ読んでいたよ。そろそろ結構な時間になるし、一度声をかけようかな、って戻ってきたとこ」  ためらいがちにノートをのぞき込んで、彼は口をすぼめた。 「小説?」 「イエス。小説」 「ふうん」  考え込むように顎をなでてから、サトシ君ははっと我に返った様子で袋の中身を広げてみせた。コーヒー牛乳と紅茶のペットボトルが入っている。 「待っている間にコンビニで買ったんだ。どう、一つずつ」 「わあ、ありがとう。気配りますねえ」 「自分が飲みたかっただけだよ」  図書館の中は飲食厳禁だ。小学生だって知っている。私達は連れだって、玄関口にあるロビーへと戻ることにした。 「ああ、甘さが頭に染みる」  くたびれたソファに腰かけ、冷えた紅茶を半分ほど一気に飲み干す。いつの間にか、体内から水分と糖分がかなり消費されてしまっていたらしい。それがぐんぐん補給されていくのを感じる。 「うまく書けた?」  ちびちびコーヒー牛乳を口にしながらサトシ君が訊く。答える代わりにノートをさし出した。 「大したものは全然。あんな短時間で、しかも久しぶりに書いたんじゃね」  読む? と訊くと、いいの? とクエスチョンが返ってきた。 「期待はしないでね」  予防線は忘れず張ってからノートを手渡す。  とてつもなく恥ずかしいし、恐ろしい気持ちもあるけれど。ここまで引っ張ってきて、短くない時間をひとり放り出しておいてしまったのだ。それくらいの罪滅ぼしはしないといけないだろう。 「あ、あと感想は言わないでくれると助かります」  自信のなさだけは隠しようがなかったけれど。 「わかった」  ノートを開いて、彼が私の書いた字を目で追う。 「へえ」  一つ一つ拾う。ページをめくる。 「ふむ」  手持ち無沙汰な私の方はというと、紅茶で額を冷やし口を湿らせて、彼の方は極力意識しないようにした。 「……夏木さんは」  しばらくの沈黙の後、彼が口を開いた。 「小説家なの」 「小説家だったら、あんな時間にこんな格好してバス待っていませんって」  おどけてスーツを指でつまんでみせると「ふうん」という空気に浮かびそうな鼻息が聞こえた。 「目指さなかったの」  不思議そうに首を傾げる彼の顔に、どきん、と心臓が跳ねた。 「あ、ううん。ええとね、目指さなかった、っていうか」  どちらかというと。 「私はまだ──」  言いよどんだ私の言葉を遮るように、外からぼん、と何かが破裂するような音が聞こえてきた。 「あれ? この音」 「花火かな。ってことは」  あのうっとおしい雨がやんだということ。 「見に行ってみよう」  駆け出すサトシ君を追おうとして、私はあっと声を上げた。 「待って。ちょっと待って」  花火があがっている? っていうことは、外はもう暗いはずだ。暗くなくてはいけない。腕時計を確認して私は息を呑んだ。  七時ですって。もちろん夜の。いつの間にこんなに時間が経っていたんだろう。 (しまった。久しぶり過ぎて没頭した。元からあまり執筆速度は速い方じゃないのに) 「サトシ君。今日、本当は学校に行く予定だったんでしょう。こんなに遅くなったら、家の人が心配するんじゃ」  本当は、暗くなる前に話をするつもりだったのだ。そして、しかるべき時間に解散するつもりで。それなのに。  頭を抱える。これでは、未成年を夜まで連れ回した非常識な大人ではないか。 「あー」  彼は事もなげに頷いた。小声で何事かぽそりと呟く。 「そうか。やっぱり信じていたわけじゃないんだ」 「え? なに」 「ああ、ううん別に。なんでもない」 「少し待って」とズボンのポケットからスマホを取り出す。 「多分、大丈夫だと思うけど」  そう呟きながらタッチパネルを操作して、どこかへ電話をかけ始めた。 「あ、母さん。うん俺。連絡遅くなってごめん」  どうやら母親にかけたようだ。面識のない私としては、身を固くして成り行きを見守るしかない。 「そう、友達と花火見に行こうって話になってさ。音、聞こえる? うん、うまい具合に晴れてきたんだ」  ちらちらと横目で私の方を確認しつつ、時折笑顔を見せる。会話は穏やかに進行しているようだった。少なくとも大声や、金切り声は漏れてこない。 「晩ごはんは……そうだな、適当に屋台で食うよ。うん。九時までには帰るから。大丈夫だって、大人の人も一緒だから」  じゃあ後で。そう締めくくって電話を切った彼は、満足げなさっぱりとした表情を浮かべていた。  内心どうなることかとひやひやしていた私は、あまりにスムーズな事の解決に目をぱちぱちさせることしかできない。 「……嘘つき」  ぽろり、と思わず素直な感想が口をついて出た。非難というよりは、称賛の意味で。 「ええ、嘘なんてついてないでしょ」  真面目な顔で言い返してくる少年。でも、瞳がくるくるといたずらげに笑っている。 「だって夏木さん、大人でしょ」 「ん。イエス。私、大人」 「でしょ。で、友達」 「うん。はい。私、友達……えっ?」 「ほうら、嘘なんてついてないじゃん」  行こう。花火、終わっちゃう。  私の反論を振り切るように、サトシ君は玄関の方へと駆け出した。  扉を開ける。その瞬間、ひときわ大きい花火の音が耳に届いた。
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