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その後のことを一言でまとめるなら、世界はやっぱり終わらなかった。
花火は二十時四十五分で終了し、私達は電車に乗って家に帰ることにした。よくよく話を聞いてみると、サトシ君の家はちょうど、花火を見た場所から私の家に帰るまでの直線上にあるようだった。
「でも家がそこだと、毎朝あのバス停から学校に通うの大変じゃない?」
何気なく訊くと、サトシ君はバツが悪そうに頭をかいた。
「いや、実は今日は別に、学校に行こうとしていたわけではなくて」
ついでに言うと、通学にあのバス停を使っているわけでもない。今朝あのバス停にいたのも、私に出会ったのも偶然。たまたまだったそうだ。
「なんだ。道理でサトシ君の顔、見覚えがないと思った」
すると、明日からはどんなに探しても時間を調節しても、通学途中の彼と一緒になることはないのか。そんなことを考えると、ちょっと寂しい気分になってくる。
「家に着いたら、連絡して」
彼が電車を降りる直前、思いきってそう切り出した。
鞄から名刺を引っ張り出し、一枚手渡す。名刺なら電話番号もメールアドレスも書いてあるし、なんならQRコードも入っている。好きなものを使ってもらえるはずだ。
「ちゃんと家に帰るまでが、大人の監督時間だから」
キョトンと名刺を見つめていたサトシ君は、それを聞いてプッと吹き出した。
「口説かれているのかと思った」
「まさか」
脊髄反射で否定してから、おそるおそる聞き返してみる。
「その方がよかった?」
「まさか」
しげしげと眺めた後で、サトシ君はうやうやしく名刺を受け取った。
「わかった。連絡するよ先生」
無造作にズボンのポケットへ入れて、ステップを降りる。蛇足とは知りながらも、私はその背中に声をかけずにはいられなかった。
「ちゃんと帰ってね!」
たとえ世界が、今日で終わりでも。
サトシ君は前を向いたまま、手を上げて応えた。
「わかっているって」
彼からの連絡は、その後二回に分けて届いた。
一回目は別れてから十数分後。無事に自宅に帰ったという内容のメールだった。
二度目はそれから約三時間後。日付が変わる数分前にかかってきた電話だった。
逃してなるものかとワンコールで素早くスマホをひったくり、通話ボタンを押す。電波越しに聞こえた声は苦笑していた。
『もう寝ていたらやめとこうって、思ったのに』
「待っていたから。なんとなく、かかってくると思って。ううんというか、かかってくるといいなと思っていた、かな」
『そう』
一緒にいた時のテンションの高さとは裏腹に、受話器を隔てたサトシ君はとても歯切れが悪かった。
『迷ったんだけど、その、やっぱり言っておかなきゃって思って』
「うん」
『きっと夏木さん、本気で信じちゃいないんだろうなとは思ったんだけど。でも、だからって俺から言うかどうかとは話が違うし。それに、変に心配とか期待とかさせたのは事実だし』
なかなか本題に入らない彼の言葉を、私は黙って聞いていた。遮ってはいけないような気がした。
『あれ、半分嘘なんだ』
彼がそう言った丁度その時だった。
タイミングよく時計の長針が動き、かちりと日付が切り替わった。午前零時。二〇一九年七月三十一日。
世界が終わるはずの、日。
『俺だけの話のつもりだったんだ。俺の世界は、今日で終わりって思っていたから、あんなこと、言った』
「うん」
『夏木さん、訊かなかったよね。なんでそんなこと言うの、って。いつ訊かれるかって、実は結構ドキドキしていたんだ』
イタズラがバレているのに、知らんぷりをしている悪ガキみたいな気分だった。
そう形容してサトシ君は笑った。
「うん、そう。気にはなっていた。何度か、訊いた方がいいかなとかも思った。でも」
『でも?』
「なんていうか……私自身、そうやって問いただされるのあんまり好きじゃないなって思ったら、言い出せなくて」
一度訊いてしまったら、私の方から言い出してしまったら、サトシ君が本当に言いたいことを聞き逃してしまうんじゃないか。その可能性が怖かった。
なんでそんなことを怖がったのか。無論、私が“そういう”人間だからだ。彼は私のように弱い人間ではないだろうけれど、それでも。
『そっか』
またしばらく沈黙した後で、彼はのろのろと話し出した。
『スポーツ推薦を受けていたんだ。大学の。サッカーで。合格なら七月三十日中に、メールで通知が来るはずだった』
本当はとっくに、落ちていることは明白だったらしい。同じ試験を受けたライバル達から、ちらほら合格通知の知らせが漏れ聞こえてきていたからだ。
『でもやっぱりさ、諦めきれないじゃん。期日まではさ。俺、サッカー一本でやってきたからさ。他の学校行くって選択肢も頭になかったし』
親や教師はとっくに諦めモードで、次の志望校を早く決めるようサトシ君に強く迫っていたそうだ。けれどサトシ君自身はどうしても、そんな気分にはなれなかった。
今日も母親にしつこく言われ、進路指導室に行くという名目で家を出たものの、高校に向かう気はさらさら起きなかったらしい。
『夏木さんと会った時にはさ、もう、通知が来るかもってスマホ見ることすら嫌になっていてさ』
「ああ」
その言葉にひとり頷く。
そう。かすかな違和感はあった。珍しいなと思ったのだ。サトシ君くらいの若者が、あんな長時間スマホをほとんど使わないなんて。
『閉じていたんだよな。どうせ未来なんて俺にはないし、どうでもいいって。だから、あんなこと言った』
世界は今日で終わり。未来なんて来ない。
『ごめんなさい』
「だから、謝らなくていいって」
『んじゃあ、ありがとう、かな。夏木さんといる間は、入試のこと忘れられていたからさ。そうじゃなかったら本当に、自分の世界終わらせていたかもしれない』
何やらごそごそと身動きする音がして、続いてハァと重いため息が聞こえた。
『……七月三十一日だね』
やっぱり合格通知、届かなかったや。
ぽつりと届いたその声があまりにも寂しそうで、がらんとしていて、私は慌てた。
「終わらせないでね」
数時間前、あんなに二人で終われ、終われと叫んでいたことも忘れて言いすがる。
「終わらせちゃ嫌だよ」
『……しないよ』
返ってきた声は意外にも朗らかだった。
『できないよ。だって、今日は大事な日じゃん』
そう言ってくつくつ笑う彼の声は、もう日中と同じトーンに戻っていた。
『お誕生日おめでとう、夏木さん』
私はきっと、この誕生日を忘れない。
この二十年間ノストラダムスの大予言をずっと覚えていたように。
これからはきっとノストラダムスを思い出すたび、一緒にこの誕生日も思い出すことができるだろう。
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