当夜

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どうやら、声はふたつ隣の部屋からだ。 ケンカになっているのだ。 原因はあの女の嘘のようだ。 話を聞く限りでは、男が女の浮気を問い詰めているようだ。けれど男には決め手となる証拠がないのだろう。女はまったく悪びれるでも、罪を認めるでもなくただ男に怒号を浴びせているばかりだ。 ふと薙野には、証拠がなければどんな嘘も罪にはならないのだと、女がそう言っているかのように聞こえた。 嘘というキーワードに、ただでさえ鬱屈していた心が、よっぽど波打って乱れていく。 薙野はギュッと、服の上から自分の心臓を掴みあげた。 元より薙野は嘘が下手なのだ。 だから、もうこれ以上、自分の感情を騙すことができなくなっていた。 堪らずに薙野はベランダから部屋に駆け込んで、そのまま玄関までを駆け抜ける。 ドアを思い切り開け放そうとして、けれどいったん震える手を掴んで、それを止めた。 すると、今度は廊下の向こうから声がした。 「もう、オマエなんかしらねェよッ。勝手にしろッ」 と。 それはさっきベランダで聞いた男の声だった。 そっとドアの隙間を覗く。 薙野と同じくらいの体格の、細身の男が階段を駆け下りていく姿が見えた。 女が追って出てくる様子はない。 きっと女は部屋の中で悪びれもせずに、騒動の責任を全てあの帰った男に押し付けて、普段通りに清楚を装っていることだろう。 あの赤いコートと共に、だ。 ああ……。 ひょっとしたら、今、あの扉には鍵がかかっていないのではないだろうか。 あの嘘の化身のような女の部屋には……。 すでに薙野の思考は、憎悪にどっぷりと漬かっていたのである。
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