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一時間目の終わりを告げるチャイムが鳴って、あたしは身構えた。これは幻聴だと信じたいけど、聞き慣れた足音があたしのクラスに近付いていた。
「紘奈ちゃ~ん‼」
語尾にハートマークを付けて、あいつはあたしの教室にやってきた。
手には大袈裟なラッピングのされた薄い緑の大きな箱。それを持ったまま、生徒会長のくせにさらさらした金髪を揺らしながらあいつは、あたしが逃げられないように距離を詰めてくる。
人懐っこいその目をあたしに向けないでほしい。毎年毎年、迷惑だってば!
「誕生日おめ……って────────痛っ!」
あたしはあいつの脛を思いっきり蹴って、その隙に教室を出る。とりあえずは女子トイレに逃げる!あたしは、全速力でトイレに駆け込む。
トイレの中には隣のクラスの友人の咲子がいた。手を水にさらしながらあたしをまじまじと見つめる。そんな珍獣を見つけちゃったみたいな顔しないで欲しい。
咲子はあたしの形相と腕時計で日付を見て、あたしの行動の意図を悟ったらしい。ポンと手を叩いて、にんまりと笑う。
「ファイト~」
「ファイト~、じゃないよ!助けてよ!」
「え、ムリだって!榎田くんの執念に勝てる人なんて、紘奈くらいでしょ?」
「いやそんなことないって。咲子もあたしと一緒に逃げてれば勝てるようになるよ!絶対!」
「いや別に勝てるようにならなくていいし」
「えー」
「まあ次のチャイムが鳴るまでは一緒に居てあげるから」
あたしは内側に水滴の付いたマスクを外す。マスクを外すと途端にくしゃみが止まらない。くしゅん!くしゅん!、と連発しても鼻のムズムズは消えないけれど、慌てて新しいマスクを付けた。今日はいつもよりも多めに持って来ているのだ。
「それじゃ検討を祈ってるよ~」
咲子はひらひらと手を振って、あたしとは反対の廊下へと進む。あたしは溜息を吐いて、まだ騒がしい自分の教室のドアを開けた。
それ以降の休み時間には、あいつがやってくることはなかった。大方、購買の荒波に揉まれにいったか、何か外せない移動教室があったんだと思う。でもまあ、あたしにとっては好都合だから素直に喜んでおいた。
四時間目の終わりを告げるチャイムと同時にあたしは弁当を片手に立ち上がった。あいつが来る前に逃げなくては。あたしが後方のドアに手を掛けた瞬間、前方のドアをあいつが開けるのが見えた。
あいつはあたしのクラスメイトに声を掛けられてなにやら笑っている。あたしはその隙に出来るだけあいつと目を合わせないように心掛けて、教室を去る。
そのとき、くしゅんっ!と大きな音を出してくしゃみをしてしまった。それに目敏く気が付いたあいつがこちらを向く。
「あ、ちょっと紘奈ちゃんってば!待ってよ!」
背後であいつが叫んだのと同時にあたしは駆け出す。捕まったら最後、あたしの自由はない。
「おい一戸!廊下を走るなと何度言ったら────」
「すみませんっ」
説教を始めた担任の横をあたしは減速せずに通り過ぎる。担任は続けてあいつにも怒鳴るけど、あいつは担任に軽く謝ってあたしを追いかけ続ける。
相手は成長期真っ只中の男子高校生。あたしはただ走って逃げるだけじゃ追い付かれてしまうし、何より体力を激しく消耗することになる。あたしは階段を降りて、二階にある美術準備室を目指した。
直線二十メートル。ダッシュして突き当り右側の扉を勢いよく開け、身体を滑り込ませる。そして扉を全力で閉めて、その場にへなへなと座り込む。
思ったよりも息が上がっていて、あたしは肩で呼吸をする。やっぱり六月とはいえ夏日にマスクをして走るのはしんどい。マスクの下は水滴がびっしょりだし、もぞもぞして気持ち悪い。予備のマスクどこにやったけ、とリュックを漁っていると奥から欠伸をしながらスレンダーな女性がやってきた。
「今日もご苦労様、一戸」
あたしにそう声を掛けたのは、美術教諭の古閑先生。ちなみに超美人。
「……あいつまじ嫌い」
「ほんと榎田もよく諦めないよねぇ。こんな露骨に拒絶されてんのに」
あたしは溜息を吐いて頭を膝の上に置く。古閑先生は小さく笑って口笛を吹いた。
「一戸、アイスティ要る?」
「……ください」
「素直でよろしい」
あたしは荷物を近くのパイプ椅子に置いて、古閑先生の後を追った。
***
あたしがあいつと初めて言葉を交わしたのは今から四年前。入学式を終えて、中学最初の席があいつの前の席だったことから全ては始まった。
四月中旬のその日、あたしはくしゃみが止まらなくて少しイライラしていた。周りにもうるさいと思われていたかもしれないけれど、あたしは持参していた箱ティッシュを浪費していく。
あたしが鼻をかんでいない時に話し掛ければいいのに、あいつはあたしが鼻をかんでいる最中に話し掛けてきた。
「一戸紘奈ちゃんってすげー可愛いなって思ってたんだよ~」
普通にお世辞だと思った。まあ普通そう思うよね。だってほぼ初対面で一発目の台詞がこれだよ?
それにあたしは中学に入ってから一日たりともマスクをしないで学校に来なかった日はない。マスクをしていないのはご飯を食べているときくらいだと思う。何が言いたいかっていうと、この人はあたしの目元しか見てないのに、可愛いっていうのは変だなって思ったんだ。
あたしは自分を少し贔屓目に見たとしても、自分が世間一般的な可愛い人の中に入るとは思わない。思えない。
黒に近い紺色のショートヘアに、女子にしては高身長なあたしは外見だけ見たらスポーツ少女って感じだと思う。実際はスポーツとは無縁で、ほぼ毎日美術準備室に籠って古閑先生と話しているだけなんだけどね。
だからあたしは男子に可愛いとか言われたことがなかったからなんて返したらいいか分かんなくて、思わず黙っちゃった。
でもあいつは目をきらきらさせて、あたしを見てた。まるで夕飯がすき焼きだって知った時の子供みたいな目。あたしは余計に困惑した。そしたらあいつはこう言ったの。
「惚れた」
「…………え?」
「僕、困った顔でこんな可愛い顔、初めて見たよー‼え、今のもう一回見たいくらい‼紘奈ちゃん最高!大好き!」
正直に言おう。めちゃくちゃ引きました。困った顔を可愛いって言われてもそんなに嬉しくないし。まあ仮に泣いてる顔とか死んでる顔とか言われてたらもっと困るんだけどね。
実はまだこの段階では、あたしはあいつのことを気持ち悪い人くらいにしか思ってなかった。でも次の瞬間、あたしはあいつが大嫌いになった。
「紘奈ちゃんって呼んでいい?僕のことも檜って呼んでいいから!」
「……檜?」
あたしはあいつの名前を呼んだつもりはなかったけど、あいつはこれでもかというくらい嬉しそうに笑った。だけど、あたしの背中を悪寒が走る。
「そうだよ~。いい香りのするあの檜って書くんだ!」
窓は開いていないはずなのに、鼻がむずむずする。追って目も痒くなってきた。
そのときあたしは堪え切れずにくしゃみをした。
それも盛大に。
榎田檜に向かって。
「わーお。紘奈ちゃん大胆だねぇ~」
マスクはしていたけど、あたしは恥ずかしくて、恥ずかしくて、あいつの前から逃げ出した。そっとしておいてくれればいいのに、あいつはなぜかあたしを追っかけてきた。
あたしは走っている最中もくしゃみが止まらなくて、保健室の先生に止めに入ってもらうまで、半泣きしながら逃げ続けた。
その日以来、あいつはあたしにちょっかいを掛け続けた。高校に入ってからは生徒会長も務めているあいつがあたしを追いかけ回すのは、今や見慣れた光景として処理されてしまっている。
それでもあいつと中一以降クラスが一緒にならなかったのは幸か不幸か。あいつはあたしの進学する高校まで調べ上げて、付いてきた。もはやストーカーの域だ。
だけど、あいつはあたしに触ったりしないし、本気で嫌がると追いかけるのも止めるからある程度の良心はあるらしい。
でもやっぱりあたしはあいつが大嫌いだ。
***
「あーそっか、一戸って花粉症だもんねぇ」
古閑先生が楽しげに言った。
あたしは小六の頃から花粉症に悩まされていて、特にヒノキの花粉が一番やばい。ヒノキ花粉が一番飛んでいる四月は本当に地獄だ。鼻水は止まらないし、薬を飲めば眠くなるし、いいことなんてひとつもない。
「特にあいつと出会った頃がヒノキ花粉が一番飛びまくってるときで……。ヒノキってワード聞くだけでイライラしてたから、名前が檜だって知って」
「嫌いになったんだ?」
「まあそういうことです」
「榎田、一戸への執着以外はいいやつなんだけどねぇ。生徒会長だし」
あたしが信じられない、というような目で見ていたからか、古閑先生がいろいろと教えてくれた。熱中症で倒れたクラスメイトの介抱をしたり、美術の授業のあとは毎回シンクを綺麗に洗っていくらしい。
古閑先生はあたしが止めなければ、ずっと話続けそうな雰囲気だった。あたしはすっかり忘れていた。古閑先生があいつのファンだということを。
あいつはこの学校で結構人気者だと咲子から聞いた。あんな金髪ヒノキ野郎のどこがいいのかあたしにはさっぱりだけど。
でも、あいつが六割くらいはいいやつなのはあたしだって知ってる。
「そういえば、榎田って中学生の時から金髪?」
「卒業式の時には金髪でしたよ。先生が卒倒しそうになってました」
それを聴いて、古閑先生はひとしきり笑ったあと、半分になったアイスティにスライスしたレモンを入れた。美術準備室には古閑先生が自費で買ったという冷蔵庫があるのだ。
「去年初めて、一戸と榎田の追いかけっこ見たときは焦ったよ。まあ二回目からはなんとも思わないし、むしろもっとやれっていうか」
「そんなこと言ってるのは古閑先生くらいですよ」
「でもさ、誕生日は去年も激しかったよね。なんでなの?」
「さあ」
そのとき、咲子が軽快にやってきた。咲子はあたしに紙パックのトロピカルジュースを投げた。パッケージを見ると果実の写真の上に油性ペンで“おめでと”と書いてある。
「安上りだなぁ」
「そんなこと言うなら今すぐ榎田くん呼ぶよ?」
「ありがたく頂戴しまーす」
「よろしい」
咲子が近くのパイプ椅子に座る。
「……ちょっと待って、やっぱりおかしくない?」
それを聞いても咲子と古閑先生はお腹を抱えて爆笑している。
あたしたちは美術準備室で一緒に昼ごはんを食べて、またチャイムが鳴る直前に準備室を出る。
「一戸~私は面白い展開、期待してるからな~」
「余計なお世話ですからっ」
あたしが言い終えたあと、くしゃみをすると、閉まりゆくドアの向こうからは笑い声が聞こえた。
***
おかしい。一時間目以来、あいつが一度も来ないなんて変だ。去年も一昨年もあたしが休む暇なく、追いかけてきたのに。
いや、でも来ないなら別に来ない方がいいに決まってる。だって一日中追いかけ回されるのだって疲れるし、今年が久々の平穏な誕生日になるならそれでいい。
放課後をいつも通り美術室で過ごして、六時の下校放送に従って昇降口を目指す。外は薄暗くて雨が降っていた。他の生徒もあまり居なかったので、スムーズに靴を履いて、外に出ようとしたとき。
「紘奈ちゃん」
あいつは下足箱にもたれ掛かるようにして、あたしを見ていた。その声があまりにも弱々しいのでびっくりしてしまった。
「……なんの用?」
「ほんっとにごめんなさい!」
あいつはそう言ってあたしに頭を下げた。あたしは余計に驚いて、言葉を失った。今どうしてあたしが謝られているのか分からなかった。いや、謝ってもらわないと困ることはたくさんあるけど、いつものあいつからはあたしに謝ることが想像できなかったから。
「それは、何に対して謝ってるの?」
「えーっと、いつもちょっかい掛けたりとか、……中一の時に追い掛けまわして泣かせたこととか、」
「泣いてないし」
「えっ、でも」
あたしが睨むとあいつは一度口を噤んで、また話し出す。
「僕のこと、嫌いだと思うけど、僕は紘奈ちゃんのことが好きです」
真剣な表情だった。あいつが生徒会の仕事をしているときのような目。
「そうだね、あたしはあんたのこと大っ嫌いだよ」
そんな泣きそうな顔しないでよ。あたしが悪いことしてるみたいじゃん。
あたしは深く溜息を吐くと苦笑する。
「あのさ、なんで誕生日はしつこいの?」
「……誕生日だったら許してくれるかなって」
そんなバカバカしい理由で毎年しつこく追いかけ回されていたと思うと呆れてしまう。あたしはふっ、と笑った。
「許しはしないよ。……でも今日は傘忘れちゃったから、途中まで一緒に帰ってあげる」
「ほんとに⁉」
「早くしてよね、檜」
あいつは満面の笑みを浮かべて傘を広げた。
あいつの金髪、近くで見たことなかったけど、意外と綺麗な色してる。誉めたら喜ぶんだろうけど、あたしはそんなこと言わないよ。
だって、あたしは榎田檜が大嫌いだからね。
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