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一因
小さい頃はただ人を救える仕事に就きたくて医者になる夢を見ていた。沢山の命を救うのはヒーローのようで格好いいとおもったからだ
沢山の人を救って皆にお礼を言われる世界を願って幼稚園の頃、笹に吊るす短冊に『お医者さんになれますように』と願ったのをよく覚えている。
そんな純粋な夢を少しずつ忘れていく10歳くらいの頃から家庭は崩壊していった、元々家にあまり帰らなかった父は殆ど帰ってこなくなり、たまに帰ってくると甘ったるい香水の匂いがして子供ながらに母親以外の女と居るのは分かってしまったのを覚えている。母親も元々仕事人間のだったため仕事に復帰したあとは父のことを忘れるように仕事にのめり込んで行った
きっと俺は寂しかったのだと思う。毎日誰もいない一軒家で1人過ごすのは。けれど、寂しいと自己主張することも無いまま俺は大人になってしまうのだ
進路を選ぶ高校三年生の時、頭の良かった俺の選択肢は医者か弁護士かだった。神様が与えた無駄な才能だとは思ったが頭だけは良かったので医学部受験もさほど苦労はせず、簡単に大学に入れたのだ。全てが馬鹿らしかった、その後手術の実習をした時は、何故皆が苦労してるか分からないくらい簡単に行ったし、教授や行く先々の病院では天才外科医だともてはやされたし、技術は磨こうと努力すればその分ついてきた。それを1人前と認められるまで数年やってると気づいたら正真正銘の天才外科医と呼ばれるようになっていた。そう呼ばれるようになってからは、努力を止めてただ毎日を過ごしていくだけ、これ以上評価されることはもう無いと感じていたからだ。トップクラスの病院で最高難易度の手術を繰り返しても何も思わない、ただ自分の務める病院はいつも富豪ばかりの患者で逆に言ってしまえばお金さえもっていれば助かる患者もいる、そんな現状にも恵まれた人間と恵まれない人間がいてその中で治療を受けれない患者はお金に恵まれなかった、それだけだと感じていた
まさか自分が恵まれない人間になるとも知らずに
ああ、うるさい
女のヒステリックな叫び声がする、男の不愉快な怒鳴り声がする。まだ少し幼い少年の兄さんと縋る声と、静止を求める兄らしき青年の声
またやってる
物音、何かが割れる音、叩く音
虐待だと気づいたのは家に引っ越してすぐ、伊藤と書かれた表札の部屋から出てきた傷だらけの中学生の少年を見てからだ。
だが、少年は助けを求めることなくまるでごみを見るような目でこちらを見てきた、お前も何もしてくれないんだろうと言いたかったのだろうか。
言葉は交わされなかったので結局何を言いたかったのか分からない、けれど気に入らなかった
そのくらいの歳なら隣人に助けを求めたっていいだろう、甘えを求めていいだろう
皮肉にも大人になった俺は、俺も少年の歳には救いも甘えも捨てていたことを忘れていて、あまりに過去の自分に似たその目が憎いと感じて仕方なかった
ああ、もうこっちは夜勤明けなんだ
こっちは人を救う立派な仕事なんだから少しは気を使ってくれ
うるさいなぁ
寝かせてくれよ
あつい
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