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5年後
- 燃える杭は打ちやすいー5年後ー -
「日野先生〜!患者さんのお母さんからお電話です!今日二回目のパニックを起こしてしまったらしくて、頓服を2回も服用していいか聞いてきてますがどうしますか?」
「大丈夫ですが異変が見られた場合はすぐにでも病院へ来るよう伝えてください」
「分かりました〜!」
あの事件からもう5年が経とうとしている。手に火傷を負い天才外科医の看板を下ろした日野は、精神科医として郊外の病院で働いていた
精神科医としてはまだまだ経験不足でひよっこもいい所だが少しずつ慣れてきたのもあり可愛い弟と穏やかな毎日を過ごせている
前までは彼もその弟も都心に住んでいたので引っ越してきた当初は不便さを感じていたが、慣れてしまえば都会独特の忙しさから離れて穏やかな時間が流れているこの街は治療にも最適で、とても静かに過ごせている。なので今となっては正解だったと思えるほど気に入っていた
精神科医の仕事は自分が外科医として働いていた時に想像していた数倍はハードなものだった
確かにすぐに命と直結するような仕事ではないので責任は減ったし、診察がメインなので手術のような極限まで集中力を使う仕事も少なくなった。だが、患者と関わるというのが自分の想定よりはるかに難しかったのだ
意思疎通が出来ない患者も居るし嘘をいう人や嘘を本当だと思い込む人もいる。そんな人たちの言葉から真実のみを見分け、適切な薬を処方しアドバイスをしたり、支離滅裂な事をいう患者から僅かな情報を頼りに状態を把握する仕事もある。最初のうちは難しく、とても手間取った
錯乱状態や中毒症状の出た患者が暴れだした際には、医師、看護師、事務、全て関係なく男は問答無用で駆り出されたので生傷も体力も増えるようになった。それでも不思議なことにあの頃よりはよっぽと人を救っている実感するのだ
精神的な病気は完治が難しいのが多く、どうコントロールしていくかというのが治療の肝になっている。先天性か後天性、虐待や犯罪被害者まで色々な人が来る中で誰しもが生きづらいからここへ来ているのだ、経過を見て少しずつ生きやすくなっている患者を見ると自分も医師であるという自覚を持つことが出来た。彼自身はいくら経験を重ねようと出来ないことが少なかったので当たり前のことが出来なくなる患者に感情移入できることは無かったが、それでも、自分を頼りにして救いを求めてくる人々を助けるのは呼吸がしやすかった
他人を救い自分も救われる、そうすることで彼は許されていた
昼休憩になるとすぐに端末を開き、【伊藤 謙也 から着信がありました】という弟からの着信通知があるのを確認してほっとする。いつも自分が仕事の時は定刻の時間に着信を入れるようにしているのでそれを確認する時は常に不安なのだ、もし残っていなかったら職場を飛び出して同居している家まで帰ってしまうかもしれない
弟である謙也に今休憩に入ったと連絡を入れてから、謙也が作ってくれたサンドイッチと片手でつまめる唐揚げが入ったお弁当箱を開いて昼食を取り始める。可愛い風呂敷に包まれたお弁当箱の中身も31歳独身が食べるのには少々可愛すぎるものだった。唐揚げに刺さったピックは色鮮やかなものから幼い子が使うような動物物まで入っている。謙也なりに尽くしてくれているのだろうが…なんて苦笑しつつも自分を兄だと慕ってくれる弟の可愛らしさに目を細めて優しさを味わった
ぴこん、と白で統一された静寂な部屋に初期設定のメッセージ通知音が鳴る。すぐに開くと謙也から『猫を見た、可愛かった』なんてメッセージに三毛猫の写真が添えられて送られてきた
良かった、今日は体調が良さそうだな
不安定な時は動物を蹴り飛ばしてしまい、やってしまった自分に対しての罪悪感からまた気を病んでパニックを起こすこともあったし、逆に楽しそうに報告してくる時もあった。それくらい不安定な時があるのだ。なので、猫を可愛がれる余裕があるのなら、少し安定しているのだろう
猫の話や謙也が通っている大学での今日の出来事などをメッセージで聞いていく。本来なら電話したい所だが仕事である以上そんなわけにも行かず、メッセージのやりとりを休憩中はなるべく続けるようにしていた。比較的に精神科医は入院などがない病院では決まった休みがとりやすいが、それでも忙しいことには変わりないので、こうしてメッセージを送り合うことで謙也の様子と経過を観察して次の週の薬やカウンセリングなどの調節を行うのも、医師として兄としての仕事の一つだ
一生懸命、今日あった面白いエピソードを語る弟を微笑ましいと感じながら食事をとりつづけ、休憩が終わる時刻に行ってきますとメッセージを送り再び診察室へと戻るのであった。
雨が降ったり止んだりする梅雨らしい天気に少し妨げられながら帰路について、マンションの玄関の鍵を開けながらじんわりと肌にまとわりつくような暑さに眉を寄せてハンカチで汗を拭った。低気圧も来ているせいかどうも重苦しい
「ただいま…ってあれ?」
靴を脱ぎながら独り言の声量で呟くように帰宅を告げたが、いつもなら目の前にあるリビングの暖かい光が無く、違和感を覚えて顔を上げた。
電気がついてない
それどころか何も聞こえない
短い廊下にいくつかの部屋がありそのどこからも音がしなかった。おかしい
謙也はバイトができる精神状態ではない、友人も自ら関係を作らないようにしているらしく、帰宅後はいつも自宅に篭もっていた
いつパニックになるか分からず、それは当然自分が仕事に行っている時も起こりゆることなので非常事態に備えて端末は勿論、自分のを含めて全ての靴とバックには全てGPSをつけて常に居場所が把握できるようになっている。だが、スマホで確認してもGPSは全て彼自身の家を示していた
いつもなら整える靴も適当に脱ぎ捨て、刺激しないように「謙也ー 帰ったよ」と帰宅を知らせるようになるべく優しく、しっかりとした声で謙也に語りかける
とりあえずリビングに入るとそこに人の気配はない。パニックにならないように、電気をつけないで部屋に入っていく。時刻は19時半、太陽を浴びせられるようにカーテンを全開にしているため月の光が入ってくるが、まだ初夏のこの季節ではすでに外は辺りは真っ暗、そして、月の光は頼りには出来ないほど鈍い光だった。雲が出て、星の光が見えない空模様は逆に不安をかき立てていく
キッチンとソファから始まり至る所まで探したがリビングには居なかった。無意味に点灯する水不足を促す電化製品のランプがさらに恐怖と不安を煽る
もしかして、死んでしまったのではないか
自分がどこかの扉を開けたら自殺した謙也を目にしてしまうのではないか
あのことに気づいてしまったのではないか
じんわりと滲む汗は暑さから来たものなのか緊張から来たものなのかは分からない。ただ、手の甲全体の火傷が酷く熱を持って痛みだしたのは低気圧が原因ではないことは確かだった
戒めだ、これは。逃げるなという
救え 救え 救え
何度も自分ではない自分がそう告げてくる
そうだよ、分かっている。救わねばならないのだ
これからも「謙也の兄」として嘘をつき続けて、謙也を救わねば
ふう、と小さく溜息を付く。本来の謙也の兄がどんな人物だったのかは分からない、けど酷く優しい人間だったのはよく知っていた
強ばる顔を無理やりほぐそうと口角を上げて笑顔を作る、あの人なら今こんな怖い顔なんてしないはずだ
自分を奮い立たせるようにぱん、と顔を軽く叩きもう一度「謙也」と弟の名前を呼んだ
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