君のその赤い頬

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 幼い頃、僕、広司は祖母の家の隣のアパートに住む由紀とよく一緒に遊んだ。家の近くに保育園がなかったあの頃、共働きの両親は通園に時間をかけることを嫌がり、近所に住む祖母へ僕を毎日預けた。幼稚園から祖母の家に帰って来た後、違う校区で遊べる同い年は由紀だけだった。  僕達の遊び場は近所の土手だった。今思えば幼児だけで川の側で遊ぶのは危険だが、家事に時間のかかる祖母しかいない僕と、一日中家にいる由紀を見守る人は誰もいなかった。時計の読み方も知らない僕達に遊びを止める時間を教えてくれたのは、顔を赤く染める夕日だった。  今、僕は久しぶりに由紀の姿を見ていた。  小学生になって校内の学童保育に通うようになった僕は、同性のクラスメートと遊ぶようになり、祖母の家には土日しか行かないようになった。学校の違う由紀とは徐々に疎遠になり、僕が小学校三年の頃、母親の結婚を理由に由紀は遠方に引っ越していった。  最後の挨拶の時、姉ができると頬を赤くして笑っていた由紀。でも今は、青白い顔で祖母の家の縁側にじっと座って、庭の白いアジサイを見ていた。その姿は、幼稚園から帰って来る僕を待っていた幼い頃のようだ。  高校三年になった僕は、また祖母の家に頻繁に来るようになった。中学の頃から両親が不仲になり、実家は居心地が悪い。元々体が弱かった祖母は入院しているが頭ははっきりしており、僕にこの家をくれると約束してくれているので、受験勉強をするついでに家の手入れをしている。  今日も塾が休みなので、明日の朝まで勉強するつもりで祖母の家に来ると、門の前で膝を抱えて隣県の高校の名が入った鞄の上に座っている女子がいた。この辺りでは見かけない制服を来た女子は、ジッと僕の顔を見て呟くように言った。 「ヒロちゃん……白いアジサイ見たい」  同年代で祖母の家に白いアジサイがあることを知っているのは一人だけだ。 「由紀……どうしたんだ」 「…………」  久しぶりとか元気だったかと言うよりも先に口から出た言葉に、由紀が答えを返さなかった。幼い頃も青白かったが、僕を見て笑っていた由紀の顔は今、やはり青白く無表情だ。  心配になった僕は、由紀の手を引いて立ち上がらせ、そのまま家の茶の間へ誘導した。  僕が台所からお茶を持ってくると、由紀は縁側に座っていた。重い空気を感じながらも、明るい声を出すことも由紀から何があったのか聞き出すことも出来ない僕は、暗い表情でジッとアジサイを見ている由紀の側に麦茶の入ったマグカップを置いた。 「お姉ちゃんが帰ってくるの……」  しばらくして、アジサイを見ながら由紀はそう呟いた。無意識なのか、腕を擦りながら。 「お姉ちゃん、離婚で甥っ子連れて帰ってくるの」 「ふうん」 「……だから、四月には家を出て行けって。働けって」 「そうか」 「うん……」  引っかいたような痕がいくつもある腕を擦る音より、由紀の声は小さい気がした。何を言ったらいいのか分からない僕は、相槌を打ちながら話を聞くことしか出来ず、由紀も喋らなくなり、二人で庭をずっと眺めていた。 「送る」  東の空に紺色が混ざり始めた。僕は、近くのスーパーに弁当を買いに行くついでに由紀を駅まで送ることにした。由紀は一瞬体を硬直させたが、ゆっくりと振り向き、テレビの上にある時計を見た後、ちいさく頷いた。  玄関の鍵を閉めた後、由紀の鞄を左手に持った僕は、右手で由紀の手を引いた。なんとも言えない気持ちを僕も、きっと由紀も持て余しながらトボトボと歩いた。  しばらくして、昔遊んだ川に架かる橋の側に来た。此処を渡ったら駅にたどり着く。徐々に遅くなる由紀の足取りに気づいていた僕は、橋を渡らず、その横から土手の下へと降りていく事にした。緩やかだが思いがけない坂に、由紀の足が縺れそうになったけれど、あえて強引に川原に引っ張った。  水の近くで立ち止まった僕は、由紀の手を離し、鞄を地面に降ろした。そして、手のひらに入る小石を二つ拾うと、一つを由紀に渡した。 「投げよう」 「…………?」 「投げよう、昔みたいに」  僕は不思議そうに首を傾げている由紀にそう言った後、対岸に向かって小石を投げた。水の上を滑らす訳でもなく、ただ、対岸に向けて。小石は、無事に誰もいない対岸にたどり着き、転がって土手の近くで止まった。川に落ちた幼い頃とは違って。それを見た僕は、また小石を投げた。それを何回も続けていると、やがて一つの小石がポチャンと川に落ちた。  昔の僕達は、嫌な気持ちになると、ひたすら小石を川に投げていた。幼稚園で同級生がお母さんに抱きついている姿を見たり、授業参観に誰も来ない時があったり。モヤっとした時は、必ずといっていいほど、小石を投げだ。投げ続けていると、モヤモヤは無くならないが、不思議と我慢できるようになるのだ。大きくなって、対岸で歩行者に当たりそうになってから辞めていたけれど。幸い、今は誰もいないから、遠慮なく投げていった。由紀も昔みたいにポチャポチャと川に石を投げていた。二人で延々とそれを続けた。  やがて、太陽が夕日に変わり、僕達の顔を赤く染めていった。遊びを止める時間だ。 「帰ろう」 「うん」  僕の言葉に頷いた由紀の表情は、少し柔らかくなっていた。再び由紀の鞄を持とうと膝を曲げだ僕は、側にキレイな形をした小石がある事に気づいた。鞄を左に持ちながら、右手でそれを拾った僕は、由紀に差し出した。 「受け取れ」 「う……ん」  自分の手のひらに乗った小石を由紀は懐かしそうに眺めていた。それを見ながら、僕は由紀が昔住んでいた部屋を思い出した。由紀の母親の物ばかりに溢れている部屋の片隅にあった、小さなダンボールの中には、土手で拾った小石や枝やたまに流れてくる木の実が入っていたことを。 「それ、今度来るときに持ってこいよ」  由紀は目を大きく開きながら、僕の顔を見た。 「……また来ていいの?」 「いいに決まってるだろ。空いてる部屋があるからそこに置けばいい。ついでに私物も持ってこれば。布団も予備があるし」  母親が使っていた部屋の荷物を押入れに入れようと僕が考えていると、由紀は徐々に顔色が良くなっていき、目をあちこち動かした。 「で……でも、迷惑かけるだろうし……周りにどう思われるか……」  最後のほうは何を言っているか聞こえなかったが、僕は由紀の心配を笑い飛ばしながら言った。 「気にするなよ、友達だろ。気晴らしに泊まる場所くらい提供するって」  それを聞いた由紀は、暫く硬直した後、夕日よりも赤い頬の、怒っていると分かる顔で僕を睨みつけた。 「勘違いするような事言わないでよ!」  大きな声が川原一帯に響いた。  その後、駅に着くまで怒り続けていた由紀の手は、僕の渡した小石をしっかりと握り締めていた。
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